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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首
ある所に、春とあきとはいづれかまさるととひ侍りければ
五百十一 春秋におもひみだれてわきかねつ 時につけつつうつるこころは
ある所で、春と秋とはいづれが優ると問うたので(躬恒・拾遺集では貫之)
(春秋に、思考乱れて判別付きかねた、時につれて、移ろう心よ……春の情と飽きの情、思ひみだれて分けるの難しい、時につれながら、移ろうのだ、情は)
言の戯れと言の心
「春秋…季節の春秋…心の春と飽きと厭き」「おもひ…思い…思考…思火…情熱の炎」「わき…分別…区別」「かねつ…出来ずじまいだ…困難だ」「つ…完了・強調の意を表す」「うつる…移る…張りきる・盛る・衰える・果てる」「こころ…心…情」「は…特に取り立てて示す…感動・詠嘆を表す」
歌の清げな姿は、季節の春秋の優劣は思考が乱れて判別は困難、その時によりけりだよ。
心におかしきところは、春の情、飽き満ち足りた情、厭き果てた情、逝けに沈んだ情、どれが優ると問うか、さまようこころよ。
草合し侍りける所に
五百十二 たねなくてなきもの草はおひにけり まくてへ事はあらじとぞ思ふ
草合(草を題にした歌合か)したところで (躬恒・拾遺集は恵慶法師)
(種なくて、なぎも(水葱藻)の草は、生えていることよ、たね・蒔くという事は無いだろうと思うぞ……多寝・多根なくて、泣きもの女は、感極まることよ、手枕まくことは・胤まくことは、いらないだろうと思うぞ)
言の戯れと言の心
「たね…種…植物の種子…多寝・多根…多情な共寝…人の胤」」「なきもの草…水葱藻の草…水草の名…名は戯れる。泣きものくさ、泣きむし女」「草・水草・藻…言の心は女」「おひ…おい…生える…追い…極まる…老い(歳が極まる)…感極まる」「まく…種子を蒔く…手まくらまく…共寝する…負く…負ける…従順になる」「まく…枕く…巻く…纏い付く」「あらじ…無いだろう…無用だろう」「じ…打消推量・否定的な意を表す…ないだろう・いらないだろう」。
歌の清げな姿は、藻や水草は種蒔かなくても生えて来るなあ、蒔くこと無用。
心におかしきところは、「種子なくて水草生えるよなあ、多寝なし、種無くてと、子無き女は、追いつめることよ、女は・負くるという事無いのだろうと思う」これは、躬恒の歌。「多情・多淫は無用じゃ、泣きむし女どもは、すぐに感極まるわ、たねまく事もいらんだろう・男どもよ」これは、法師の楽しいお説教。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。