るるの日記

なんでも書きます

水戸藩・水戸藩への密勅が届いた理由は薩摩藩の謀だった❗️

2021-04-03 19:39:20 | 日記
水戸藩にとっては、ありがた迷惑とも言うべき勅書がなぜ下されたのか。そもそも幕府は大名が直に朝廷に接触することを許していない。ましてその逆、朝廷が勅書を一大名に下すなどというのは前代未聞のこと

●いきさつ
ことの起こりは日米修好通商条約の調印である。幕府の条約調印は、天皇からの勅許を得られなかったが、幕府は無断調印する

条約の無断調印に孝明天皇は「朕はあれども無きも同様のこと」と激怒。譲位の意思を関白らに示す。譲位の理由は【無許可調印に加えて大老が御三家の上京を拒否されたこと。ロシアなどとも条約を結ぶと伝え聞いたこと】を挙げた

【天下人民のためを思って命じたことが実行されないのは自分の不徳の致すところ、譲位の意向を幕府に伝えるように】天皇は命じた

公卿たちは【無許可調印を詰問する勅書】を作成し、こともあろうにこれを水戸家に下すことをきめた。よって天皇は譲位を取り下げた

しかし幕府寄りの関白九条尚忠はこれに反対して四公会議を欠席。このため勅書は正規の手続きを踏んでいない【密勅】とされたのである

本文は確かに【公武合体】【徳川家扶助】を訴えている。だが以上の経緯を見ればこれが朝廷と水戸藩の距離を縮める作用をするのは明らかなこと

♦️公家が密勅降下に動いたのは、志士たちによる朝廷工作の結果でもあった

井伊による条約調印という事態に対して、水戸藩では藩ゆかりの【薩摩藩士・日下部伊佐治】に依頼して京都工作に派遣した

【日下部は西郷吉之助から藩主斉彬の武装上京計画を聞かされていた】。そして梅田雲浜らの志士たちとも計って、幕府だけでなく【水戸の斉昭にも勅書を下して幕政改革に当たらせるように公家要人に入説していたのだ】

水戸藩・幕府を差し置いて、朝廷から水戸藩へ密勅下された

2021-04-03 18:45:35 | 日記
安政5年8月始めから彗星が出現。20日にはひときわ夜空に光の尾を引いていた。当時江戸ではコレラが猛威を振るっていたから、彗星は凶事の徴と受けとられた

8月17日孝明天皇の勅書が水戸藩に届いた。水戸藩は大騒動になる。水戸藩の状況が極めてセンシティブなこの時期に【密勅の降下】が火に油を注ぐことになる。勅書の扱いをめぐり、内戦へと水戸藩を引き裂いていった。密勅降下は吉事にして凶事となったしまった

文面は
※第一に違勅調印を叱責。これははっきりしている
※第二に水戸をはじめとした今回の処分を危ぶんでいる。その上で今後の幕政は外様含めた諸大名との衆議により進めることを求めるものだった
※全体として【徳川家扶助のため尽力せよ】との建前を講じた勅書である
※【公武合体】と繰り返されている

この勅書がどうして水戸藩を、井伊直弼を震撼させたのか?

勅書には水戸藩宛の別紙が添えられており、「勅書を列藩一同に伝達せよ」との命令であった。以降この別紙の要請が水戸藩を振り回すことになる。幕府による勅書の回達ならともかく、幕府を差し置いて水戸藩が諸藩に勅書を通達するなど前代未聞である。まさに水戸の陰謀と井伊直弼には受けとられただろう

かくて回達か否かに端を発しこの勅書の扱い方が藩を引き裂いていくことになる

水戸藩・斉昭急登城「井伊直弼に腹を切らせろ」

2021-04-03 17:51:31 | 日記
安政5年7月5日
斉昭【閉居謹慎の処罰】を受けた
理由は【(将軍)の思召】とあるだけの素っ気ない文章である
謹慎中は近親の面々その外の「総ての書通往復等」が禁止

慶篤・登城禁止処分
尾張藩慶恕(よしくみ)・隠居慎み
越前藩春嶽・隠居急度慎み
慶喜・登城禁止

【水戸の陰謀】に対する井伊直弼の懲罰であったのは明白である。とはいえ今回の処罰の直接のきっかけとなったのは、斉昭たちの【急登城事件】である

通商条約の【違勅調印】を聞かされて、24日指定日でもなく、アポイントメントもとらずに、斉昭は慶篤・尾張の義恕を連れて登城。井伊直弼との面会を要求した
「。。今日は井伊に腹切らせ申さしずては退出致さず。。」

