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蔡夫人と蔡瑁の姉弟が、じつはきょうだいではないという話に、孔明はおどろきつつも、どこかで納得していた。
襄陽城には何度も出入りしていて、蔡夫人や蔡瑁のいる場に居合わせたことがある。
そもそも、蔡夫人はあまり蔡瑁に似たところのない『姉』であった。
あらためてよくかんがえてみれば、顔立ちだけではなく、立ち居振る舞いや言動、雰囲気、考え方などに共通するものが見えない。
それどころか、以前から蔡夫人の蔡瑁にたいする目つき、妙に甘えた様子、体に触れる頻度などが気になっていたほどだった。
「他人だったというわけか。どこぞの豪族の妾を奪い、みずからの『姉』に仕立てて劉州牧に差し出したというわけだ。
しかもそればかりではなく、蔡瑁と蔡夫人との関係は男女のもので、それがずっとつづいている」
「吐き気のするような話だが、事実だ」
「斉の襄公《じょうこう》…このことだろうか」
「なんだ、宋の襄公のことではなく?」
孔明は、程子文が話していたことを趙雲に説明した。
「なるほど、斉の襄公は妹に手を出したけだものだが、蔡瑁は『姉』に手を出した。そのことを言っていた、というわけだな」
「おそらくは」
と言いつつ、孔明は考え込んだ。
同時に、昨晩おそくまで一緒だった劉琮の風貌が頭に浮かんでくる。
利発で、年齢よりずっと落ち着いた立派な少年。
かれの風貌は、劉表より蔡瑁によく似ている。
あってはならないことだが、劉琮が蔡瑁の子ということも考えられるのではないか。
「花安英は、どうして二人の関係を知っていたのだろうな」
「それがよくわからん。どうもあいつの口ぶりからすると、これをネタにして、好きなように蔡瑁たちを料理しろと言わんばかりだった」
「料理ねえ。たっぷり料理してやりたいところだが」
孔明はめずらしく、かゆくもない頭髪を軽く掻いた。
「だめだ、この話は使えないよ。密会の現場を見たとあなたと花安英が訴えたところで、蔡瑁たちはシラをきってしまうだろうし、もう口裏合わせもしているだろう。
あなたとしても、二人の密会の証拠のようなものを何も持っていないのだろう?」
「たしかにそうだが。しかしこれだけの話を」
趙雲が言いかけたのを、孔明は手ぶりでやめさせた。
「もったいない、という気持ちはわかる。だが、男女の醜聞を持ち出して相手を追い込むやり方はわが流儀ではない。
それに、蔡一族を劉州牧の周囲から一掃したとしても、まだほかに張允《ちょういん》などの劉琮どのを担ごうとしている連中はいる。劉琮どのの優位は変わらないよ」
「やはりだめか」
「あなたもとんだ目に遭ったな。目を洗いたい気分だろう」
「目も耳も洗いたい。聞いた話の内容こそちがうが、許由《きょゆう》の気持ちがはじめてよくわかった」
許由は聖天子の堯《ぎょう》から、天子の位をゆずりたいとの要請を受けた男だ。
しかし、その堯の申し出を「汚れた話を聞いた」と言って、耳を洗い、断ったとされる。
天子の位を譲りたいなどという話ならともかく、複雑な不倫の現場を見せられた趙雲は、たしかに自分が汚れたような気分になっているだろう。
「ところで、おまえのほうはどうだった。劉琮どのからは斐仁の尋問の許可はもらったのだろう?」
「それについては問題ない。劉琮どのはしっかりしていらっしゃる。質問は的確だし、聞き上手で、話し手が話したくなるような雰囲気を作ることにも長けている。
まぜっかえしたりしないし、退屈そうな顔もみじんも見せない。どんな話題にも興味を示した。ほんとうに利発なのだろうな」
「こう言ってはなんだが、おっとりした劉琦どのとは真逆だな」
「そうだな。しかし、気になることがある」
「どんな。斐仁のことか」
