それから数ヶ月が経った。
はじめ、阿瑯《あろう》はおくさまのところへ行こうと考えたのだが、家を飛び出してすぐに、おくさまの実家がどこにあるのか、わからないことに気づいた。
そして仕方なく、新野に留まっている。
もともとの気性のはげしさと、だれにも負けない俊足が味方して、阿瑯は飢えずに生きている。
盗んでやろうと狙ったものは、かならず盗みおおせた。
日々の糧を得るうえで、盗みの技術もどんどん向上していった。
お屋敷で働く父母が恋しくならない、といったら嘘になる。
しかし、父母には、ほかにたくさんの子供、つまりは阿瑯の兄弟がいて、はしこい阿瑯はどちらかというと、あまり構ってもらえない存在であった。
なにより、おくさまがいないのであれば、屋敷であろうと路上であろうと、どこだろうとおなじであった。
テンの毛皮の、ふんわりした心地よい肌触りにうっとりしつつ、阿瑯は、町の片隅の薄汚い路地のうえに座り込んだ。
空には、青白い月が神秘的な顔を出し、その周囲を、きらきらと星が瞬いている。
雲のない夜だ。
初夏とはいえ、夜はまだ冷えるときがある。
テンの毛皮は、すこしでも、寒さをやわらげてくれるだろう。
ふと、足音が近づいてくるのがわかり、阿瑯は体を強ばらせた。
この路地には、滅多に人は近づかない。
あまりになにもないので、野犬すら近寄ってこないほどだ。
だれかの足音というのは、阿瑯にとってはよいものではない。
庇《ひさし》を借りている廃屋の家主が、自分を追い出すために戻ってきたのか。
それとも、さっきの兵卒が追いかけてきたのだろうか。
しかし、身構えた阿瑯の目の前に、月光に照らされて、足音も軽やかにあらわれたのは、さきほどの兵卒たちではなかった。
見たことのない、にこやかな旅装の男女である。
阿瑯の旧知であるように、親しみのこもった笑みを向けて、阿瑯に近づいてくる。
逃げようと木箱から腰を浮かせた阿瑯に、女のほうが、やさしい声色で言った。
「大丈夫よ、あなたを捕まえにきたのではないのだから」
女はそう言うと、懐《ふところ》から、餅を取り出し、阿瑯に差し出した。
「食べていないでしょう。遠慮しなくていいのよ」
見るからにうまそうだった。
阿瑯はためらいつつも、大きく咽喉を鳴らした。
女の言うとおり、昨日からろくなものを食べていなかったのだ。
女は、それを見越して、ほら、ともういちど促《うなが》した。
阿瑯はもう我慢が出来なかった。
奪うようにして餅を取ると、のどに詰まらないよう慎重にしつつ、口に突っ込む。
やっぱり返せ、といわれないうちに、そうする必要があった。
餅を腹に詰め込みながら、ちらりと男女を見ると、ふたりとも、意地悪を言いそうではない。
むしろうれしそうに、阿瑯が餅を口にしているところをながめている。
「元気がよいね。男子はそうでなくてはならぬ」
男のほうが、はきはきと明るい口調で言う。
脇にいた女も、それに賛同してうなずいた。
「元気がよくて、頑丈なのが一番だわ」
元気がよい、ということと、ご飯をたくさん食べられたので力が出る、というのとは、阿瑯の頭の中では同義である。
だから阿瑯は、女のことばにうなずいた。
「一人では、いろいろと不便が多いでしょうに。家に帰りたいとは思わないの?」
阿瑯は、すぐさま首を横に振った。
阿瑯がご主人の後妻の髪を切ったのだ、ということは、阿瑯が出奔した時点で、ばれたことだろう。
いまさら屋敷に帰るわけにはいかなかった。
「曹操という、おそろしい男が南下してくるという話は、あなたも知っているでしょう? ここは戦場になるのよ。それなのに、ここにいたら、曹操の兵卒に殺されてしまうわよ」
「女子供も容赦なく殺す男だという噂だからね」
曹操という名前は、阿瑯のような浮浪児でさえ知っていた。
その名前が出ると、大人たちの顔が一様に険しくなる。
曹操に関連する話は、血なまぐさい話ばかりだ。
自分も殺されてしまうかもしれない。
阿瑯はとたんに食欲がなくなった。
首のテンの毛皮の肌触りが、むしろ悲しく感じられる。
つづく
※きのうに引き続き、本日もご来場ありがとうございます(^^♪
作品はいっぱいありますんで、ゆっくり見ていってくださいね。
楽しんでいただけたならうれしいです!
