るるの日記

なんでも書きます

千年たっても響いてくる、親鸞の逆説した言い方

2021-04-24 13:48:12 | 日記
●法然
「罪人もまた浄土に生まれる、まして善人は」
誠にまっとうで、当たり前すぎて響かない

●親鸞
「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」
ひっくり返した言い方は、心にひっかかり響いてくる。許されているように感ずる

■なぜ親鸞が法然の言葉を逆に説いたかというと、法然の浄土教的考え方は、一度親鸞の中で壊れていたし、同時に親鸞の中のものの考え方も壊れてしまった。そしてまた組み立てていく作業が親鸞の中でなされたから、逆説的な言い方が自然に出てきた

親鸞は「俺は破壊僧だ。もう僧侶はやめた。半俗半僧(非僧非俗)だ」と言っているから壊れたのは確かだ

■逆説の言葉は衝撃力を感じ、思想の時間を、信仰の時間を延長させている
時間の延長とは、例えば、法然の言葉は響かず9回で終わりだが、親鸞の逆説な言葉には延長戦があり、その延長戦を見たくなる、ようなかんじ



一遍と空也上人の浄土

2021-04-24 09:48:27 | 日記
■一遍
「一切のものを全部放棄(執着をもたず)して名号を願えば、願ったその場所、その瞬間がすでに浄土なんだ
「吸い込む息、出る息、それ自体がもう死であり、また生であり、浄土であり、彼岸なんだ。一念名号で浄土を会得したその後は、余計な生き方だ」

どこにも執着をもたなくなったとき、それは即浄土を実現している。浄土は名号を称えたその場所に融合してしまう

■一遍の傾倒した空也上人
「住処なし、執着なし、寺なし、歩けば歩いてる街中、行くところ全部が自分の道場、修行場。それ以外はどこでもない」

親鸞は浄土や死後の世界の実体はないと考えていた、法然はあると考えていた

2021-04-24 09:28:39 | 日記
親鸞は浄土に実体的にはあるとは考えなかった(法然は実体的にあると考えていた。死んだら行く場所と考えていた)が、至心に阿弥陀仏を信じて念仏を称えれば必ず浄土へ行けるという理念は守っていた

至心に阿弥陀仏を信じて念仏すれば、生きてるうちは「正定聚」という位に就くが、浄土にはすぐ行けないよ。「正定聚」とは、浄土を見通せ、浄土へすぐ行ける場所。【実際の死と、実際の生の中間】のところにある
それは、浄土を実体としてあることはできないということ。死後の世界もあるとすることはできない、ということ

よって人間が浄土に行くという意味は、死ななくても信じて念仏すればすぐ行ける、生死の中間にある場所(意識の世界か🤔)



「念仏を称えていれば善いことなんてしなくていい」わかっていても、できないのが凡夫

2021-04-24 08:46:03 | 日記
みなさん悩むことはあるでしょ。私もあります

親鸞は、「念仏を称えていれば善いことなんて何もしなくていい、善いことをしたらもう浄土へは行けないよ」と、ほんとは言っています

だけど、私は念仏を称えるだけでおまえは何もしなくていいのか?善いことにも知らんふりするのか?と人に言われたくないし、自分が人からそう思われたくないと思っていたりして、へんな気持ちになります

しかし、親鸞はきっぱり言う
「そんな気持ちになる必要はない。だがそんな気持ちになったとしてもそれが凡夫のだらしなさで、誰にでもあるんだ」

親鸞は人間の心が手探りで行ける、上、下、善、悪、全部ふりきっている、位からすべてを見ていたのです



浄土ではなく、自分の煩悩の故郷を選んでしまう

2021-04-24 08:26:46 | 日記
親鸞は言う
「ほんとうならば、浄土へいくのは喜ばしいことなんだが、凡夫の浅ましさでちっとも喜ばしい気持ちにならない。なぜなら【自分の煩悩の故郷の方が懐かしく、安養な浄土にはなかなか行く気にならないから】

それは、よくよく煩悩が燃えたぎっている兆しで、ますます弥陀が私たちを救いとってくれることの証だよ」