るるの日記

なんでも書きます

古事記は出雲への鎮魂慰霊の祝詞である

2021-11-01 16:58:25 | 日記
■【古事記の神代巻】は
大半を出雲神話が占めている
スサノオがヤマタノオロチを退治して、オオクニヌシが国譲りをするまで出雲を舞台に物語は展開する
古事記は出雲のために書かれたものである

しかし古事記の出雲神話は、
【出雲国風土記】には、まったく記されてはいない。出雲国造が編纂した風土記の神話は〈国引き〉のみである。これが出雲みずからの認識なのだ。だがこの国引き神話は、古事記、日本書紀にはまったく登場しない

出雲神話は、出雲が認知していないから、出雲の神話ではない、、
出雲国ではない出雲国。現在の島根県ではない他の地域の出雲、、、
ただ間違いないのは

【古事記】は出雲のために書かれた
【日本書紀】は大和朝廷が、大和のために書いた
【出雲風土記】は出雲国造が、出雲族のために書いた

■古事記は鎮魂慰霊として書かれた。古事記は日本書紀や風土記と異なり、朗唱のための言霊である。語りべが特別の機会に朗唱して、限られた者だけがその音律音韻を全身全霊で受け止めた。本質的には祝詞と同じである

■日本神話は、史実を比喩表現に置き換えたもので、すべて背後に史実が存在する。史実を覆い隠すために知恵の限りを尽くされている。苦い薬を子供でも飲み込みやすいように工夫されている。ファンタジーが苦い真相を覆い隠しているのだ

天皇にとっての怨霊神の双璧【オオクニヌシノミコト&蘇我入鹿】

2021-11-01 15:33:06 | 日記
■出雲族の氏神はスサノオノミコトであり、オオクニヌシノミコトではない。スサノオノミコトは出雲族が祀り、オオクニヌシノミコトは大和朝廷が祀った(祀らせた)。オオクニヌシノミコトは大和による大和のための名である

スサノオノミコトと
オオクニヌシノミコトの祀り方は異なる。祀り方は大和朝廷の監視下で設定された。そもそも大和朝廷が祭祀を放任するはずがない。その時代、祭祀は政治の根幹だったのだから

■659年、「出雲国造に命じて、神の宮を修繕させた」とある〈日本書紀〉

神の宮は神魂神社(かもす神社)であり、出雲国造が祀職として25代まで奉仕し、出雲大社の元宮ともされている。ところが、神魂神社は〈出雲風土記〉にも〈延喜式神名帳〉にも記録されていない。本来この社は国造の邸宅として始めるられたからだ

■655年の日本書紀に不思議な記録がある「空中に龍に乗る者あり。。葛城山より馳せて、生駒山へ隠れる。。午の時に至りて、住吉の松嶺の上より、西に向いて馳せ去る」
何やら優雅な趣を感じさせるが、本来必要な解説がない

〈扶桑略記〉には、日本書紀のこの記録を【蘇我豊浦大臣之霊也】と解説されている。蘇我入鹿の怨霊だ

■645年蘇我入鹿の殺害は皇極天皇の面前で行われた。斬られた入鹿はその瞬間、皇極天皇に向かって叫んでいる「私に何の罪があるのか」と。死ぬ瞬間、罪があると思っていたならば、こんな言葉は吐かないだろう。完全無実を確信してこその言葉である
斉明天皇は狼狽して奥へ引っ込んでしまう。助けようとしない天皇を見て、入鹿は天皇が承知した上で実行されたものと思って死んだ

■そして冒頭の勅命「神の宮の修繕」につながる。これは、蘇我入鹿の怨霊を祀るためだ。天皇の面前で殺された蘇我入鹿は、朝廷にとって最大の怨霊となり、その御魂を慰霊鎮魂するため蘇我氏の氏祖の地、出雲に祀らせた

