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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首
天暦御時、屏風の絵にながらのはしばしらのわづかにのこりたるかた
ある所に 清正
五百二十六 あしまより見ゆるながらのはしばしら むかしのあとのしるべなりけり
天暦御時、屏風の絵に長柄の橋柱のわずかに残っている形がある所に (藤原清正・父は中納言兼輔・弟の雅正の孫に紫式部がいる)
(葦間より、見える長柄の橋柱、昔の橋跡の標しということよ……脚間、撚り、見ている長らの端柱、さきほどの・武樫の、その後のしるしなのだなあ)
言の戯れと言の心
「あしま…葦間…脚間…肢間…おとこ」「より…起点を表す…通過点を表す…撚り…撚りを入れ・強くし」「見ゆる…見える…見ている」「見…覯…媾…まぐあい」「ながらのはし…長柄の橋…橋の名…名は戯れる。長らえる端、汝柄の端」「な…汝…親しきものをこう呼ぶ」「柄…本来の性質…枝」「橋…端…身の端」「ばしら…柱…木…言の心は男」「むかし…昔…以前…終先程…武樫…強く堅い」「あと…跡…址…後…その後…ものの後」「しるべ…道標…しるし」「なりけり…であったということだ…だったのだなあ」
歌の清げな姿は、新造成った橋と残る今は昔の橋柱の絵を見た感想。
心におかしきところは、長柄の端ばしら、いまだに残っている、武樫だったしるしだなあ。
あかしのうらのほとりをふねにのりてまかりすぎける時よみ侍りける
源為憲
五百二十七 よとともにあかしのはまの松ばらは なみをのみこそよるとしるらめ
明石の浦の辺りを船に乗り行き過ぎた時に詠んだ (源為憲・伊賀守などを歴任・公任より十年ほど年長の人)
(長年・世と共にある明石の濱の松原は、波ばかりが寄せていると知っているでしょうね……夜とともに共寝明かしの端間の女たちは、あの身を、並ばかりだと承知しているでしょうね・知って欲しい)
言の戯れと言の心
「よ…世…夜」「あかし…明し…世を暮らし明かし…夜を過ごし朝を迎え」「はま…濱…端間…おんな」「松…待つ…言の心は女」「ばら…原…複数の人を表す…腹…腹の中・心」「なみ…波…並…汝身…親しき身」「を…対象を示す…お…おとこ」「のみ…ばかり…の身」「こそ…強く指示する」「よる…寄る…寄せ来る…寄り添う」「しる…知る…承知する…感知する」「らめ…らむ…推量…(こそ――め)は願望を表す」
歌の清げな姿は、海より見た、波寄せる明石の濱の松原の風景。
心におかしきところは、女達よ「長柄の端の永らえて」とか「武樫おとこありけり」というのは物語だからね、はかなく折れ伏すのが並だと知ってほしい。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。