帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百九十一)(四百九十二)

2015-11-09 00:13:27 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

かのとといふ所をよみ侍りける           恵京法師

四百九十一  さをしかのともまどはせる声するは つまや恋しきあきの山辺に

「かのと」と云う所を詠んだ    (恵慶法師・清原元輔らと同じ時代の人)

(さ牡鹿の友とはぐれ惑う声がするのは、妻恋しいのか、秋の山辺で……さお肢下の伴まとわせる、声するは・小枝擦るは、津間乞いしいのか、飽きの山ば辺りで)

 

言の戯れと言の心

「かのと…辛…十干支の一つ…所の名(所在地不明)…戯れて、かの門、つ間、おんな」。

「さをしか…さ牡鹿…男鹿…作者自身…さお肢下…我がおとこ」「さ…接頭語」「とも…友…伴…伴侶…妻」「まどはせる…(はぐれて)と惑うている…まとはせる…纏い付いている…執着している」「声する…声がしている…小枝擦る…おとこがおやの手をお使いになる行い」「つま…妻…津間…おんな」「や…疑問…詠嘆」「あき…秋…飽き…厭き」「山…山ば」。

 

歌の清げな姿は、秋の山辺に鳴くさ牡鹿の風情。(これだけでは、優れた歌から程遠い)

心におかしきところは、さ男肢下が、纏い付く、小枝摺るは、つ間が恋しいのか、あきの山ばのすそにて。

歌の心は、断ち難き煩悩。

 

清少納言は、人に打たれ弱っている犬(翁丸)の、立ち動くを見て「かほなどの張れたる物の手をせさせばや(顔などが張れている傷の手当をさせようか…彼おなどが張れている物が手をお使いになられるか)」と言うと、女達は笑った(枕草子六)。「つゐにこれをいひあらわしつること(とうとうこれを言い表してしまったことよ)など笑ふ」とある。笑うとあれば、笑えるような解釈が正当なのである。「声する…小枝摺る…身の小枝摺る」と聞くのと同じ聞き耳であれば、笑えるように聞こえる。

 

 

つつみやき                    読人不知

四百九十二 わぎもこがみをすてしよりさるさはの いけのつつみや君は恋しき

          包み焼き(調理方法の一つという)  (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(わが愛しい采女が身を捨ててより、猿沢の池の堤よ・祀られた祠よ、君は恋しい・でしょう……わが愛しい女の見を捨てた時より、さるさ端の 逝けの慎みよ・見せぬ朝顔に乱れ髪よ、君は恋しい・でしょう)

 

言の戯れと言の心

「わぎもこ…わが愛しい女…猿沢の池に身を投げた采女」「みをすてし…身を捨てた…見を捨てた…感極まり果てた」「猿沢の池…池の名…名は戯れる。さるさ端の逝け」「さる…去る…然る…あのような」「いけ…池…逝け…死」「つつみ…堤…池のほとりの祠に祀られた(今、采女神社が有る)…包み…慎み…恥じらうさま」「や…疑問・感動・詠嘆を表す」「君は恋しき…物・事などよ続くが省略されてある体言止め、余情がある…歌で、このようなことが言えるのは、同寮の采女か、女御か、中宮のみ…采女の身投げはこの女たちの嫉みの所為かも知れない」

 

歌の清げな姿は、帝の寵愛薄れたためか入水自死の、采女を祀る堤の祠について、君の思いのたしかめ。

心におかしきところは、采女の逝けの時の、包み慎しむ姿態を彷彿させるところ。

 

両歌のような「心におかしきところ」は、学問や大真面目な学者の踏み込み難い文脈にある。国文学の、和歌及び歌物語や枕草子などの解釈が不在なのはそのためである。解釈が学問である限り解釈の不在は続く。それを嘆いていても仕方がない。江戸時代以降、「歌枕、序詞、掛詞、縁語」などという奇妙な袋小路に和歌を引率したのが、歌のほんとうのおかしさを見失った原因であるから、和歌の解釈方法を根本から改め解釈をやり直しているのである。

 


 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。