■■■■■
帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首
延喜御時屏風に つらゆき
五百十八 雨ふるとふく松風はきこゆれど いけのみぎははまさらざりけり
延喜の御時、屏風に (つらゆき・紀貫之・和歌中興の祖・色好みに堕落した歌を、人麻呂・赤人に倣えと、引き戻した人)
(雨降るといつも吹く松風は聞こえるけれど、池の汀は、水嵩・増さないなあ……おとこ雨ふると、いつも吹く女の心風は聞こえるけれど、逝けの身の端は、増さらないのだなあ)
言の戯れと言の心
「雨…言の心は男…男雨…おとこの汝身唾」「と…(多様な意味を孕む言葉である)…するといつも…するとかならず…恒常的条件を表す」「松風…松の梢を揺らす風・その音…女の心に吹く風…春風・暑苦しいと思う風・飽き風・厭き風・人の心も凍る寒風・など色々あるので、聞き手の耳により異なる」「松…待つ…言の心は女」「いけ…池…逝け…ものの果て」「みぎは…水際…汀…見きは…身きは」「きは…際…限界…見の果て…端…身の端」「まさらざり…(水嵩)増さない…(心地)増さらない」「けり…気付き・詠嘆」。
歌の清げな姿は、雨降ると共に風音は聞こえてくるが、池の水嵩増すのはまだだなあ。
心におかしきところは、お雨ふるといつも、妻に心風は吹く、いけのみ際、増さらないのだなあ。
つかさたまはらでなげきはべりけるころ、さうしを人のかかせ侍り
ける、おくにかきつけ侍りける
五百十九 いたづらによにふるものとたかさごの 松もわれをやともとみるらん
官職たまわらず嘆いていたころ、冊子を人が書かせた奥に書き付けた (つらゆき)
(無駄に世を経る者だと、高砂の松も、我を友と見るだろうかあ……役立たず夜を経るものと、高みに居る女も、我を伴侶と・わがものと共にと、思うだろうか・みないだろう)
言の戯れと言の心
「いたづらに…無駄に…役立たず…はかなくも」「よ…世…夜…男女の仲」「ふる…経る…長らえる…古…古びる…(もの)振る…(おとこ雨)降る」「松…待つ…言の心は女」「われを…我のことを…わがおとこを」「や…疑問の意を表す…詠嘆の意を表す…反語の意を表す」「とも…友…伴…共」「みる…見る…思う…みなす」「見…覯…媾…まぐあい」
歌の清げな姿は、不毛なところに立つ松に寄せて、わが世を嘆いてみせた。
心におかしきところは、やくたたずこの夜を経るわれを、古妻は、なんと見るだろうかあ。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
「帯とけの解釈」と国文学の解釈との違いを疑問に思う方は、以下の小文をお読みください。
貫之の歌といえども、この両歌は「清げな姿」しか見えないと、優れた歌とは思えない。しかし、公任は優れた歌として撰び、花山院は勅撰集に採用されたからには、優れた歌だったのである。花山院や公任には見えていて、中世に埋もれ、近世、近代、現代も埋もれていて見えなくなった意味が有る。
近世の国学と近代以来の国文学の学問としての和歌解釈は、秘伝となった古今集の相伝・伝授などを無視することから始まり、独自の和歌解釈方法を構築した。字義通りに「清げな姿」を解き、序詞、掛詞、縁語などを指摘する方法である。あらゆる古典の現代語訳本も古語辞典もこの学問的解釈方法で、今や凝り固まっている。重たいが、それらを棚上げして、平安時代の人々の歌論と言語観に帰って、すなわちその文脈に立ち入って、解釈をやり直しているのである。
いま言える、国文学の和歌解釈方法と言語観は、根本的に間違っていると。平安時代の歌論や言語観を自らの文脈に持ち込み俎上に乗せ分析しても、言葉という厄介なものは、その文脈でのみ通用していた意味が有る。これが貫之のいう「言の心」である。文脈の大きく違う歌論や歌は理解不能になる。公任や俊成の歌論が全く理解できなくなって、曲解するか、無視するほかなく、つれて、歌も「清げな姿」しか解けず。今では「心におかしきところ」が消えてしまったのである。