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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
ひぐらし つらゆき
四百八十七 そま人は宮木ひくらしあしひきの 山の山びこよびとよむなり
(ひぐらし・蝉の名・一日中) 紀貫之(古今和歌集撰者・古今集巻第十は物名の歌である)
(木こりは、宮木を、切りだすらしい・一日中、あの山の山彦、響きわたるように聞こえている……粗間人は・あらいおんなの人は、宮こ木、伐採しているにちがいない、あの山ばの山男を呼ぶ声、響きわたるように聞こえている)
言の戯れと言の心
「そま人…杣人…きこり…木を切り出す人…戯れて、粗間ひと、あれた間の女、おとこを伐採するひと」「ま…間…女…おんな」「宮木…宮殿などを造るための木…宮この木…山ばの男木…山ばのおとこ」「木…言の心は男」「ひく…鋸を引く…切り出す…伐採する」「らし…確信をもって推定する意を表す…にちがいない」「あしひきの…枕詞」「山…山ば」「山びこ…山彦…こだま…山男…山ばのおとこ」「よびとよむ…呼ぶ声響きわたる…呼び騒ぐ」「なり…聞こえる音などから推定する意を表す…のようだ」
歌の清げな姿は、木こりが大木を伐り出す音、山彦となって日暮れまで響いているさま。
心におかしきところは、あらい間のひと、身や木を伐採して、一日中、あの山ばのおとこを呼びさわぐありさま。
物名の歌といえども、仮名序冒頭にある歌の理念「人は、事、業(わざ・ごう・欲・行い)の繁きものなれば、心に思う事を、見るもの、聞くものに付けて言いだせるなり」に適っている。物の名の「ひぐらし」などは、人の心の生々しさを目くらますための迷彩の紋様のようなものに過ぎない。
(ひぐらし) みつね
四百八十九 まつのねは秋のしらべにきこゆなり たかくせめあげて風ぞひくらし
(ひぐらし) 凡河内躬恒(貫之に勝るとも劣らない歌人・拾遺集では、つらゆき)
(松の音は、秋の調べに聞こえている、琴柱・高く極みに上げて、風が、弾いているにちがいない……女の声は、飽き満ち足りの調べに聞こえている、山ばに・高くおい上げて、心の・風ぞ、弾いているにちがいない)
言の戯れと言の心
「まつ…松…待つ…言の心は女」「ね…音…声」「秋…飽き…飽き満ちたり…山ばの頂点」「しらべ…調べ…調子」「せめあげ…寄せ上げ…追いたて上げ」「風…秋風…心に吹く風…山ばの風…嵐…あらし」「らし…確信ある推定の意を表す」
歌の清げな姿は、松風の音は、もの悲しい秋の調べに聞こえる。
心におかしきところは、女の声は、飽きの調べに聞こえる、高き感の極みに迫り上って、峰の心風が弾いている。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。