帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔三十八〕とりは その一

2011-04-05 00:20:06 | 古典

 



                      帯とけの枕草子〔三十八〕とりは その一



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔三十八〕とりは その一

 
 鳥は、異なる所のものだけれど、あふむ(鸚鵡)、ほんとに感心する。人の言うことを真似るらしいよ。
 
時鳥、くゐな、鴫、宮古どり、ひは、火たき(ほととぎす、くひな、しぎ、みやこ鳥、ひわ、ひたき……ほと伽す、食い汝、しき、宮この女、秘端、火焚き)。


 言の戯れと言の心

「鳥…女」「時鳥…ほととぎす…ほと伽す…郭公…且つ恋う…且つ乞う」「ほと…陰」「とぎ…伽…そばで慰めること」「くゐな…水鳥…食い汝」「くふ…くわえる…くいつく」「しぎ…鴫…しき…(何々)した…色」「みやこ鳥…都鳥…宮ことり…山ばの頂上にいる女」「宮こ…感の極み」「ひわ…小鳥…ひは…秘端…女」「ひたき…小鳥…直気…いちずな気持…火焚き…ひたすら情熱の火焚くことよ」。

 

 
 山どり、友を恋てなくに、鏡を見すればなぐさむらん、心わかう、いとあはれなり。谷隔てたる程など心ぐるし。
 
(山鳥、友を恋して鳴くので、鏡を見せれば慰められるらしい、心若くとってもあわれである。谷隔てて居るときなどは心ぐるしい……山ばの女、共を乞い泣くので、彼が身を見すれば慰められるらしい、心若く、とっても身につまされる感じである。谷隔てて山ば共に越えられないときなどつらい)。


 言の戯れと言の心

「友…共…一緒」「恋…乞い」「鏡…かがみ…彼が身」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

 
 鶴は、いとこちたきさまなれど、なく声雲ゐまできこゆる、いとめでたし。
 
(鶴は、たいそう大仰な様子だけれど、鳴く声、雲居まで聞こえる。とっても愛でたい……一声かん高く泣く女は、とってもおおげさなさまだけれど、泣く声、心の雲のあるかぎり聞こえる、とっても愛でたい)。


 言の戯れと言の心

 「雲居…天高きところ…心に湧き立つ煩わしい思いのあるところ」「雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など…言わば、煩悩」。



 かしらあかきすゞめ、いかるがのをどり、たくみどり。
 
(頭の赤い雀、斑鳩の雄鳥、たくみ鳥……かしら赤きすす女、井かる彼の夫取り、巧み取り)。

 

 言の戯れと言の心 
 「かしら…頭…ものの先端…身の端」「赤…火の色…元気色」「雀…鳥…女」「す…女」「め…女」「いかるが…斑鳩…所の名は戯れる。怒るが、井かるか」。

 


 鷺(さぎ…詐欺女)は、まったく見目も見苦しい、目付きもいやで、すべてに親しみがもてないけれど、「ゆるぎの森にひとりはねじ(…揺るぎの盛りで独り寝はしたくない)」と、おとり(雄鳥…男取り)争うらしい、おかし(おかしい)。


 水鳥、鴛鴦(をし)、いと哀なり。かたみにいかはりて、はねの上の霜はらふらん程など。
(水鳥、おしどり、とっても感心する。お互い居替わって交互に羽の上の霜を払うらしい様子など……見ず、女、男も、とってもあわれである。片身に寝返りして、端寝のうえのしもを、独り払うらしいようすなどよ)。


 千鳥(しば鳴く小鳥…しきりに泣く少女)、いとおかし(とってもかわいい)。


 言の戯れと言の心

「鷺…さぎ…鳥…女…詐欺…だましあざむく」「そんな鷺ですら、独り寝はしないと、夫をとり争うものを・どうしてわたしは……歌・たかしまやゆるぎの森の鷺すらも独りは寝じとあらそふものを(古今六帖)」「見…覯」「鴛鴦…をし…夫婦仲の良い鳥…おし」「し…士…子」。「千鳥…小鳥…少女…女の幼友達」「人麻呂の歌・近江のみ夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへおもほゆ、は少年の日の事を思っての歌でしょう」。

 


 「鳥」という言葉の孕む色々な意味の変化と多様性を楽しむ。どこかで、少しでも「おかし」と微笑んでもらえれば、このあだな文芸にも価値がある。



 伝授 清原のおうな

  かき人しらず   (2015・8月、改定しました)

