「なぜ旅をしてきたのだい。
襄陽のほうじゃ、あんたは劉表に振られたのが悔しくて、出奔したことになりつつあるそうだぜ」
徳利《とっくり》を傾けながら笑う石広元に、徐庶はつられて苦笑いを浮かべた。
「言いたいやつには、言わせておけばいい。
襄陽のことは、俺の耳にも入っている。あんまり変わっていないようだな」
「そうだな、孔明のやつが、すっかり隆中の田舎に引っ込んだよ。
弟夫婦の畑がもぐらに悪さされてたまらないから、もっと土地のいいところに移ったと本人は言い張っているが、実際は世間から遠ざかりたいからだろうという噂だ。
とはいえ、孔明は、妙なものだが、隆中に引っ込んでからのほうが、人づきあいがよくなったようだよ。
暇さえあればぶらぶらと、知り合いの家へ出かけて、ほとんど家には帰らないらしい。
徐兄がいたころは、ほかのやつとは、あまり付き合いをしなかったやつが、変われば変わるもんだ。
徐兄がここに来る何ヶ月か前に来たが」
「どう変わっていた」
徐庶が箸をおき、勢い混んでたずねると、石広元は、苦笑いを浮かべつつ、答えた。
「そうだな。すこし丸くなったようだった。
隆中へ引っ込んだのが正解だったのか、あちこちぶらぶらしているので、返って世間ズレしたのか、そのあたりはわからんが、前よりはだいぶ話やすくなっていたぜ。
昔は人の話をろくに聞かないで、自説を押し付けるようなところもあったが、いまはちゃんと人の話を聴くようになった。
話題も豊富で、話をしていて、ぜんぜん飽きなかったよ。
なによりおどろいたのは、うちの子の遊び相手をして行ったことかな。
あいつ、大人には辛辣だが、子供には甘いんだ。どういう基準だろうな?」
「さあて、わからんが、崔州平の子供が懐かないといってしょげていたので、子供好きなのはまちがいないだろう。
そうか、丸くなっていたか」
ああ、とうなずき、それから唐突に、石広元は笑い出した。
「どうした」
徐庶がたずねると、石広元は、杯を片手に、肩を揺らした。
「いや、なんだかおかしくなったのさ。
奇妙なもので、俺は、水鏡先生のところにいるときは、孔明が苦手だった。
世界がちがうというか、人種がちがうというか。
話そうと思えば話せるのだが、どこかこう、違和感があったのだ」
「孔明は人を怖がっていたからな。あれも変わったのさ」
「いや、そうかな。俺は変わっていないと思ったよ」
石広元は、愉快そうに笑いながら、首を振る。
酒が相当に回っているらしく、その頬も鼻も、熟れた杏の実のようになっている。
「たしかに孔明は、丸くなったし、社交的になったが、あれの根本はまるで変わっていない。
俺は、それがうれしかったな。
孔明というやつは、得だよ。
自分のよいところを、そのまま変えずに持っていられるやつなのだ」
「よいところ?」
徐庶がたずねると、石広元は、大きくうなずいた。
「妙なものだが、こうして実際に仕官して働き出してみると、襄陽の仲間で思い出すのは、あんたや崔州平たちではなくて、なぜだか孔明なのだ。
俺の出立の前の日に、おまえたちが送別会をひらいてくれただろう。
あのとき、空の彼方を越えてみたいと、俺が話したことを覚えているか」
「ああ、たしかそれで盛り上がったな。
仙人になるしかないとか、天女の衣を奪えばいいとか」
「そう。そのなかで、孔明だけが、空を飛ぶ算段を考えようと言った。
冗談ではなく、本気で言っていたのだ。
ほかの連中が、仙術がどうとか天女がどうとか、冗談にしてしまっていたのに、孔明は空を飛ぶには翼を作るか、それとも別の風に乗る方法を考えるべきだと真剣に考えていた。
まあ、飲んだついでの、たわいもない話だったかもしれないが、俺は孔明の言葉がふしぎに印象に残った。
俺たちはいつも、ああしたい、こうなりたいと、願望ばかりを口にしていたが、振り返って思い出してみれば、孔明はいつも夢を実現させるにはどうしたらよいか、かなり現実的なことを口にしていたように思う。
