るるの日記

なんでも書きます

法華経行者・藤井日達上人、禅研究家・鈴木大拙の共通する信念「私は死んだ後浄土に参ります」

2021-04-22 07:34:25 | 日記
■鈴木大拙
「私は死んだあと、御浄土に参ります」と言われた。その言葉を耳にしたとき不思議な気がした
なぜなら鈴木大拙は当時、禅仏教研究の大家であり、禅の実践家だったからだ

その鈴木大拙が浄土往生をごく自然に信じているというのが、意外でもあり新鮮でもあった

■日蓮宗・藤井日達上人
上人は百歳の長寿を全うした、厳格なる修業者であり、法華経の行者であったが、その上人が言われた
「私は法華経を信じ、日蓮上人を敬っているが、その法華経にも日蓮上人の著作にも浄土のことが出てきません。それが日蓮宗の弱点かもしれない。私は死んだ後は浄土に参ります」

この二人の先達は、浄土への共通の信念を吐露していた

親鸞思考の迷路による蓮如、唯円の亀裂

2021-04-22 07:14:53 | 日記
親鸞最後の着地点
自然の浄土
自然法爾

■自然浄土
無為自然の浄土
自力のはからいを捨て、無心になったとき顕れてくる浄土

■自然法爾
念仏三昧の生活の中で、自分の心身が自然に仏の状態になっている

生死の二元的世界を越え、姿形ない【無上仏】の状態に、限りなく近づいていること

■死(往生)という絶対について
★親鸞
あいまい、両義的

★唯円の歎異抄
死の影を消し、死の重荷から目をそらす

★蓮如
両義から、死こそ救いという命題を抜き、そこに熱い生命を吹きこんだ

親鸞の死生観

2021-04-22 07:00:52 | 日記
親鸞は死(往生)こそ救い、と積極的には主張されていない。といって死や往生への観念が欠如している、というものでもない

親鸞はあえてその命題を立てなかった。【往相・還相】という死生観を持っていたからだ

★往相は、この世からあの世への死の道
★還相は、あの世からこの世へ再生する現世復帰の道
そこには、死こそ救いという思考は前面にあらわれていない

死と生その両者の間を羅針盤の針のようにゆれている。親鸞の最後の着地点は【自然の浄土】【自然法爾】にあった

蓮如【御文】と唯円【歎異抄】の対立・死に救いはある!ない!

2021-04-22 06:45:49 | 日記
■【死ぬことが究極の救いである】というのは、【浄土往生】ということだ。蓮如から信長の時代にかけての一向宗のエネルギーの源泉は、そこにあった。そこにしかありえない

■けれども【死後の救済という観念は、たんなる幻想にすぎない】というこだわりが、私たちの内に働く。しかしそんな生半可な理性に、何の根拠もないことがすぐにわかる。今日の私たちは死の一点をめぐって、行方定まらぬ闇の中で右往左往しているからだ

そのような煩わしさから自由になるためには、ただ1つ。死んでこの世を立ち去ることしかないと、思わないわけにはいかない。長寿達成と先端医療の発展が私たちをそこまで追い込んでいる。生の究極の場面が死へ傾斜する。背中合わせ、一体となっている

そのジレンマの度合いは、中世においてもっと激しく強烈だった。中世は死の思想が深化した時代だった

■蓮如の御文より
【在家止住の罪深き身が、阿弥陀の本願を信じ、後生の一大事とおもい、信心决定して、誠に極楽治定とこころえ、、】

阿弥陀如来の本願に身をまかせて、極楽往生を確信することが、【後生の一大事】である、といっている

■【歎異抄】においては、この死(往生)への関心がほとんど忌避され抑圧されている。
【安養の浄土は、こいしからずさふらう】

死は少しも恋しくないという。そこには死(往生)こそが救いである、という考え方がまったく見られない

唯円(歎異抄を実質的に書いた人)の【歎異抄】と、蓮如の【御文】は、決定的に対立している

一向宗を支えた蓮如の劇薬・救いとは、死ぬことと見つけたり

2021-04-22 06:15:54 | 日記
蓮如はなぜ、阿弥陀如来の名のもとに、民衆を1つに集めることができたのか。門徒の大軍を組織し、本願寺という大教団に仕立てあげることに、どうして成功したのか

一向一揆勢は石山本願寺という城に拠って武器をとって戦った。一向宗という名の得たいの知れない怪物が守護神の役割をはたしていた

この怪物の中には戦闘用の劇薬
【死ぬことこそが究極の救いである】という観念があった。この劇薬の作用によって、一向宗という怪物が誕生し、異常な力を発揮しはじめる