 

 枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による


帯とけの枕草子〔三十七〕花の木ならぬは

2011-04-04 00:26:10 | 古典

  



                     帯とけの枕草子〔三十七〕花の木ならぬは 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
 



 清少納言 枕草子〔三十七〕花の木ならぬは 

 
 花の木ならぬは、かつら、ごえう(花の木でないのは、桂、五葉松…お花の気成らぬは、かつらご要の女)。 

たそばの木、品のない感じするけれど、花の木々が散り果てて一様に緑になっている中に、時もわきまえず(秋でもないのに色づいて)、濃い紅葉が艶やかで、思いもかけぬ青葉の中よりさし出ている、珍しい。 

まゆみ(真弓の木…真に弓なりのもの)、さらにもいはず(これ以上は言わない)。それほどのものではないけれど、やどり木という名いとあはれなり(宿り木という名とっても哀れである…寄生する木という名とってもあわれである)。


 言の戯れと言の心

「花の木…男花の木…お花の気」「木…こ…おとこ」「かつら…桂…葛…蔓…鬘」「ま弓…真に弓張りのもの…おとこ」「ごえう…五葉…五葉松…ご要…必要とする…ご用…入用とする…鬘を必要としたのは、わたしのこと、ちぢれ髪なので短くしていて時に鬘を着けていた、言いふらすべきことでは無いけれど、あだ名は、かつらぎのかみ(葛城の神…鬘着の上)だった、明るいのが苦手なわけはわかるでしょう」「ご…御…女の敬称…期…時」「松…待つ…女」「やどり…旅の宿り…やどりの権の守(待機中の定員外の国守)など」。

 

 
 さか木(榊)、臨時の祭の御神楽のときなど、いとおかし(とっても趣がある)。世に木々はあれど、神(かみ…上…女)の御前のものとして生えはじめたらしいのも、とりわきておかし(とりわけすばらしい)。

 くすの木(楠)は、木立多くある所にはとくに混じって立っていない。孤立したおどろおどろしい思いなどうとましいよ、千枝にわかれて(千々に乱れた枝ぶりで)、恋いする人の例に言われているのこそ、誰が枝を数え知って言い始めたのかしらと思うと、おかしけれ(おかしいことよ)。

 ひのき(檜)、また、身近にないものだけれど、「三葉四葉の殿づくり」(催馬楽)というのもおかしい。「五月に雨の声をまなぶらん」も、あはれなり(哀れである…なつかしい)。

 かえでの木(楓)が、小さいのに萌え出る葉の末が赤味をおびて、同じ形に広がっている葉の様子、花もひどく頼りなさそうで、虫などの干からびたのに似て、おかし(おかしい)。

 あすはひの木(明日は檜、あすなろの木)、この世で近くは見聞きしない。御嶽に詣でて帰る人などが求めて来るらしい。枝ぶりなどは手を触れにくそうだけれど、何の心があって、あすはひの木と名づけたのでしょう。あぢきなきかねごと(無意味な予言…むなしい約束の言葉)なのか、成りたいと誰かに頼んでいるのかなと思うと、きかまほしくおかし(聞きたくておかしい)。

 ねずもちの木、人並みなみなになるべき(擬人化するべき木)ではないけれど、葉が極く細くて小さいのが、おをかしき也(かわいいのである)。

 あふちの木(棟…合うちのき)。山たちばな(山橘…山ば絶ちのお花)。山なしの木(山梨の木…山ば無しの氣)。

しゐの木(椎)。常盤の木はあちこちにあるけれども、これが、はがへせぬ(葉替えしない…心変わりしない)例に言われているのも、おかし(おかしい)。

 白樫というものは、まして深い山の木のなかでも遠い感じがして、三位、二位の、うえの衣(袍)を染めるときだけに、葉ぐらい人は見るでしょう、おかしいこと愛でたいことにとりあげるべきでないけれど、(葉の裏白く)どこからともなく雪が降り積もっているように見まちがい、すさのおのみことが出雲の国にいらっしゃる御事を思って、人麿が詠んだ歌などを思うと、いみじくあはれなり(とっても感慨深いのである)。

 折々に応じて、一節あわれともおかしいとも聞きおいたものは、草、木、鳥、虫も、おろかにこそおぼえね(いいかげんには思えない)。

 