「劉琮どのは、やけに娼妓ごろしについて詳しく聞きたがった。襄陽でも同様の事件が起こると困るから聞いておきたいというのだ」
「殊勝な心掛けだな」
「いや、口では事件を防ぐためとは言っていたが、なにかこう、興味を持ちすぎる気がしたな。
ほかの話題より、根掘り葉掘り聞かれた。女たちの殺され方から、新野の人々がどんな受け止め方をしているのかまで、すべてだ」
「襄陽ではめったに起こらないような事件だから興味がわいた、とか」
「襄陽でも殺人は起こる。とはいえ、たしかに娼妓ごろしは動機が明確ではない妙な殺しだから、興味をおぼえたのかもしれぬ。だが、なにか引っかかる」
その『なにか』の感覚を明確にことばにできないことに、孔明は軽いいらだちを覚えた。
同時に、思い出されるのは、新野で斐仁とともに行動して殺された女について、趙雲が言った『激情が感じられた』という言葉だった。
孔明は女たちの遺体をじかに見ていないので、どれほど悲惨なありさまだったのかは知らない。
だが、趙雲は女の遺体を見て、そこに下手人の『激情』を見たという。
そんな異常な事件に、高い関心を寄せる劉琮。
まさか、なにか心当たりでもあったのだろうか。
昨晩の宴での劉琮の様子を思い出すが、ほろ酔いでご機嫌の劉琮の顔しか思い出せない。
あの表情に、憂いや恐れはどこにもなかった。
「斐仁への尋問はいつから」
「昼ごろ、迎えが来るはずだ。それまでわたしたちはゆっくり朝餉《あさげ》をとることにしよう」
「迎えというと、まさか蔡瑁ではないだろうな。あいつの顔をまともに見られる気がしない」
「気の毒だな、子龍。同情するよ。わたしも似たようなものさ。はたして、蔡夫人と蔡瑁をいままでどおりの顔で見られるかどうか。
ああ、いやだ、いやだ、こういう生臭い話は苦手なのに」
言いつつ、孔明は部屋の窓を開け放ち、空気を入れ替えた。
夏のぬるい風が部屋に入ってくる。
高い蝉の声とともに、花園から漂う強い花の香りがほのかに漂ってきた。
つづく
蔡夫人と蔡瑁の姉弟が、じつはきょうだいではないという話に、孔明はおどろきつつも、どこかで納得していた。
襄陽城には何度も出入りしていて、蔡夫人や蔡瑁のいる場に居合わせたことがある。
そもそも、蔡夫人はあまり蔡瑁に似たところのない『姉』であった。
あらためてよくかんがえてみれば、顔立ちだけではなく、立ち居振る舞いや言動、雰囲気、考え方などに共通するものが見えない。
それどころか、以前から蔡夫人の蔡瑁にたいする目つき、妙に甘えた様子、体に触れる頻度などが気になっていたほどだった。
「他人だったというわけか。どこぞの豪族の妾を奪い、みずからの『姉』に仕立てて劉州牧に差し出したというわけだ。
しかもそればかりではなく、蔡瑁と蔡夫人との関係は男女のもので、それがずっとつづいている」
「吐き気のするような話だが、事実だ」
「斉の襄公《じょうこう》…このことだろうか」
「なんだ、宋の襄公のことではなく?」
孔明は、程子文が話していたことを趙雲に説明した。
「なるほど、斉の襄公は妹に手を出したけだものだが、蔡瑁は『姉』に手を出した。そのことを言っていた、というわけだな」
「おそらくは」
と言いつつ、孔明は考え込んだ。
同時に、昨晩おそくまで一緒だった劉琮の風貌が頭に浮かんでくる。
利発で、年齢よりずっと落ち着いた立派な少年。
かれの風貌は、劉表より蔡瑁によく似ている。
あってはならないことだが、劉琮が蔡瑁の子ということも考えられるのではないか。
「花安英は、どうして二人の関係を知っていたのだろうな」
「それがよくわからん。どうもあいつの口ぶりからすると、これをネタにして、好きなように蔡瑁たちを料理しろと言わんばかりだった」
「料理ねえ。たっぷり料理してやりたいところだが」
孔明はめずらしく、かゆくもない頭髪を軽く掻いた。
