帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百九)(五百十)

2015-11-19 00:06:44 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

題不知                       読人不知

五百九 もかりぶねいまぞなぎさにきよすなる みぎはのたづの声さわぐなり

        題しらず                      よみ人しらず

(藻刈舟、今ちょうど渚に、寄せて来ているようだ、水際の鶴の声、騒がしくなっている……かりする夫ね、井間ぞ、なぎさに来て寄り添う、見際の女の声、さわいでいるようだ)

 

言の戯れと言の心

「もかりぶね…藻がり舟」「藻刈り…海草を刈る…若草を採ると同じく、妻を探し求めて娶る」「ふね…船…舟…言の心は男…夫根…おとこ」「いま…今…井間…おんな」「なぎさ…渚…濱…言の心は女」「みぎは…水際…身際…見際…見る寸前」「見…覯…媾…まぐあい」「たづ…鶴…鳥…鳥は神話の時代から言の心は女、古事記によると、八千矛の神が沼河姫の許に、さよばひに訪れ、板戸を叩いた時、鶏をはじめ周りの鳥たちが騒いだ(お付きの女房たちが騒いだのである)、沼河姫は『ぬえ草の女にしあれば、わが心浦渚の鳥ぞ、今は我鳥のあらめ、後は汝鳥にあらむを、命はな死せ給ひそ』と申されたので、乱暴に叩くのも騒ぎもおさまったいう…この時既に鳥の言の心は女であった」「さわぐ…騒ぐ…慌てる…動揺する」

 

歌の清げな姿は、藻刈舟、渚に寄せる、水際に鶴の声する風景。

心におかしきところは、かりする夫根寄せて来る、見ぎわの女の声さわいでいるさま。

 

この歌は、山部赤人の歌に追従した派生歌と思われる。赤人の歌を聞きましょう。『三十六人撰 赤人(三)』より、

わかの浦に潮満ちくれば潟をなみ 蘆辺をさしてたづ鳴き渡る

和歌の浦に潮満ち来れば、干潟なくなるので、葦辺をめざして、鶴鳴き渡っている……若人の心に、しお満ちくれば、堅お汝身、脚辺をさして、たづ、泣きつづく)


 言の戯れと言の心

「わか…和歌…所の名…名は戯れる。若、若者、若人」「浦…女…裏…うら…心」「しほ…潮…しお…おとこ」「かたをなみ…潟を無み…干潟を無くして…片男浪…片お汝身…堅お汝身…堅いおとこの身」「あしべ…蘆辺…脚辺」「たづ…鶴…鳥…(当然この歌でも)言の心は女」「鳴き…泣き」「わたる…飛び渡る…つづく」


 紀貫之が人麻呂と同等に赤人を絶賛する理由は、姿とエロスの品質の良さにある。

 

 

躬恒

五百十 おほぞらをながめぞくらすふく風の おとはすれどもめにし見えねば

(題しらず)                  (凡河内躬恒

(大空を眺めて暮らす吹く風が、音はすれども目には見えない常のこと……大空を、頂点眺めて・絶頂長めて、果てる、心に吹く風が、おと擦れはしても、めには見えないのだから・おんなは何も思えないいつも)

 

言の戯れと言の心

「おほぞら…大空…天…あめ…あま…大あま」「大…ほめ言葉では無い…ほめ言葉は細」「ながめ…眺め…見ている…長めている」「くらす…暮らす…ひが暮れる…ものが果てる」「風…空吹く風…心に吹く風」「おとはすれども…音はすれども…お・とは擦れども」「と…門…おんな」「め…目…女…おんな」「見えね…見えず…見えない」「ば…(見えない)ので…順接の確定条件を表す…(見えない)いつものことよ…恒常的条件を表す」「見…目で見ること…覯(詩経にある言葉)…媾…まぐあひ(古事記にある言葉)」

 

歌の清げな姿は、風音はしても風は目に見えない。昔から人に風は見えない、他人の心風も見えない。

心におかしきところは、偉大なる女の性と、はかない男のそれとの性の格の違い、いつものことながら・しみじみ感じる。

 

「躬恒を侮るなかれ」、貫之の上に立ち難く下に置き難い。これは、平安時代の人々の当然の評価である。



 
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。