言の戯れと言の心

 「木…男…氣」。「催馬楽……この殿は、むべも、むべも富みけり、さきくさの、あはれ、さきくさの、はれ、さきくさの、三つ葉四つ葉の、殿つくりせり、殿つくりせり」「殿…との…いへ…門の…女」「富む…お盛ん」「さきくさ…さき草…さきん発ち女…咲き草…咲くおんな花」「草…女」「葉…端…身の端」「殿つくり…門のつくり…こづくり」。「一本檜のよう、終夜、さみだれの音を聞きながら独り学ぶ・あわれ」。

「すさのおのみこと……姉あまてらすおおみかみを困らせた暴れ者であった。あるとき出雲の国に八雲の立つのを見て、いつもいつも立つ心の雲(煩わしくも立つ激情など心のもやもや)を、八重垣に囲んで愛する妻のようにそれを妻籠もらせておくべき宮を、ここに造ろうと決心された。そのときの御歌、八雲立ついづも八重垣つまごめに八重垣つくるその八重垣を、これが、この国のみそひともじの初めである(古今集仮名序)……すさのおのみこと出雲の国におはしける御ことである」。「これを思って、歌の聖柿本人麿が出雲の国で詠んだ歌……あしひきの山地も知らず白樫の枝にも葉にも雪の降れれば(あしひきの山路も知れないほどに、白樫の枝にも葉にも雪が降り積もっているのであれば、これであろう・男の思いとは……あの山ばへのみちも知れないほどに、白樫の枝にも端にも白ゆきが降っているのであれば・これが男の思いなのか)拾遺集冬」「白かし…白い男木」「白雪…白ゆき…男の情念…男の残念」。


 歌のひじり人麿には、「白樫に降る白雪」が男すさのおの激情の念とも、人の煩悩とも見えたのでしょう。


 

 ゆづり葉(老いて譲るという葉…弓弦の端)が、とってもふくよかで艶っぽく、とっても青く清げで、意外にも、似つかわしくない茎の真っ赤できらきらしく見えるのは、あやしけれどおかし(変だけれどごりっぱ)。常の月には見かけないものが、師走のつもごりのみ時めいて、亡き人のお供えものに敷くものなのかと感心するのに、それに年齢を延ばす「はがため」の品として使うのはどうも。いつの世にか「紅葉せん世や(紅葉するだろう世や…飽き満ち足りるであろう夜や)」と、いひたるもたのもし(言ったのも頼もしい)。

 かしは木(柏木)、いとおかし(とってもおもしろい)。葉守の神(端守りの神)がいらっしゃるらしいのもおそれおおい。兵衛の督、佐、尉などを、柏木というのも、おかし(おもしろい)。

 姿なけれど(姿は清げでないけれど)、すろの木(しゅろ・棕櫚)、唐風で悪い家のものとは見えない。

 

言の戯れと言の心

「紅葉せむよやの歌……旅人に宿かすが野のゆづる葉の 紅葉せむ世や君を忘れむ(旅人に宿貸す春日野のゆづる葉の、紅葉する秋の夜や、君を忘れるでしょうか……旅人にやど貸すが野の弓弦破の飽き満ち足りる夜だこと、夫を忘れそう)古今六帖、このように言わせる男は頼もしい」「やどかす…や門貸す…女の身をまかす」「ゆづるは…譲る葉…弓弦破(ぴんと張っている弦がきれるような声)」「は…身の端…破…高音…高いお声」「もみじ…秋…も見じ…飽き満ち足る」。

 


 もとより言葉の孕んでいる意味の多様性のおかしさを楽しむもの。言の心を心得て、事の情のわかるおとなは、おかしいでしょう。


 
 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改定しました)

 

 

 枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による

 

  



帯とけの枕草子〔三十六〕せちは

2011-04-03 00:20:18 | 古典

 




                               帯とけの枕草子〔三十六〕せちは



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔三十六〕せちは

 
 せちは、五月にしく月はなし、さうふ、よもぎなどのかほりあひたる、いみじうおかし。
 
(節句は五月に及ぶ月はない。菖蒲、蓬などが香りあっている、とっても趣がある……ひたすらなのは、さつきに及ぶつきはない、想夫、繁る草などが、か掘り合っている、とってもおかしい)。

九重の内をはじめ、名も知らぬ民の住む処まで、なんとか我のもとに(菖蒲を…想夫を)繁々と葺こうと、すみかに・挿し広げている。やはりとってもおかしい、いつ他の折りに、こんなことするか。


