「おい、俺だ、わかるか」オレオレ詐欺のような電話だが、すぐに声の主はわかった。「マスター元気ですか」と答えると「俺、いま病院だ。入院している」と返ってきた。転んで骨折したらしい。ぼくが当麻に引っ越して以来の電話だから一年半ぶりだ。毎年数首の短歌を載せた年賀状を頂いていたが今年はそれがなかったので心配していた。昨年末に長年介護をしていた奥様を送られたということだった。長く看たので悔いはないと言っていたが、老々介護なのでマスターのことも心配だった。骨折は痛かろうが、「生きていてよかった」と言った。もうひとりになったので、若い看護婦がいる病院のほうがいいなんてほざくぐらいだから安心した。
電話の主は元「大衆酒場PUBふじ」のマスターである。僕が京都で詩に関わることができ現在に至っているのはマスターのおかげなのである。店は京都市の河原町通姉小路西入ルにあった。三条通りの一筋上の通りで南側は本能寺の墓地だった。
京都に引っ越して、知らない町の知らない店にふらっと入って、カウンターで飲んでいたらマスターが話しかけてくれた。何回か通ううちに詩の話をするようになって月に一回詩人の会があることも知った。厨房の棚にはたくさんの同人誌や詩集が並んでいた。有名な詩人も立ち寄る店だったのである。マスターとは詩について、色々な角度から話した。そのうち自分の詩をマスターに見てもらうようになり、僕に合う人ということで、詩誌「群狼」の宮内憲男氏に会わせてくれて、氏がはじめる詩誌「藪の中」の同人に加えて頂いた。同人には季村敏夫氏や藤本直規氏らがいた。僕は城陽市の宮内邸に通った。
安西均氏、三井葉子氏をお招きしての宮内邸での新年会に同席したこともあった。安西さんと三井さんの踊りは楽しかった。近くには独特の言語感を持つ角田清文氏もいて、那珂太郎さんの詩の魅力についてよく教えて頂いた。
中江俊夫さん、大野新さん、近江詩人会の人達、河野仁昭さんらと語り合えたのもこの店であった。
佐々木幹郎、清水哲男、清水昶、東京の詩人たちも多く訪れている。
本庄ひろし氏が東京から来てくれて意気投合した。そのうち彼が池井昌樹氏を連れてきて一緒に飲んだ。池井さんが今のようにスリムになる前だ。
ある日僕の下宿にマスターから電話がかかってきた。「田村隆一さんが来ているからすぐに来い」と。ぼくはすぐに向かった。マスターはカウンターの田村さんの横に席を空けておいてくれた。ぼくは横に座ったが緊張していて何を話したのか、何か話せたのかまったく憶えていない。ただ体も大きくとてつもなく風格のある人だった。
また或る年の秋、京都大学の学園祭の時季だった。「藪の中」の宮内さんのおかげで、楽友会館に吉増剛造氏を迎えて朗読会をやることが出来た。「吉増剛造とα人」でα人とは宮内さんと僕で、この時の吉増さんの朗読が僕の朗読を変えた。
その後「藪の中」は終刊し、僕は母の介護で静岡に帰ったのだが、此間に「PUBふじ}は店を閉めた。マスターは悠々自適の道に入った。以来、年賀状だけでの音信となっているが、ご縁は続いている。マスターは僕のことを破滅型と言ったが僕の The Artists` Life はマスターと出会えたことによって始まった。マスターが居たから今の自分がある。「治ったら行くわ、俺も歳やからな」なので、近々こちらから出向かねばなるまい。相変わらず大きな声である。河原町三条のアサヒ・ビヤホールで賑やかに話した日を思い出した。
電話の主は元「大衆酒場PUBふじ」のマスターである。僕が京都で詩に関わることができ現在に至っているのはマスターのおかげなのである。店は京都市の河原町通姉小路西入ルにあった。三条通りの一筋上の通りで南側は本能寺の墓地だった。
京都に引っ越して、知らない町の知らない店にふらっと入って、カウンターで飲んでいたらマスターが話しかけてくれた。何回か通ううちに詩の話をするようになって月に一回詩人の会があることも知った。厨房の棚にはたくさんの同人誌や詩集が並んでいた。有名な詩人も立ち寄る店だったのである。マスターとは詩について、色々な角度から話した。そのうち自分の詩をマスターに見てもらうようになり、僕に合う人ということで、詩誌「群狼」の宮内憲男氏に会わせてくれて、氏がはじめる詩誌「藪の中」の同人に加えて頂いた。同人には季村敏夫氏や藤本直規氏らがいた。僕は城陽市の宮内邸に通った。
安西均氏、三井葉子氏をお招きしての宮内邸での新年会に同席したこともあった。安西さんと三井さんの踊りは楽しかった。近くには独特の言語感を持つ角田清文氏もいて、那珂太郎さんの詩の魅力についてよく教えて頂いた。
中江俊夫さん、大野新さん、近江詩人会の人達、河野仁昭さんらと語り合えたのもこの店であった。
佐々木幹郎、清水哲男、清水昶、東京の詩人たちも多く訪れている。
本庄ひろし氏が東京から来てくれて意気投合した。そのうち彼が池井昌樹氏を連れてきて一緒に飲んだ。池井さんが今のようにスリムになる前だ。
ある日僕の下宿にマスターから電話がかかってきた。「田村隆一さんが来ているからすぐに来い」と。ぼくはすぐに向かった。マスターはカウンターの田村さんの横に席を空けておいてくれた。ぼくは横に座ったが緊張していて何を話したのか、何か話せたのかまったく憶えていない。ただ体も大きくとてつもなく風格のある人だった。
また或る年の秋、京都大学の学園祭の時季だった。「藪の中」の宮内さんのおかげで、楽友会館に吉増剛造氏を迎えて朗読会をやることが出来た。「吉増剛造とα人」でα人とは宮内さんと僕で、この時の吉増さんの朗読が僕の朗読を変えた。
その後「藪の中」は終刊し、僕は母の介護で静岡に帰ったのだが、此間に「PUBふじ}は店を閉めた。マスターは悠々自適の道に入った。以来、年賀状だけでの音信となっているが、ご縁は続いている。マスターは僕のことを破滅型と言ったが僕の The Artists` Life はマスターと出会えたことによって始まった。マスターが居たから今の自分がある。「治ったら行くわ、俺も歳やからな」なので、近々こちらから出向かねばなるまい。相変わらず大きな声である。河原町三条のアサヒ・ビヤホールで賑やかに話した日を思い出した。