【神魂神社はイザナミを主祭神とし、イザナギを配祭するとしているが、これは中世末期からのもので、それ以前の祭神は不明である】

■神魂神社は豪壮な本殿に対して
拝殿は簡素であり、境内も狭い
参道は拝殿から真っ直ぐ東に下ると、すぐに行き止まりになり、直角に北へ曲がる。怨霊神を祀る参道は曲がっている。怨霊神は真っ直ぐしか進めないからだ。つまり出られなくするためである
だから、神魂神社に祀られる神は怨霊神ということになる。むろんイザナギ、イザナミのことではない。それ以前の古き神、、蘇我入鹿を祀っていた。そして、イザナギ、イザナミの神に変更された中世末期に入鹿の神霊は国造によって出雲大社へ遷された

■オオクニヌシノミコトと
蘇我入鹿は
天皇にとって怨霊神の双璧

■蘇我入鹿の本名は蘇我太郎
入鹿という名は、中大兄皇子と中臣鎌足が殺害後につけた名である
神魂神社、出雲大社において祀らせた蘇我入鹿の神霊が、なんという神名かは今となってはわからない

🤔神魂神社について、旧き祭神は渡来系の神だと、ルルはブログに書いた記憶がある。熊(こも)の神霊(す)。ミホススミ神も関係があったか、、?


出雲国造家・千家国麿さんと、高円宮典子さん

2021-11-01 14:04:38 | 日記
■出雲国造家は出雲族ではない。つまり国津神の系譜ではなく、天津神の系譜である

■出雲国造家は崇神天皇の時代に
ウカツクネ(アマテラス第二子のアメノホヒノミコト11世孫)が国造に任命されてより、氏族名を出雲氏と名のり、出雲国造の称号と、出雲大社の祭祀権を、氏族の長が代々受け継いできた
つまり、皇族の裔(すえ)が任命されて出雲氏を名のり、以後代々世襲している

■しかし出雲国造家は、出雲族の宗家のように、オオクニヌシノミコトの直系の子孫であるかのように、出雲大社でオオクニヌシノミコトという祖先神をお祀りしているかのように認識されている。なおかつ天皇家とも一族であるかのようにみえる。むろん出雲族そのものと天皇家は相容れないもので共存成立するはずはないのだが、出雲国造は天津神の系譜なので共存成立します

■出雲国造家は、南北朝期に兄弟間で争いがあり、千家家と北島家の両家に分裂。以後両家は共に出雲国造を名のり、出雲大社の祭祀も分担する。この状態は幕末まで続くが、明治に入ると千家氏が世襲で務めるようになる

■現、権宮司の千家国麿氏が、高円宮典子女王を妻に迎えた。千家・北島家ともに歴代当主は皇室との関わりは浅からぬものがあり、明確に縁戚関係がある。出雲大社の宮司家は格別である

■歴史的にも出雲国造は、朝廷において、他の国造とは明らかに異なって特別な扱いであった。代替りの際に、新任の出雲国造は「出雲国造神賀詞(いずもくにのみやっこかんよごと)」という祝詞を宮中において奏上する。これはまさに特別である

♦️このような特別待遇は、なぜ行われるのか?
【出雲大社においてオオクニヌシノミコトを祀り続けるゆえである】

日本国の礎は、オオクニヌシノミコトが建設した国を奪うことによって成立したが、国を奪われ、生命も奪われたオオクニヌシノミコトは、怨霊神、祟り神になるに十分すぎるものだった

そこで、壮大な社殿を建設し、オオクニヌシノミコトの神霊を慰め続けることにしたのだ。その重責を担うことになったのがアメノホヒノミコトの子孫たちである

古来、この地方の地主神として篤く信仰されていたスサノオノミコトの神威霊威をも借りて、これ以上ないほどの封じ手を動員している

出雲国造がオオクニヌシノミコトを封じ続けることは、皇室の安泰に寄与することになる。歴史上、時折行われる皇族と出雲国造家の婚姻はその報奨でもあるようだ

熱田に祀る剣は草薙剣ではない

2021-11-01 13:04:02 | 日記

■天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という元の名を捨てて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)という新しい名にしたのはなぜか?