 言の戯れと言の心

「せち…節…節句…切…ひたすら…しきり」「さつき…五月…さ突き」「さ…美称」「つき…月…月人壮士…おとこ…突き」「さうふ…菖蒲…想夫…女の思い人」「よもぎ…蓬…草…女…荒れた庭」「かほり…香り…下掘り…井ほり、川ほりと同じくまぐあい」。



 空の気色、曇りわたりたるに(空の様子、曇り続けている時に…女の気色くもり続いているので)、中宮などには、縫殿より御薬玉といって色々の糸を組み垂らして、差し上げるので、御帳立ててある母屋の柱に、あちこちに取付けてある。

九月九日の菊を綺麗な生絹に包んでさし上げてあるのを同じ柱に結び付けて、数カ月になるのは、薬玉に取り替えて捨てるようである。それに、薬玉は(次の)菊の頃まであるべきなのでは。皆が糸を引取って縫物にして、しばしの間もない。

 言の戯れと言の心

 「空…天…あめ…あま…女」「けしき…景色…気色…天気…女の気持ち」



 御節供の膳をさしあげ、若い人たちは、菖蒲を腰に付け、物忌札付けたりして、さまざまの唐衣や汗衫などに、おかしきをりえだどもながきね(おかしな折枝や長い根…おとこの折れた身の枝など長い根)に、むら濃染の組糸で結びつけてあるのなど、すばらしいとばかり言うべきことでないが、いとをかし(とってもおかしい)。ところで、春(張る)毎に咲くからといって、桜(おとこ花)を、よろしう(まあ普通ね)と思う女なんているかしら。


 地べたを歩きまわる女の子などが、身の程に(菖蒲、折り枝、根…壮夫、折枝、長根など)付けてもらって、いっぱい飾りつけたわと思って、つねに袂を気にかけて、他の子と比べたり、言い表せないほどかっこいいわと思っているのを、そばへた(ふざけている…そばを通った)小舎人童(男の子)に引き取られて泣くのも、おかし(かわいい)。


 紫の紙に棟の花を、青い紙に菖蒲の葉を細く巻いて結び、また白い紙を根で引き結んであるのも、おかし(趣がある…おかしい)。たいそう長い根を手紙の中に入れたりしてあるのを見る心地は、えんなり(艶っぽいのである)。返事を書こうと言い合わせ(文と根を女たちが)見せ合ったりするのも、いとをかし(とってもおかしい)。


 人の娘や、やんごとなき所々に御文などさしあげておられる人も、今日は心が殊に、なまめかし(艶めかしい)。


 夕暮れのころ、郭公が名を告げ(ほと伽す、且つ恋う、且つ乞う)と飛んでいるのも、すべていみじき(全く普通ではない)。


 言の戯れと言の心

「春…季節の春…春情…張る」「桜…男花…おとこ花」「枝…身の枝…おとこ」「根…おとこ」「郭公…ほととぎす…かっこうと鳴く鳥…且つ恋う…且つ乞う」「鳥…女」。



 枕草子は、「言の心」を心得たおとなの女たちの、曇り暮らすのを慰めるための読み物。心幼き者や、言の戯れさえ知らぬ大真面目な人々は、この言語圏外の人で「聞き耳」を異にしているので、永遠に「おかし」と共感することは無いでしょう。



 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改定しました)

 

 枕草子の原文は、新日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による

 




帯とけの枕草子〔三十五〕池は

2011-04-02 00:25:08 | 古典

  




                                           帯とけの枕草子〔三十五〕池は 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔三十五〕池は


 池は、かつまたの池(池は勝間田の池…逝けは且つ又の逝け)、いはれの池(磐余池…言われの
逝け)。    

にゑのの池(贄野の池…捧げ物の逝け)、初瀬(長谷寺)に詣でたときに、水鳥(贄)が隙間なく居てたち騒いでいるのが、とっても趣味深く見えたのである。


 言の戯れと心得るべき言の心

「勝間田…且つ又…なおも再び」「いはれ…磐余…言われ…命令…死を命じられた大津皇子の御歌を思うでしょう」「いけ…池…逝け…感情の死…山ばから堕ちたところ…死」「水…女」「鳥…女」。

 万葉集 巻第三 挽歌、死を被りし時、涕ながらに作られし御歌

 百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ

(……伝えられし言われの逝けに、泣く女たちよ、今日のみ、京を見てや、雲隠れるぞ)。

 「鴨…鳥…女」「今日…京…山ばの絶頂」「見…覯…媾」「雲…煩わしくも心に湧き立つものすべて」「隠る…死ぬ」。

  