「だめだ、この話は使えないよ。密会の現場を見たとあなたと花安英が訴えたところで、蔡瑁たちはシラをきってしまうだろうし、もう口裏合わせもしているだろう。
あなたとしても、二人の密会の証拠のようなものを何も持っていないのだろう?」
「たしかにそうだが。しかしこれだけの話を」
趙雲が言いかけたのを、孔明は手ぶりでやめさせた。
「もったいない、という気持ちはわかる。だが、男女の醜聞を持ち出して相手を追い込むやり方はわが流儀ではない。
それに、蔡一族を劉州牧の周囲から一掃したとしても、まだほかに張允《ちょういん》などの劉琮どのを担ごうとしている連中はいる。劉琮どのの優位は変わらないよ」
「やはりだめか」
「あなたもとんだ目に遭ったな。目を洗いたい気分だろう」
「目も耳も洗いたい。聞いた話の内容こそちがうが、許由《きょゆう》の気持ちがはじめてよくわかった」
許由は聖天子の堯《ぎょう》から、天子の位をゆずりたいとの要請を受けた男だ。
しかし、その堯の申し出を「汚れた話を聞いた」と言って、耳を洗い、断ったとされる。
天子の位を譲りたいなどという話ならともかく、複雑な不倫の現場を見せられた趙雲は、たしかに自分が汚れたような気分になっているだろう。
「ところで、おまえのほうはどうだった。劉琮どのからは斐仁の尋問の許可はもらったのだろう?」
「それについては問題ない。劉琮どのはしっかりしていらっしゃる。質問は的確だし、聞き上手で、話し手が話したくなるような雰囲気を作ることにも長けている。
まぜっかえしたりしないし、退屈そうな顔もみじんも見せない。どんな話題にも興味を示した。ほんとうに利発なのだろうな」
「こう言ってはなんだが、おっとりした劉琦どのとは真逆だな」
「そうだな。しかし、気になることがある」
「どんな。斐仁のことか」
「劉琮どのは、やけに娼妓ごろしについて詳しく聞きたがった。襄陽でも同様の事件が起こると困るから聞いておきたいというのだ」
「殊勝な心掛けだな」
「いや、口では事件を防ぐためとは言っていたが、なにかこう、興味を持ちすぎる気がしたな。
ほかの話題より、根掘り葉掘り聞かれた。女たちの殺され方から、新野の人々がどんな受け止め方をしているのかまで、すべてだ」
「襄陽ではめったに起こらないような事件だから興味がわいた、とか」
「襄陽でも殺人は起こる。とはいえ、たしかに娼妓ごろしは動機が明確ではない妙な殺しだから、興味をおぼえたのかもしれぬ。だが、なにか引っかかる」
その『なにか』の感覚を明確にことばにできないことに、孔明は軽いいらだちを覚えた。
同時に、思い出されるのは、新野で斐仁とともに行動して殺された女について、趙雲が言った『激情が感じられた』という言葉だった。
孔明は女たちの遺体をじかに見ていないので、どれほど悲惨なありさまだったのかは知らない。
だが、趙雲は女の遺体を見て、そこに下手人の『激情』を見たという。
そんな異常な事件に、高い関心を寄せる劉琮。
まさか、なにか心当たりでもあったのだろうか。
昨晩の宴での劉琮の様子を思い出すが、ほろ酔いでご機嫌の劉琮の顔しか思い出せない。
あの表情に、憂いや恐れはどこにもなかった。
「斐仁への尋問はいつから」
「昼ごろ、迎えが来るはずだ。それまでわたしたちはゆっくり朝餉《あさげ》をとることにしよう」
「迎えというと、まさか蔡瑁ではないだろうな。あいつの顔をまともに見られる気がしない」
「気の毒だな、子龍。同情するよ。わたしも似たようなものさ。はたして、蔡夫人と蔡瑁をいままでどおりの顔で見られるかどうか。
ああ、いやだ、いやだ、こういう生臭い話は苦手なのに」
言いつつ、孔明は部屋の窓を開け放ち、空気を入れ替えた。
夏のぬるい風が部屋に入ってくる。
高い蝉の声とともに、花園から漂う強い花の香りがほのかに漂ってきた。
つづく