帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百三)(五百四)

2015-11-16 00:08:56 | 古典

          

 


                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

屏風に                    つらゆき

五百三  つねよりもてりまさるかな山のはの もみぢをわけていづる月影

屏風に(裳着の儀か、婦人の四十の賀の屏風に)  紀貫之

(常よりも照り増さるなあ、山の端の紅葉をわけて出づる月光……いつもより照り増さるなあ、山ばの端の、飽き満ちた色情を分けて出でくるつき人おとこ)

 

言の戯れと言の心
 「てりまさる…照り増さる…照明度が増す…容姿などが美しく輝く…ものが弓張になる」「かな…感動の意を表す」「山のは…山の端…山ばの端…山ばの果て」「もみぢ…紅葉…秋の色…飽きの色…飽き満ち足りた色情」「月影…月光…月人壮士の陰…おとこ」

 

歌の清げな姿は、山の紅葉の色彩に栄える、大空の月の光。

心におかしきところは、飽き満ちた色情の山ばの果てより、照り増して出でるおとこのありさま。

 

 

題不知                         みつね

五百四  ひさかたのあまつそらなるつきなれば いづれの水にかげなかるらん

題しらず                       凡河内躬恒

(久方の天つ空の月であれば、どの川・池・海の水に、影が映らないだろうか・すべてに映るだろう……久堅の、女つ空に成る、つき人おとこであれば、どこの、をみなに、わが陰、狩りしないだろうか・すべて猟ず)

 

言の戯れと言の心

「ひさかたの…久方の…枕詞…久堅の(万葉集の表記)…久しく堅い」「あま…天…吾女…女」「そらなる…空にある…空に成る…頂天に成る」「つき…月…月人壮士(万葉集の表記)…おとこ」「水…言の心は女…泉・川・池・海など全ての水の言の心は女」「かげ…影…水鏡に映る像…陰」「な…打消しの意を表す…汝…わがものをこう呼ぶ」「かる…狩る…猟す…漁る…刈る…めとる…まぐあう」。

 

歌の清げな姿は、久方の天津空の月が、地上を隈なく照らすさま。

心におかしきところは、わが久堅のつき人おとこを、滑稽なほど誇張して誇るところ。


 

歌の「清げば姿」の衣を紐解けば、言の戯れにより包み隠されていた、エロス(生の本能・性愛)が顕れる。これが公任の言う「心におかしきところ」であり、俊成の言う歌の「旨(主旨・趣旨)」である。

この「心におかしきところ」が、秘伝となったたまま、埋もれているものを、国学と国文学は、秘伝・伝授を無視して歌を解釈することにしたらしい。そうすると、公任や俊成の歌論と矛盾する歌の内容となるため、平安時代の歌論を曲解するか無視するしかない。このような解釈方法と結果に全く納得できないので、逆に「序詞・掛詞・縁語」などという解釈方法を棚上げして、平安時代の歌論と言語観で解釈をやり直しているのである。

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。