はじめ、阿瑯《あろう》はおくさまのところへ行こうと考えたのだが、家を飛び出してすぐに、おくさまの実家がどこにあるのか、わからないことに気づいた。
そして仕方なく、新野に留まっている。
もともとの気性のはげしさと、だれにも負けない俊足が味方して、阿瑯は飢えずに生きている。
盗んでやろうと狙ったものは、かならず盗みおおせた。
日々の糧を得るうえで、盗みの技術もどんどん向上していった。
お屋敷で働く父母が恋しくならない、といったら嘘になる。
しかし、父母には、ほかにたくさんの子供、つまりは阿瑯の兄弟がいて、はしこい阿瑯はどちらかというと、あまり構ってもらえない存在であった。
なにより、おくさまがいないのであれば、屋敷であろうと路上であろうと、どこだろうとおなじであった。
テンの毛皮の、ふんわりした心地よい肌触りにうっとりしつつ、阿瑯は、町の片隅の薄汚い路地のうえに座り込んだ。
空には、青白い月が神秘的な顔を出し、その周囲を、きらきらと星が瞬いている。
雲のない夜だ。
初夏とはいえ、夜はまだ冷えるときがある。
テンの毛皮は、すこしでも、寒さをやわらげてくれるだろう。
ふと、足音が近づいてくるのがわかり、阿瑯は体を強ばらせた。
この路地には、滅多に人は近づかない。
あまりになにもないので、野犬すら近寄ってこないほどだ。
だれかの足音というのは、阿瑯にとってはよいものではない。
庇《ひさし》を借りている廃屋の家主が、自分を追い出すために戻ってきたのか。
それとも、さっきの兵卒が追いかけてきたのだろうか。
しかし、身構えた阿瑯の目の前に、月光に照らされて、足音も軽やかにあらわれたのは、さきほどの兵卒たちではなかった。
見たことのない、にこやかな旅装の男女である。
阿瑯の旧知であるように、親しみのこもった笑みを向けて、阿瑯に近づいてくる。
逃げようと木箱から腰を浮かせた阿瑯に、女のほうが、やさしい声色で言った。
「大丈夫よ、あなたを捕まえにきたのではないのだから」
女はそう言うと、懐《ふところ》から、餅を取り出し、阿瑯に差し出した。
「食べていないでしょう。遠慮しなくていいのよ」
見るからにうまそうだった。
阿瑯はためらいつつも、大きく咽喉を鳴らした。
女の言うとおり、昨日からろくなものを食べていなかったのだ。
女は、それを見越して、ほら、ともういちど促《うなが》した。
阿瑯はもう我慢が出来なかった。
奪うようにして餅を取ると、のどに詰まらないよう慎重にしつつ、口に突っ込む。
やっぱり返せ、といわれないうちに、そうする必要があった。
餅を腹に詰め込みながら、ちらりと男女を見ると、ふたりとも、意地悪を言いそうではない。
むしろうれしそうに、阿瑯が餅を口にしているところをながめている。
「元気がよいね。男子はそうでなくてはならぬ」
男のほうが、はきはきと明るい口調で言う。
脇にいた女も、それに賛同してうなずいた。
「元気がよくて、頑丈なのが一番だわ」
元気がよい、ということと、ご飯をたくさん食べられたので力が出る、というのとは、阿瑯の頭の中では同義である。
だから阿瑯は、女のことばにうなずいた。
「一人では、いろいろと不便が多いでしょうに。家に帰りたいとは思わないの?」
阿瑯は、すぐさま首を横に振った。
阿瑯がご主人の後妻の髪を切ったのだ、ということは、阿瑯が出奔した時点で、ばれたことだろう。
いまさら屋敷に帰るわけにはいかなかった。
「曹操という、おそろしい男が南下してくるという話は、あなたも知っているでしょう? ここは戦場になるのよ。それなのに、ここにいたら、曹操の兵卒に殺されてしまうわよ」
「女子供も容赦なく殺す男だという噂だからね」
曹操という名前は、阿瑯のような浮浪児でさえ知っていた。
その名前が出ると、大人たちの顔が一様に険しくなる。
曹操に関連する話は、血なまぐさい話ばかりだ。
自分も殺されてしまうかもしれない。
阿瑯はとたんに食欲がなくなった。
首のテンの毛皮の肌触りが、むしろ悲しく感じられる。
つづく
※きのうに引き続き、本日もご来場ありがとうございます(^^♪
作品はいっぱいありますんで、ゆっくり見ていってくださいね。
楽しんでいただけたならうれしいです!