 水なしの池(水無しの池…見なしの逝け)こそ、あやしくて、何でそんな名を付けたのだろうと問うたところ、「五月などに、まとまって雨が多く降ろうとする年は、この池に水というものが無くなる。また、ひどく照るであろう年は春の初めに水が多く出る・故に、水なし、見なしのいけ」と言ったので、「むげになく、かはきてあらばこそ、さもいはめ、出る折もあるを、一すじにもつけけるかな(水がやたら無くて乾いてあらばこそ、言うべきなのに、水出るときもあるものを、一筋に、水無しと見なして・名を付けたものねえ……見が無くて干からびていればそう言うべきなのに、潤うときもあるものを、一筋に、見無しなんて・名付けたものね)」と言いたくなったのだ。


 言の戯れと心得るべき言の心

「水なし…水無し…看做し…見無し…まぐあいなし」「水…女」「見…覯…媾」。

 


 猿沢の池は、采女が身投げしたのをお聞きになられて行幸などあったというのは、たいそう愛でたいことよ。「寝くたれ髪を」と人麿が詠んだことなど思うけれど、言うのは愚かである(歌の心を普通の言葉で言うことはできない)。


 言の戯れと心得るべき言の心

拾遺集及び大和物語に人麿作と伝える歌

わぎもこの寝くたれ髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞかなしき
(我が愛しい女の寝みだれ髪を猿沢の池の玉藻として見るのは悲しい……わが女の寝くたれ髪を、さるそのような逝けの玉藻として見るぞ、愛しくせつない)。

「玉…美称」「藻…水草…女」「池…女…逝け…死」「見…覯…媾」「かなしき…悲しいことよ…愛しいことよ…情愛を感じせつないことよ」。

采女の池での自死を、帝の御心に成り代わってお詠みした歌。かなしみが「姿清げ」に表現されて「心におかしきところ」が添えてある。

 

 
 おまへの池、又なにの心にて(御前の池は、また何の意味で)名付けたのだろうと知りたくなる。かがみの池(鏡の池…彼が身の逝け)。

さ山の池は、「みくり」という歌のおかしさを思い出すでしょう。こひぬまの池(こい沼の池…恋ぬ間の逝け)。はらの池は、「玉藻な刈りそ」といったのも、おかしく思える


 言の戯れと心得るべき言の心

「おまえ…御前…お前…男の前のもの」「かがみ…鏡…彼が身…お前」。

歌「恋すてふさやまのいけのみくりこそ引けば絶えすれ我やね絶ゆる」(恋するというさやまの池のみくり草こそ、引けば絶える、我は根絶えるか……乞いするというさ山ばの逝けの三繰り返し草こそ、ひきうければ絶える、我は根絶えるよ)」「草…女」「引く…採る…摘む…めとる」「ね…音…声…根…おとこ」「や…疑問…感嘆」。

歌「をしたかべ鴨さえ来ゐるはらのいけのや、玉藻は真根な刈りそや、おひもつぐがにや」(……おしたかべ、女あまたきている、原(山ば無し)の逝けなのかや、玉藻(女たち)は真根(おとこを)刈るなや、おひ(感の極み)も尽くほどにはよ」。「真根…間根…おとこ」「刈…伐採…折る…まぐあう」「おひ…生い…追い(ことの極み)…老い(生涯の極み)…感の極み」「つくがに…尽くほどに」「がに…程度を表わす」。

 


 言葉は聞き耳により意味が異なるほどのもの。その戯れは理屈では捉えられない。言葉の意味は諸々の縁により縁起しているのみ。使用例に倣い慣れて、そうと心得るしかない。


 

伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず      (2015・8月、改定しました)

  枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による


 


帯とけの枕草子〔三十四〕木の花は

2011-04-01 00:21:20 | 古典

  



                                      帯とけの枕草子〔三十四〕木の花は 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔三十四〕木の花は


 
木の花は、こきもうすきも紅梅。桜ははなびらおほきに、葉の色こきが、枝ほそくて咲たる。藤のはなは、しなひながく色こく咲たる、いとめでたし。
 
(木の花は濃いのも薄いのも紅梅。桜は花びら多くて葉の色濃いのが枝細く咲いている、藤の花は花房長く色濃く咲いている、とっても愛でたい……お花は、情の濃いのも薄いのも、暮れないお花。さくらは八重にさいて、端の色濃いのが、身の江狭くさいている。不二のお花は、しなって長く色濃くさいている。とっても愛でたい)。


