帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (四百九十九)(五百)

2015-11-13 00:06:42 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

女にまかりおくれて侍るころ、つきをみはべりて    大江為基

四百九十九  ながむるにものおもふことのなぐさむは 月はうきよのほかよりや行く

妻女に先立たれた頃、月を見ていて   (大江為基・赤染衛門とほぼ同世代の人・紫式部らのほぼ十年先人)

(眺めていると、もの思うことが慰められるのは、月は憂き世の外を巡り行くのか……長めていると、きみの・もの思いは慰められるのだ、わが・つきひとおとこは、浮き夜の外をめぐり逝くかあゝ)

 

言の戯れと言の心

「ながむる…眺める…長める…長見する」「見…覯…媾…まぐあい」「ものおもふ…世の無常などを思う…山ばの頂点で感の極みなど思う」「なぐさむ…「は…取り立てて言う…強調する意を表す」 月はうきよのほかより「や…疑問の意を表す…詠嘆の意を表す」「行く…逝く」

 

歌の清げな姿は、いつも澄み輝き、我が傷心を慰めてくれる月は、無常な憂き世の外を渡り行く・ものだなあ。

心におかしきところは、このたびは共にというきみは先立った。遺された月人おとこは浮き世離れしているなあ。


 「ひんがし(東・嬪が肢)の 野にかぎろひ(旦の炎・女の情念の炎)の 立つ見えて 返り見すれば 月にし入りぬ(かたむきぬ・片吹きぬ)」という、人麻呂の歌を思い出す。

 

 

法師にならんとおもひ侍りけるころ、月を見侍りて   少将高光

五百    かくばかりへがたく見ゆるよの中に うらやましくもすめるつきかな

法師になろうと思った頃、月を見ていて、 (少将高光・藤原高光、父は九条右大臣師輔、母は内親王・多武峰の少将入道)

(これほど過ごし難く思える世の中に、羨ましくも澄み渡っている月だことよ……これほど、圧し難く見ゆる夜の中に、羨ましくも、済める・澄める、つき人をとこだなあ)

 

言の戯れと言の心

「へ(す)…経る…圧す…押靡(おしなべる)…ぼんのうを抑圧する…をみなへす」「見ゆ…思われる」「よの中…世の中…男女の仲…夜の中」「す(む)…住む…済む…澄む」「つき…月…月人壮士…つき人おとこ」「かな…感動・詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、憂き世の中に、羨ましくも、常に澄みわたる大空の月よ。

心におかしきところは、をみなへし難い夜の中に、羨ましくも、こと済まし、心澄むつき人おとこよ。


 

月の出たついでに、万葉集 巻第一「雑歌」、柿本朝臣人麻呂作の歌を聞きましょう。

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

「ひんがしの野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」と訓じて、平安時代の人々は、狩野の朝のすばらしい景色の「清げな姿」と、それに付けて、エロス(性愛・生の本能)のおかしさを表現した「心におかしきところ」を享受していただろう。
 「東…ひんがし」「反見…かへり見」「見…覯…媾…まぐあい」「月…月人壮士…おとこ」の戯れと言の心を心得えればいいのである。

その品は上等で優れた歌。ほかに世情などを表した寓意が有ったかもしれないが、それはやがて消える。

人麻呂はこのような和歌の表現様式を実践し広めたと考えれば、貫之が「歌のひじり」と仰ぎ見たことも理解できる。

 


 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。