るるの日記

なんでも書きます

水戸藩・幕府、政治問題は朝廷に関与させない慣例を破る

2021-04-03 15:09:52 | 日記
安政5年、幕府は朝廷から【条約調印の勅許】を得るため、老中・堀田を上京させた。国論統一のためには勅許が得策と判断したからだ。従来の慣行からして朝廷は従うほかないと読んでいた

これが裏目に出た
【政治問題は朝廷に関与させない】という徳川幕府の長年の慣例は、この時点でなし崩し的に破られたのである

水戸藩・斉昭無謀な振舞い「ハリウスの首をきれ」

2021-04-03 14:57:09 | 日記
安政4年6月23日、斉昭は幕政参与を辞任したが、そこに持ち上がったのが、米領事ハリスの江戸城登城事件。斉昭父子が「神祖家康以来の盛徳にかかわる事態」だと抗議

だがハリスは10月21日登城して将軍に謁見。次いでハリスは老中堀田正睦と談判6時間に及んで条約調印の説得に努めた。大名たちの意見も調印やむなしとなる

こうした中、斉昭は独断で建言を提出(11月15日
※ハリスの要求を許可すれば、国難を引き起こす
※内地での貿易は拒否、自ら浪人や百姓、町人の二、三男を引き連れて米国に渡り出貿易にあたりたい
※百万両の貸与を願い大砲を製造して、御所の警備にあたりたい
云々、、、
何やら支離滅裂である

さらに年末
説得に訪れた川路・永井を前に暴言
「自分の建言が容れられなかった。備中(堀田)、伊賀(松平忠固)は腹を切らせ、ハルリスは首をはねてしかるべし。切ってしまえ」

「今後のことは此方の知らぬことなり。勝手にすべし」

といった塩梅である。立場を逸脱した無謀な振る舞いは、斉昭反対派の警戒心を高めてしまう


水戸藩・💥水戸藩士の心性に火をつけた井伊直弼💥

2021-04-03 14:27:29 | 日記
小金屯集は何に抗議し
いかなる目標を揚げて集まったのか

同じ時期安政5年に水戸藩には難題が折り重なって降りかかってきた
※日米修好通商条約調印(6月19日)
※新将軍公告(6月25日)
※斉昭・慶篤の処分(7月5日)
※密勅降下(8月19日)
※小金屯集(8月~9月)

一見バラバラの事件だが、水戸藩にとっては全てが繋がっていた。【尊王攘夷】といえば水戸藩から発して幕末志士共通のスローガンとなった思想だが、上の諸事件は尊王攘夷と敵対するものだった。水戸藩では、藩に染み付いていたこの心性が改めて刺激され、激しく反発を招くものとなった💥
井伊直弼の大獄に抗議して始まった藩をあげての叛乱であった

水戸藩・憤死とは怒りのあまり死ぬこと

2021-04-03 14:10:18 | 日記
小金占拠を続ける者たちには藩から一人一両から五両支給された

しかしこの人数が江戸へ暴発でもしたら、藩の命運にかかわる。藩としては懸命に鎮撫(占拠の解散)をしなければならない。江戸をめざす者、押しとめる者、共に必死なのである。鎮撫しているのか煽動しているのか、その境い目は本人たちの内でも揺らいでいただろう

小金占拠の殺気だった雰囲気を示すものに、藩士たちの相次ぐ自刃がある。幕府に対する憤死である
9月8日 梶八次郎・小金で割腹
同日 野村信一郎・高浜で割腹
これに続いて切腹7名
未遂7名

小金勢は慶篤の達しと、斉昭からの内々の諭(さとし)があり19日には帰藩することになったが、ここでも議論は紛糾

家老太田が鎮撫に努めたが
「志願の趣旨が何も解決されていない」と反論続出。斉藤という藩士が
「要求断固貫徹‼️」
を声高に主張

太田逃げ腰になる
斉藤は短刀掴み太田に迫る
たまたま臨席していた側用人・久木久敬が立って満座を睨みつけ言い放った「君公もし容れたまわずば家老衆も縊死(首くくる)の外なかるべし」
これには一座呆然としてしまい、家老たちは皆退席した

小金屯集は一応の沈静化を見た。だが水戸の叛乱はまだ始まったばかりに過ぎない

水戸藩・江戸への一直線パイプライン

2021-04-03 13:29:40 | 日記
水戸街道は水戸城から江戸まで約三十里、ほぼ直線で結ばれている。

安政5年(1858)8月~9月にかけて江戸への出口にあたる水戸街道の小金宿を水戸藩の土民・領民が占拠した【第一次小金屯集】
江戸に出て幕府に訴えようという藩士と農民である。士分の者は江戸に入ったが、それ以外の者たちはここに留められた

何かことがあれば街道沿いに江戸に上がろうとするのは水戸民にはなじみの行動形態であった。水戸街道そのものが民衆の蜂起と占拠の場所だった

領地からパイプが延びて江戸城下に繋がっている水戸藩は、逆に江戸幕府が、日本全国の政治が、このパイプを通して水戸城下に逆流してくることでもあった

江戸幕府とのこの近さが幕末動乱期の水戸藩を翻弄していくことになる