帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百七十九)(四百八十)

2015-11-02 00:27:56 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

よどがは                     つらゆき

四百七十九  あしひきの山辺にをればしら雲の いかにせよとかはるるときなき

淀川                  (つらゆき・紀貫之)

(あしひきの山辺に居れば、白雲の、如何にせよとか晴れる時なき……あの山ばの周辺で、わがもの・折れば、白々しい心雲が、どうせよと言うのか、張れる時がない)

 

言の戯れと言の心

「あしひきの…枕詞…あの…れいの」「山辺…山里…山ばの裾…山ばの上では無い所」「をれば…居れば…折れば…挫折すれば…逝けば」「しら雲…白雲…色褪せた心雲…色情の褪せた心雲」「雲…空の雲…煩わしくも心に湧き立つもの…情欲など」「いかにせよとか…如何にせよとか…どうしろというのか・我には如何ともし難い」「はるる…(雲の)晴れる…(心の)晴々する…(ものの)張れる」

 

歌の清げな姿は、どうしょうもない、晴れない山辺の天候。

心におかしきところは、心晴れぬ男の挫折感、もの張れぬおとこの喪失感。

 

 

やまと                      すけみ

 四百八十  ふるみちに我やまどはむいにしへの 野中の草はしげりあひにけり

大和                       藤原輔相

(布留道に、我、迷うのだろうか、昔の野中の草は、道に・繁りあっていることよ……古妻路に、われは、まどうているのだろうか、過ぎ去った、やまばのない・野中で、妻は、頻りに合い終えようとしていることよ)

 

言の戯れと言の心

「ふるみち…大和の布留道…古路…古妻」「路…通い路…おんな」「や…疑い…感嘆・詠嘆」「まどはむ…惑うのだろう…迷うのだろう」「いにしへ…古…過ぎ去ったあたり」「草…言の心は女」「しげり…繁り…繁殖…増殖」「あひ…遭い…遭遇…合い…あわさる…収束…し終える」「けり…気付き・詠嘆」

 

歌の清げな姿は、大和の布留の道に迷うたか、野中の草茂るところに出遭った。

心におかしきところは、なじみの通い路に我は惑うたか、妻は過ぎ去ったひら野で頻りにし終えようとしていることよ。

 
 歌に、隠すよう詠み込まれた所の名は、歌の清げな衣の迷彩の文様のようなもので、それ以上の意味はない。歌の生々しい「心におかしきところ」を隠し、より玄なるものにするためにある。


『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。