■■■■■
帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首
或所に読経し侍りける法師ばらの従僧して、ばらのゐてなべりける
中に、すだれのうちよりをんなどものはなをりてといひ侍りければ
寿玄法師
五百二十二 いなをらじつゆにたもとのぬれたらば ものおもひけりと人もこそみれ
或る所で読経していた法師たちの従僧として、たちが居た中に、簾の内より女たちが、花(梅か桜)を折ってくださいと言ったので (寿玄法師・伝未詳・法師ばらの一人)
(否、花を・折ってはならぬ、露に、衣の・袂が濡れたならば、母恋しくて泣いたなと人は見るぞ・小僧ども……いや、この身の端を、折ってさしあげるつもりはない、白つゆに身のそで濡れたならば、もの思いしたなあと人が見る)
言の戯れと言の心
「花…木の花…男花…おとこ端」。
「いなをらじ…否、折ってはならぬ(禁止の意を表す)…いや、折るつもりはない(打消しの意志を表す)」「つゆ…朝露・夜露…白露…おとこ白つゆ」「たもと…衣の袂…手許…手許の物…身の端」「ものおもひ…もの思火…里恋しい心・女恋しい思いなど…雑念」「けり…気付き・詠嘆」。
歌の清げな姿は、修行中のたちへの戒めの言葉。
心におかしきところは、折るつもりはない、花を手渡して・わが手許のもの濡れたならば、もの思ったわと女は見る。
やまざとにまかりて侍りけるあかつきにひぐらしのなきはべりければ
右大将済時
五百二十三 あさぼらけひぐらしの声きこゆなり こやあけぐれと人のいふらむ
山里(拾遺集は山寺)に行った暁に、ひぐらしが鳴いたので (右大将済時・父は故一条左大臣・その葬儀か法事の時の歌として聞く)
(朝ぼらけに、ひぐらし蝉の声が聞こえる、これで、夜明から日暮までと・一日中だと、人がいうのだろうか……浅洞け、一日中という小枝、利かせていたいたようだ、これでか、あけぐれと・はて頼りなしと、女たちがいうのだろう)
言の戯れと言の心
「あさぼらけ…朝ぼらけ…浅ほらけ…あさはか・からっぽ」「ひぐらし…日暮らし…一日中…蝉の名…名は戯れる。一日中の背身、ひぐらし泣くおとこ、ひぐらし汝身唾たれる」「声…小枝…おとこ」「きこゆ…(鳴き声が)聞こえる…噂が聞こえる…聞かせる…利かせる」「なり…断定…推定」「あけぐれ…明け暮れ…一日中…明け暗れ…果て頼りなし」「ぐれ…暗い…くらい…頼りない」「人…人々…女たち」「らむ…推量する意を表す…原因理由を推量する意を表す」
歌の清げな姿は、朝から蝉の声が聞こえる、それで、ひぐらしと・一日中と、人は呼ぶのだろう。
心におかしきところは、亡き父の好き好きしき噂。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。