■蘇我氏は6世紀に初登場し、満智が朝廷の財政の仕事をする帰化人の役人を取り締まる役についた
満智に続く氏上の名前は、韓子(からこ)、高麗(こま)という朝鮮系の名前であった
外国の地名を名前にしているほどだから、蘇我氏は仕事の上だけでなく、血のつながりも帰化人に近いようにみえる
大和朝廷のしくみが充実し、事務的にも技術的にも、帰化人の力が必要となり、新興の蘇我氏の力が強まった
■仏教が伝来し、欽明天皇は新しい仏教を信仰すべきかどうかを豪族たちにたずねた
蘇我稲目は、諸外国が信仰している仏教を、わが国だけが信仰しないのはおかしいと主張
物部尾輿や中臣鎌足は、天神地祇を祀るわが国で、外国の神を信仰すれば、神の怒りをまねくと反対
試みに蘇我氏に仏像を拝ませたところ、疫病が流行したので、物部氏は仏像を難波の堀江に捨てた
その後も、【神か仏か論争】がつづき、ついには実力闘争になる
587年、蘇我馬子はついに物部守屋を攻め滅ぼし、政治上の権力を握る
蘇我氏の勢力が盛んになるとともに、仏教も広く信仰されるようになった
■蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇の妃として皇室へ入れた。その2人が生んだ皇子が、用明天皇、崇峻天皇となり、蘇我氏は天皇に極めて近い親戚となった
蘇我馬子は仏教を盛んにするため、百済から大勢の技術者をよんで、立派な寺を作った(飛鳥寺)
悲願であった任那支配の回復を狙って、新羅に対して大規模な軍事行動に出た
しかし、蘇我馬子の独裁政治は、自分の立てた崇峻天皇の暗殺という事態にまで発展
そこで敏達天皇の皇后であり、蘇我氏の血をひくカシキや姫が推古天皇となり、聖徳太子や蘇我馬子と共に仏教を中心とした、飛鳥文化の花開く