天叢雲剣は伊勢神宮にて、斎宮・ヤマトヒメからヤマトタケルに授けられた。【天皇の許可があれば、神器を継承できる】。ヤマトタケルはこれを携帯し東征に向かうが、結果的に天叢雲剣は熱田宮に収まる

熱田社に祀る際に、尾張氏が【草薙剣】という呼び名に変えたことになっている。

■尾張氏
尾張氏は、古代から全国に勢力を広げてきた【海人族】の中心的氏族で、壬申の乱では【鉄剣・刀】を大量に調達して、天武天皇の実現に寄与した
剣こそは尾張氏の存在証明であるのだ

■尾張氏は、ヤマトタケルの死後
天叢雲剣を朝廷に返上しなかった。そして草薙剣という新たな呼称をつけて、みずから祀った。それがヤマトタケルの遺言であったという理由で、、はたしてそんな勝手が許されるのか?
尾張氏が朝廷の許可を得て行ったという記録はどこにもない

これほどの重大事についての公式記録がない、、こと自体が不自然なのである

♦️答えは一つ
朝廷の許可は不要
朝廷が非難する必要もない
なぜなら、熱田に祀る草薙剣は、天叢雲剣ではないからだ


■ヤマトタケルは大活躍をしたが、その働きに神剣は何の働きもしていない。なぜなら草薙剣とは「草を薙ぎ払う」ことにしか使われていないからだ。これが草薙剣の能力であり、草薙剣は鎌刀である

玉も鏡も剣も、独自名がついている。理由があって名はついている。名には最大の情報が集約されている。

■名に相応しい刀剣が存在する
これを【素環頭大刀】という

鉄製・内反りの素環頭大刀は各地から出土している。内反り素環頭大刀は中国で製造されたものが、弥生時代に日本にもたらされ、やがて日本でも造られるようになったが、古墳時代から国産刀は直刀になっていき、内反り素環頭大刀は造られなくなった

■神器は国産でなければならない
草薙剣も国産でなければ神器の資格はない。ところが、、
熱田に伝わる実見記録によると、熱田の剣は、渡来の銅剣〈両刃〉である。これを草薙剣としている

■天叢雲剣は出雲由来で、スサノオがヤマタノオロチの体内から発見したものだ。スサノオがヤマタノオロチの尾を切ったら、刀の刃が欠けた。これはスサノオの剣よりも、草薙剣の方が硬度が高いということだ。

天叢雲剣は鉄刀であり、出雲の玉鋼(たまはがね)を鍛造したもの。繰り返し折りたたみ、打ち延ばしていく日本刀独特の鍛造による千枚鋼という構造の刀剣こそは、天叢雲剣である

スサノオは鉄刀ならではの
【叢雲】の刃紋を見いだし「つむはの太刀あり」と述べている
「稲穂を刈り取るための大きな刃物」という意味

鎌に似た、内反り鉄刀
素環頭大刀のことだ。スサノオは珍しいものだと思い、アマテラスに献上する。「草なぎの大刀」と名づけて

発見の段階から、草薙剣は、草薙剣と呼ばれていたのである。名づけ親はスサノオである

■熱田の剣は、草薙剣ではない。尾張氏がもともと保有していた伝来の剣で、熱田社はそれを祀る尾張氏の氏神社であった。渡来氏族・尾張氏の祖先が大陸江南から持って来た証なのである





神器【勾玉】はオオクニヌシノミコトの依り代で、球体の霊魂を現している

2021-11-01 10:10:06 | 日記
■勾玉(まがたま)は、出雲の玉造が代表的産地だった。勾玉は元はオオクニヌシノミコトの依り代として祀られていた。

■そして崇神天皇は杵築(きつき)の大社(おおやしろ)〈出雲大社〉に収められている、オオクニヌシノミコトの依り代であり、出雲族にとっては究極の神宝を献上させた崇神天皇は後に出雲に鏡を祀らせた。これは重大な祭祀変更である。鏡はアマテラスの依り代であって、勾玉の代わりにはならない
この策によって出雲族は完全に天皇の臣下となったということだ
この時に崇神天皇に献上された勾玉が、神器・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)となった
八尺瓊勾玉は、現在、公式には
皇居の剣璽の間に安置されている

♦️勾玉は霊の機能を象徴する。球体の霊魂を現している