斉昭を4時間待たせたうえで井伊は面会に応じた。斉昭としては【違勅調印問題】で追いつめたうえで、直に将軍家定に慶喜の継嗣を飲ませようとしたが、この期に及んで井伊が従うはずはない

家定はすでに危篤状態。明日には新将軍を公示する段取りだった



水戸藩・井伊直弼の徳川斉昭への敵愾心は根深い

2021-04-03 16:42:46 | 日記
次いで次期将軍の継嗣問題は

★斉昭・松平慶永・島津斉彬らは
英名な一橋慶喜を望み

★井伊直弼らは
将軍の従兄弟、紀州の慶福(よしとみ)を継がせようとしていた

井伊に言わせれば、近縁を除外して英明を選ぶのは外国の風習であり、皇国の美風にあらずという建前だった
本音は、慶喜は斉昭の子であり、天下が水戸家のものになる危機必須という判断があった

こうした両派の暗闘は、将軍家定の病状悪化と共に、にわかに表面化する。抗争の舞台は京都、朝廷へ

★一橋派
旧知の公家たちに働きかけ、楽勝ムードになっていた

★紀州派
井伊の腹心・長野が関白に工作し、猛然と巻き返しに出る。「斉彬は、石河幹忠を使って前関白から天皇へ、現将軍愚昧の説を吹き込んでいる。隠居の身でありながら裏へ回って過分の内奏をした、卑劣千万なる御所為にて御座候」と
【水戸陰謀説をひろめた】

結果3月22日朝廷の沙汰書交付の運びとなったが、関白九条の独断で将軍後継の条件「年長・英明・人望」が削除された

これを逆手にとって、井伊の大老就任、新将軍指名、条約調印へと事態が進んだ。以上を顧みて、井伊直弼の徳川斉昭に対する敵愾心には根深いものがあったことに気づかされる

井伊は言う「内患一洗のうえ、外患の処置に取り掛かるの所存」と
【内患一洗】がまず斉昭らの処罰となったが、これは始まりにすぎなかった。続いて息も切らず水戸藩そのものに【一洗】の刃が向けられる

安政の大獄である



水戸藩・お公家さんの下剋上

2021-04-03 15:56:14 | 日記
朝廷では調印不賛成の孝明天皇が広く意見を求めたが、意見は割れた。攘夷をめぐる公家たちの分裂、というより異論百出、バラバラの現状が露呈したのである

何しろ、国の政治問題など長いことタッチしたこともない公家たちだから、異論をまとめる制度も機能しない。なまじ政治問題に関与を即されて、公家たちの右往左往が始まる

●当時の朝廷の政務処理
※天皇のもとに、関白・左大臣・右大臣の三大臣が摂関家から選ばれる

※政治決定は朝議によってなされるが、朝議は【議奏】・【武家伝奏】から構成される。関白、大臣は朝議に参加できないが、重要問題では意見を陳述する

※決定は天皇の裁可を得て職事(蔵人)に下ろされる

今回の日米修好通商条約調印問題では公式の朝議の外部まで意見を求めた。この問題に関する関白九条直忠の意見は【幕府一任】であり、その趣旨で幕府への勅書案が作成された

ところが、これを契機に中小級の公家たちの【大衆蜂起】が引き起こされた。中山忠能ら中心に連署して異議を唱えた
★蛮夷の国との交際は神国を汚辱するもので祖先に申し訳がたたない
★幕府は朝廷を盾にして諸藩を抑えようとしているが、かえって信義を失う恐れがある
★外国の要求を飲み続ければ戦わずして降参することになる。幕閣をはじめ諸大名の意見を集めたうえで御沙汰を出すべきではないか

こうして関白の勅書案に反対の公家88人が連署して抗議の声を上げた
お公家さんたちの下剋上である

幕府一任の関白案は修正を求められ、結局天皇も徳川御三家や諸大名の意見徴収に固執して、幕府の条約調印は勅許が得られなかった

だが勅許なしで、日米修好通商条約は調印された。6月19日のことである。天皇の意向を無視してまで、井伊は開国にふみきった

そのことで、【尊王攘夷運動】という観念的なものが、一挙に具体的イメージを結んだ。攘夷はすなわち尊王の主張になるのだ