■【死ぬことが究極の救いである】というのは、【浄土往生】ということだ。蓮如から信長の時代にかけての一向宗のエネルギーの源泉は、そこにあった。そこにしかありえない
■けれども【死後の救済という観念は、たんなる幻想にすぎない】というこだわりが、私たちの内に働く。しかしそんな生半可な理性に、何の根拠もないことがすぐにわかる。今日の私たちは死の一点をめぐって、行方定まらぬ闇の中で右往左往しているからだ
そのような煩わしさから自由になるためには、ただ1つ。死んでこの世を立ち去ることしかないと、思わないわけにはいかない。長寿達成と先端医療の発展が私たちをそこまで追い込んでいる。生の究極の場面が死へ傾斜する。背中合わせ、一体となっている
そのジレンマの度合いは、中世においてもっと激しく強烈だった。中世は死の思想が深化した時代だった
■蓮如の御文より
【在家止住の罪深き身が、阿弥陀の本願を信じ、後生の一大事とおもい、信心决定して、誠に極楽治定とこころえ、、】
阿弥陀如来の本願に身をまかせて、極楽往生を確信することが、【後生の一大事】である、といっている
■【歎異抄】においては、この死(往生)への関心がほとんど忌避され抑圧されている。
【安養の浄土は、こいしからずさふらう】
死は少しも恋しくないという。そこには死(往生)こそが救いである、という考え方がまったく見られない
唯円(歎異抄を実質的に書いた人)の【歎異抄】と、蓮如の【御文】は、決定的に対立している