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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
よどがは つらゆき
四百七十九 あしひきの山辺にをればしら雲の いかにせよとかはるるときなき
淀川 (つらゆき・紀貫之)
(あしひきの山辺に居れば、白雲の、如何にせよとか晴れる時なき……あの山ばの周辺で、わがもの・折れば、白々しい心雲が、どうせよと言うのか、張れる時がない)
言の戯れと言の心
「あしひきの…枕詞…あの…れいの」「山辺…山里…山ばの裾…山ばの上では無い所」「をれば…居れば…折れば…挫折すれば…逝けば」「しら雲…白雲…色褪せた心雲…色情の褪せた心雲」「雲…空の雲…煩わしくも心に湧き立つもの…情欲など」「いかにせよとか…如何にせよとか…どうしろというのか・我には如何ともし難い」「はるる…(雲の)晴れる…(心の)晴々する…(ものの)張れる」
歌の清げな姿は、どうしょうもない、晴れない山辺の天候。
心におかしきところは、心晴れぬ男の挫折感、もの張れぬおとこの喪失感。
やまと すけみ
四百八十 ふるみちに我やまどはむいにしへの 野中の草はしげりあひにけり
大和 藤原輔相
(布留道に、我、迷うのだろうか、昔の野中の草は、道に・繁りあっていることよ……古妻路に、われは、まどうているのだろうか、過ぎ去った、やまばのない・野中で、妻は、頻りに合い終えようとしていることよ)
言の戯れと言の心
「ふるみち…大和の布留道…古路…古妻」「路…通い路…おんな」「や…疑い…感嘆・詠嘆」「まどはむ…惑うのだろう…迷うのだろう」「いにしへ…古…過ぎ去ったあたり」「草…言の心は女」「しげり…繁り…繁殖…増殖」「あひ…遭い…遭遇…合い…あわさる…収束…し終える」「けり…気付き・詠嘆」
歌の清げな姿は、大和の布留の道に迷うたか、野中の草茂るところに出遭った。
心におかしきところは、なじみの通い路に我は惑うたか、妻は過ぎ去ったひら野で頻りにし終えようとしていることよ。
歌に、隠すよう詠み込まれた所の名は、歌の清げな衣の迷彩の文様のようなもので、それ以上の意味はない。歌の生々しい「心におかしきところ」を隠し、より玄なるものにするためにある。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。