 言の戯れと言の心

「梅、桜、藤…木の花…男花…おとこ花」「紅梅…紅の梅花…暮れない男花…元気色のおとこ花…交配…好配…好き配偶者」「桜…咲くら…放くら」「ら…状態を表す」「はなびらおほく…一重ではなく八重に…一咲きではなく多重に」「枝…え…身の枝…おとこ…江…女」「ほそくて…細くて…狭くて」「藤…ふぢ…ふじ…不二…不死」「色…色彩…色情」「さく…咲く…放く…放つ」。

 

 四月の末から五月一日のころ、橘の葉(立花の葉…男木の端)の濃く青くて、花(木の花…おとこ花)がとっても白く咲いたのが、雨の降った翌朝などは、まれにみる様子で情趣がある。花の中より黄金の玉かと見えて、水滴が鮮やか見えているのなど、朝露に濡れている暁の桜(さくら花…おとこ花)に劣らない。郭公(かっこう鳥…且つ乞う女)が立花を縁あるものとさえ思うのだろうか、また更に言うべきではない。


 言の戯れと言の心

「橘…立ち花…花立花…おとこ花」「露…白つゆ」「郭公…ほととぎす…かっこう…鳥…女…且つ恋う…且つ乞う」。 



 梨の花、世に他に類がないほど期待はずれなもので、身近にもてはやさず、はかない文(恋文)など付ける木にもせず、愛嬌の後れた女の顔など見てはそのたとえに言うのも、たしかに葉の色をはじめとして、わけもなくそう見える。
 唐では(梨花の言の心が異なって)「限り無きもの」として文(漢詩)にも作る。なお、どうしてそうなんだろうと、強いて見てみれば、花びらの端に、をかしきにほひ(おかしい匂い…おのような匂い)が、ほんのりとついているようだ。冥途にいる・楊貴妃が帝の御使いに会って泣いた顔に似せて「梨花一枝、春雨をおびたり」などと言うのは、普通(の意味)ではないと思うと、やはり、梨の花は・たいそう愛でたいことは、他に類はないだろうと思える。


 言の戯れと言の心

「梨…木の花…男花…おとこ花」「なし…梨…無し」「梨花…唐では異なって、限りなきもの…おとこの匂い」。


 白楽天の詩句、「玉容寂寞涙闌干、梨花一枝春帯雨」

(玉の容姿寂寞として、涙あふれ、かれ、梨花一枝、春雨をおびている……楊貴妃の綺麗なお顔、寂しげ、涙あふれ尽き、梨花のひとえだ、春のお雨の匂いおびている)。


 「枝…身の枝」「春…季節の春…春情」「雨…男雨…おとこ雨」。



  
桐の木の花、紫に咲いたのはやはり趣があって、葉のひろごりざま(葉の広がり様…端の大きくなりざま)だけが、いやで、もうたくさんという感じだけれど、他の木らと等しく言うべきではない。
 唐でたいそうな名が付いた鳥(鳳凰…気高いひと)が、選んでこれにだけ居るらしいがどうしてでしょう。いみじう心こと也(甚だ言の心が異なる)、まして琴に作って、さまざまな、ね(音…声)が出て来るのなどは、「おかし」などとごく普通にいうべきかどうか、とっても愛でたいことよ。


 言の戯れと言の心

 「葉…端…身の端」「鳥…女」。

木のさまは快くない感じだけれど、あふち(楝…合うち)の花とってもおかしい。かれがれに、さまことに咲きて、かならず五月五日にあふも、おかし(離ればなれに異様に咲いて、必ず五月五日に間に合うのもおかしい…むらむらに異様にさいて、必ず、さ尽き出づかにぴったり合うのもご立派)。


 言の戯れと言の心

「あふちの木…五月ごろ小花がむらむらと咲く木…男木」「さつきいつか…五月五日…さ突き出づか」「あふ…逢う…合う…和合す」「ち…接尾語…方向、所をあらわす」。 



 紀貫之は古今和歌集仮名序の結びで、「歌の様を知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋ざらめかも」と述べた。


 歌のみならず、枕草子も同じ言の心を心得えて読めば、仰ぎ見る如くとは言わないけれど、おかしさがわかり、恋しくならないでしょうか。



 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改定しました)

 

 枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による