孔明は、すべてにおのれを重ねて、実際にどうするかを発想できるやつなのだ。
ああいうやつと一緒に仕事ができたら、意外と楽しいのではないかと、実際に働き出してから、そう思うようになった。
あいつなら、しきたりだのしがらみだのに縛られず、その場、その時の最良の方法を考え出せる気がする。
必要なのは知識ではない。知識は、書物を開けば、もうすでにそこにあるのだ。
いまの、確かなものがなにひとつない世の中で、もっとも必要とされるものは、孔明のように、自由な発想ができるやつなのかもしれないなと思うよ。
だから、孔明がここに来た時も、社交辞令ではなくて、ぜひまた俺に会いに来てほしいと思っていると言ったら、照れていたな。
ああいうところを見ると、徐兄がやたらと孔明を贔屓にして、過保護になっていた理由がわかる」
石広元は、最初にみずから言っていたとおり、司馬徽の私塾では、孔明を避けていた人間である。
それが、この変わりよう。
徐庶はたずねた。
「丸くなっていたと言っていたな。
もう餓鬼のように喧嘩はしていないようだったか」
「うん、口喧嘩ですませているらしい。そこもたいした進歩だ。
あんたがいないので、すこし自立したのだろう」
「そうか。変わったか」
つづく
襄陽のほうじゃ、あんたは劉表に振られたのが悔しくて、出奔したことになりつつあるそうだぜ」
徳利《とっくり》を傾けながら笑う石広元に、徐庶はつられて苦笑いを浮かべた。
「言いたいやつには、言わせておけばいい。
襄陽のことは、俺の耳にも入っている。あんまり変わっていないようだな」
「そうだな、孔明のやつが、すっかり隆中の田舎に引っ込んだよ。
弟夫婦の畑がもぐらに悪さされてたまらないから、もっと土地のいいところに移ったと本人は言い張っているが、実際は世間から遠ざかりたいからだろうという噂だ。
とはいえ、孔明は、妙なものだが、隆中に引っ込んでからのほうが、人づきあいがよくなったようだよ。
暇さえあればぶらぶらと、知り合いの家へ出かけて、ほとんど家には帰らないらしい。
徐兄がいたころは、ほかのやつとは、あまり付き合いをしなかったやつが、変われば変わるもんだ。
徐兄がここに来る何ヶ月か前に来たが」
「どう変わっていた」
徐庶が箸をおき、勢い混んでたずねると、石広元は、苦笑いを浮かべつつ、答えた。
「そうだな。すこし丸くなったようだった。
隆中へ引っ込んだのが正解だったのか、あちこちぶらぶらしているので、返って世間ズレしたのか、そのあたりはわからんが、前よりはだいぶ話やすくなっていたぜ。
昔は人の話をろくに聞かないで、自説を押し付けるようなところもあったが、いまはちゃんと人の話を聴くようになった。
話題も豊富で、話をしていて、ぜんぜん飽きなかったよ。
なによりおどろいたのは、うちの子の遊び相手をして行ったことかな。
あいつ、大人には辛辣だが、子供には甘いんだ。どういう基準だろうな?」
「さあて、わからんが、崔州平の子供が懐かないといってしょげていたので、子供好きなのはまちがいないだろう。
そうか、丸くなっていたか」
ああ、とうなずき、それから唐突に、石広元は笑い出した。
「どうした」
徐庶がたずねると、石広元は、杯を片手に、肩を揺らした。
「いや、なんだかおかしくなったのさ。
奇妙なもので、俺は、水鏡先生のところにいるときは、孔明が苦手だった。
世界がちがうというか、人種がちがうというか。
話そうと思えば話せるのだが、どこかこう、違和感があったのだ」
「孔明は人を怖がっていたからな。あれも変わったのさ」
「いや、そうかな。俺は変わっていないと思ったよ」
石広元は、愉快そうに笑いながら、首を振る。
酒が相当に回っているらしく、その頬も鼻も、熟れた杏の実のようになっている。
「たしかに孔明は、丸くなったし、社交的になったが、あれの根本はまるで変わっていない。
