るるの日記

なんでも書きます

新政府方針【天皇はすべての土地と人民を支配する】

2021-06-09 11:35:20 | 日記
■皇極天皇[中大兄皇子(天智天皇)の母)]は、蘇我氏が倒されると、直ちに弟の軽皇子に位を譲った

孝徳天皇新政府は、中大兄皇子が皇太子について組織した
政治は随や唐のやり方を取り入れた

■中大兄皇子は【天皇はすべての土地と人民を支配するのだ】ということを明確に示し、神に誓いをたて、年号を大化と定めた

天皇のもとに
左大臣・阿倍内麻呂
右大臣・石川麻呂
内臣(うちつおみ)・中臣鎌足
をあてた



蘇我氏のわがまま

2021-06-09 10:58:13 | 日記



■622年聖徳太子が亡くなると、蘇
我氏の一人舞台となる

推古天皇が後継ぎを決めないで崩御すると、蘇我蝦夷は聖徳太子の子・山背大兄王(やましろおおえのおう)を遠ざけ、自分の推しである舒明天皇に決めてしまった
641年舒明天皇が崩御すると、皇后を天皇の位につかせた

■やがて蘇我蝦夷の子、入鹿も朝廷政治に加わると、蘇我親子の勢いは、天皇をしのぐようになる。自分たちの墓を、天皇家の墓にまねて作らせた
これに山背大兄王が怒ると、蘇我入鹿は軍隊を出して聖徳太子の一族を滅ぼした
蘇我氏は前から聖徳太子や山背大兄王をこころよく思っていなかった

■この頃、派遣されていた留学生(遣唐使)が帰ってきて、大勢の人々が外国の情報や、学んだ知識を聞きにつめかけた

留学生から新しい知識を吸収した豪族の一人、中臣鎌足は、かねてから蘇我氏を倒そうと考えていた。鎌足は舒明天皇の子、中大兄皇子(天智天皇)に目をつけた
中大兄皇子も蘇我氏のやり方に強い不満を持っていた

中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏を倒す計画をたてた。蘇我氏一族だが、蘇我入鹿と仲の悪い石川麻呂を味方に引き入れた

■蘇我入鹿は大きな儀式でもない限り、屋敷には出ない暮らしをしていた

中大兄皇子と中臣鎌足は、朝鮮の遣いが日本に訪れたのを機会に「朝鮮の遣いが朝廷に挨拶をする儀式」を行うことにし、入鹿を皇居に呼び出し、騙し討ちをする作戦をたてた

■645年6月12日実行の日がきた
儀式の席についた入鹿は、中大兄皇子、中臣鎌足らに切りかかられ、天皇の前でとどめを刺された

父蘇我蝦夷は軍勢が来る前に、八敷に火をかけ自殺した。こうして権勢をほこった蘇我氏の本家は滅んだ




奈良へ行きたい

2021-06-09 10:19:59 | 日記
■法隆寺
奈良県斑鳩

聖徳太子が父・用明天皇の志を継ぎ、その冥福を祈って建てた法隆学問寺

聖徳太子が建てた創健当時のものではなく、少しずれた位置にあった


7世紀後半の天智天皇の時に火災で焼け、8世紀初めに現在の法隆寺の位置に再建

■石舞台
奈良県明日香村
蘇我馬子の墓


■釈迦三尊像
法隆寺金色堂
聖徳太子の冥福を祈って、仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)に作らせたもの。釈迦如来は63せんち






蘇我氏と帰化人

2021-06-09 10:01:26 | 日記
■蘇我氏は6世紀に初登場し、満智が朝廷の財政の仕事をする帰化人の役人を取り締まる役についた

満智に続く氏上の名前は、韓子(からこ)、高麗(こま)という朝鮮系の名前であった

外国の地名を名前にしているほどだから、蘇我氏は仕事の上だけでなく、血のつながりも帰化人に近いようにみえる

大和朝廷のしくみが充実し、事務的にも技術的にも、帰化人の力が必要となり、新興の蘇我氏の力が強まった

■仏教が伝来し、欽明天皇は新しい仏教を信仰すべきかどうかを豪族たちにたずねた

蘇我稲目は、諸外国が信仰している仏教を、わが国だけが信仰しないのはおかしいと主張

物部尾輿や中臣鎌足は、天神地祇を祀るわが国で、外国の神を信仰すれば、神の怒りをまねくと反対

試みに蘇我氏に仏像を拝ませたところ、疫病が流行したので、物部氏は仏像を難波の堀江に捨てた
その後も、【神か仏か論争】がつづき、ついには実力闘争になる

587年、蘇我馬子はついに物部守屋を攻め滅ぼし、政治上の権力を握る
蘇我氏の勢力が盛んになるとともに、仏教も広く信仰されるようになった

■蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇の妃として皇室へ入れた。その2人が生んだ皇子が、用明天皇、崇峻天皇となり、蘇我氏は天皇に極めて近い親戚となった

蘇我馬子は仏教を盛んにするため、百済から大勢の技術者をよんで、立派な寺を作った(飛鳥寺)

悲願であった任那支配の回復を狙って、新羅に対して大規模な軍事行動に出た

しかし、蘇我馬子の独裁政治は、自分の立てた崇峻天皇の暗殺という事態にまで発展

そこで敏達天皇の皇后であり、蘇我氏の血をひくカシキや姫が推古天皇となり、聖徳太子や蘇我馬子と共に仏教を中心とした、飛鳥文化の花開く

3世紀半ばから150年間の日本と朝鮮半島との交渉

2021-06-09 09:22:47 | 日記
3世紀半ばから約150年間、日本と中国との交渉記録はないが、朝鮮半島の国々とは頻繁に交渉していた

■天理市の石上神宮には【七支刀(しちしとう)】がある。鉄製、両刃づくりの剣で刀身は60センチ。
刀身には【泰和四(369)年に、百済王が、倭王のために作った】と記されている
日本書紀にも百済王から七枝刀(ななつさやのたち)が送られてきたと書かれている

■高句麗の【好太王の碑】には、「朝鮮半島に進出した倭の軍が、391年に百済・新羅を破り、高句麗の軍を激しく破った」と書かれている

大和朝廷はこの頃、日本の大部分を支配するようになり、朝鮮半島の南部に進出していき、加羅国を中心に、任那日本府という役所を置いた

■5世紀に入ると朝鮮半島では高句麗が強くなり、百済を圧迫。倭国の勢力も衰える

その頃、倭国は中国に遣いを送ったことが、中国の歴史書に書かれている

そこには倭の五人の王が登場する。これが大和朝廷のどの天皇にあたるか、いろんな説が立てられている

仁徳天皇(または履中天皇)、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇と言われている。これらの天皇は巨大な前方後円墳を作る力を持つ