水戸藩にとっては、ありがた迷惑とも言うべき勅書がなぜ下されたのか。そもそも幕府は大名が直に朝廷に接触することを許していない。ましてその逆、朝廷が勅書を一大名に下すなどというのは前代未聞のこと
●いきさつ
ことの起こりは日米修好通商条約の調印である。幕府の条約調印は、天皇からの勅許を得られなかったが、幕府は無断調印する
条約の無断調印に孝明天皇は「朕はあれども無きも同様のこと」と激怒。譲位の意思を関白らに示す。譲位の理由は【無許可調印に加えて大老が御三家の上京を拒否されたこと。ロシアなどとも条約を結ぶと伝え聞いたこと】を挙げた
【天下人民のためを思って命じたことが実行されないのは自分の不徳の致すところ、譲位の意向を幕府に伝えるように】天皇は命じた
公卿たちは【無許可調印を詰問する勅書】を作成し、こともあろうにこれを水戸家に下すことをきめた。よって天皇は譲位を取り下げた
しかし幕府寄りの関白九条尚忠はこれに反対して四公会議を欠席。このため勅書は正規の手続きを踏んでいない【密勅】とされたのである
本文は確かに【公武合体】【徳川家扶助】を訴えている。だが以上の経緯を見ればこれが朝廷と水戸藩の距離を縮める作用をするのは明らかなこと
♦️公家が密勅降下に動いたのは、志士たちによる朝廷工作の結果でもあった
井伊による条約調印という事態に対して、水戸藩では藩ゆかりの【薩摩藩士・日下部伊佐治】に依頼して京都工作に派遣した
【日下部は西郷吉之助から藩主斉彬の武装上京計画を聞かされていた】。そして梅田雲浜らの志士たちとも計って、幕府だけでなく【水戸の斉昭にも勅書を下して幕政改革に当たらせるように公家要人に入説していたのだ】