俺は、それがうれしかったな。
孔明というやつは、得だよ。
自分のよいところを、そのまま変えずに持っていられるやつなのだ」
「よいところ?」
徐庶がたずねると、石広元は、大きくうなずいた。
「妙なものだが、こうして実際に仕官して働き出してみると、襄陽の仲間で思い出すのは、あんたや崔州平たちではなくて、なぜだか孔明なのだ。
俺の出立の前の日に、おまえたちが送別会をひらいてくれただろう。
あのとき、空の彼方を越えてみたいと、俺が話したことを覚えているか」
「ああ、たしかそれで盛り上がったな。
仙人になるしかないとか、天女の衣を奪えばいいとか」
「そう。そのなかで、孔明だけが、空を飛ぶ算段を考えようと言った。
冗談ではなく、本気で言っていたのだ。
ほかの連中が、仙術がどうとか天女がどうとか、冗談にしてしまっていたのに、孔明は空を飛ぶには翼を作るか、それとも別の風に乗る方法を考えるべきだと真剣に考えていた。
まあ、飲んだついでの、たわいもない話だったかもしれないが、俺は孔明の言葉がふしぎに印象に残った。
俺たちはいつも、ああしたい、こうなりたいと、願望ばかりを口にしていたが、振り返って思い出してみれば、孔明はいつも夢を実現させるにはどうしたらよいか、かなり現実的なことを口にしていたように思う。
孔明は、すべてにおのれを重ねて、実際にどうするかを発想できるやつなのだ。
ああいうやつと一緒に仕事ができたら、意外と楽しいのではないかと、実際に働き出してから、そう思うようになった。
あいつなら、しきたりだのしがらみだのに縛られず、その場、その時の最良の方法を考え出せる気がする。
必要なのは知識ではない。知識は、書物を開けば、もうすでにそこにあるのだ。
いまの、確かなものがなにひとつない世の中で、もっとも必要とされるものは、孔明のように、自由な発想ができるやつなのかもしれないなと思うよ。
だから、孔明がここに来た時も、社交辞令ではなくて、ぜひまた俺に会いに来てほしいと思っていると言ったら、照れていたな。
ああいうところを見ると、徐兄がやたらと孔明を贔屓にして、過保護になっていた理由がわかる」
石広元は、最初にみずから言っていたとおり、司馬徽の私塾では、孔明を避けていた人間である。
それが、この変わりよう。
徐庶はたずねた。
「丸くなっていたと言っていたな。
もう餓鬼のように喧嘩はしていないようだったか」
「うん、口喧嘩ですませているらしい。そこもたいした進歩だ。
あんたがいないので、すこし自立したのだろう」
「そうか。変わったか」
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます(^^♪
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、大感謝でございます!(^^)!
「空が高すぎる」は、6月2日で終わります。
奇しくもヨドバシカメラ仙台店リニューアルオープンの日!(関係ない)
「本編」+「あとがきにかえて」で、おしまいとなります。
これまでお付き合いくださった方に感謝です…!
次回作は6月5日から連載開始となりそうです。
でもって、長い話ですし、オリジナル設定と史実が混在している状況なので、gooブログとなろうでは、「人物紹介」のページを作ろうかなあと思っています。
某ブログ主さんが、自作の小説の人物設定を披露しているのを見て、面白そうだなあと思ったのです。
どうも舌足らずなうえ、ネタバレをうまく避けられないわたくしの人物設定ですが(結局、「まあ、読んでください」となる)、今回は下書き等いろいろ準備して、しっかりしたものを作ろうと思案中。
出来上がったら、どうぞ見てやってくださいませ。
ではでは、今日がみなさまにとって素敵な一日となりますようにー('ω')ノ