帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百十八)(五百十九)

2015-11-24 00:11:26 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

延喜御時屏風に                 つらゆき

五百十八 雨ふるとふく松風はきこゆれど いけのみぎははまさらざりけり

延喜の御時、屏風に  (つらゆき・紀貫之・和歌中興の祖・色好みに堕落した歌を、人麻呂・赤人に倣えと、引き戻した人)

(雨降るといつも吹く松風は聞こえるけれど、池の汀は、水嵩・増さないなあ……おとこ雨ふると、いつも吹く女の心風は聞こえるけれど、逝けの身の端は、増さらないのだなあ)

 

言の戯れと言の心

「雨…言の心は男…男雨…おとこの汝身唾」「と…(多様な意味を孕む言葉である)…するといつも…するとかならず…恒常的条件を表す」「松風…松の梢を揺らす風・その音…女の心に吹く風…春風・暑苦しいと思う風・飽き風・厭き風・人の心も凍る寒風・など色々あるので、聞き手の耳により異なる」「松…待つ…言の心は女」「いけ…池…逝け…ものの果て」「みぎは…水際…汀…見きは…身きは」「きは…際…限界…見の果て…端…身の端」「まさらざり…(水嵩)増さない…(心地)増さらない」「けり…気付き・詠嘆」。

 

歌の清げな姿は、雨降ると共に風音は聞こえてくるが、池の水嵩増すのはまだだなあ。

心におかしきところは、お雨ふるといつも、妻に心風は吹く、いけのみ際、増さらないのだなあ。

 

 

つかさたまはらでなげきはべりけるころ、さうしを人のかかせ侍り

ける、おくにかきつけ侍りける

五百十九 いたづらによにふるものとたかさごの 松もわれをやともとみるらん

官職たまわらず嘆いていたころ、冊子を人が書かせた奥に書き付けた (つらゆき)

(無駄に世を経る者だと、高砂の松も、我を友と見るだろうかあ……役立たず夜を経るものと、高みに居る女も、我を伴侶と・わがものと共にと、思うだろうか・みないだろう)

 

言の戯れと言の心

「いたづらに…無駄に…役立たず…はかなくも」「よ…世…夜…男女の仲」「ふる…経る…長らえる…古…古びる…(もの)振る…(おとこ雨)降る」「松…待つ…言の心は女」「われを…我のことを…わがおとこを」「や…疑問の意を表す…詠嘆の意を表す…反語の意を表す」「とも…友…伴…共」「みる…見る…思う…みなす」「見…覯…媾…まぐあい」

 

歌の清げな姿は、不毛なところに立つ松に寄せて、わが世を嘆いてみせた。

心におかしきところは、やくたたずこの夜を経るわれを、古妻は、なんと見るだろうかあ。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

「帯とけの解釈」と国文学の解釈との違いを疑問に思う方は、以下の小文をお読みください。


 貫之の歌といえども、この両歌は「清げな姿」しか見えないと、優れた歌とは思えない。しかし、公任は優れた歌として撰び、花山院は勅撰集に採用されたからには、優れた歌だったのである。花山院や公任には見えていて、中世に埋もれ、近世、近代、現代も埋もれていて見えなくなった意味が有る。

近世の国学と近代以来の国文学の学問としての和歌解釈は、秘伝となった古今集の相伝・伝授などを無視することから始まり、独自の和歌解釈方法を構築した。字義通りに「清げな姿」を解き、序詞、掛詞、縁語などを指摘する方法である。あらゆる古典の現代語訳本も古語辞典もこの学問的解釈方法で、今や凝り固まっている。重たいが、それらを棚上げして、平安時代の人々の歌論と言語観に帰って、すなわちその文脈に立ち入って、解釈をやり直しているのである。

いま言える、国文学の和歌解釈方法と言語観は、根本的に間違っていると。平安時代の歌論や言語観を自らの文脈に持ち込み俎上に乗せ分析しても、言葉という厄介なものは、その文脈でのみ通用していた意味が有る。これが貫之のいう「言の心」である。文脈の大きく違う歌論や歌は理解不能になる。公任や俊成の歌論が全く理解できなくなって、曲解するか、無視するほかなく、つれて、歌も「清げな姿」しか解けず。今では「心におかしきところ」が消えてしまったのである。


帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百十六)(五百十七)

2015-11-23 00:08:36 | 古典

          

 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

五条の尚侍の賀の屏風のゑに、松のうみにひちたるかたあるところに

 伊勢

五百十六  うみにのみひたれる松のふかみどり いくしほとかはしるべかるらむ

五条の尚侍(藤原満子四十歳・伊勢とほぼ同年)の賀の屏風の絵に、松が海に浸っている姿のあるところに、(伊勢・貫之とほぼ同世代・古今集、拾遺集を通して女流歌人の第一人者)

(海にばかり浸っている松の深緑、幾らほど染め入れしたとかは、知ることできるでしょうか……女ばかりの宮に浸っている女人の深い若さ、幾肢お、とかは知れて当然でしょうね)


 言の戯れと言の心
 
「うみ…海…言の心は女…ここは、女官たちの世界(尚侍はその長官)」「松…待つ…長寿…言の心は女」「みどり…緑…若い色」「いくしほ…幾染め入れ…染料に浸した回数…幾肢お…おとこの数」「べかるらむ…べからむ…可能の推量の意を表す…できるだろう…当然の推量の意を表す…当然何々でしょう」。

海や松の言の心は、先ず、此のような意味であろうかと一歩この言語観の中に踏み込んでから、紀貫之「土佐日記」を、そのつもりになって読めば、鶴(鳥)と共に女であると心得ることができる。そして、歌の表現様式を知れば、「歌の様を知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて、今を恋ひざらめかも」と言う、古今集仮名序の結びの文がよく理解できるだろう。


 

の清げな姿は、海に枝の浸っている松の絵を見ての感想。深緑の松の長寿ははかり知れないでしょう。

心におかしきところは、女どもの中に浸っている貴女の深く若々しい色艶、ひとしほの数は問わずとも知れるでしょうよ。

 

 

天暦御時に名ある所所のかたを屏風にかかせ給ひて人人に歌たて

まつらせ給ひけるに たかさご

五百十七  をのへなる松のこずゑはうちなびき なみの声にぞ風も吹きける

天暦の御時に有名な所々の絵を屏風に画せられて、人々に歌を奉らせたので、「絵は高砂の松」、(無名・拾遺集は忠見・壬生忠見・父は古今集撰者壬生忠岑)

(たかさごの・峰の上にある松の梢は揺れなびき、風浪の音して・それに、松風も吹いたことよ……山ばの峰の上に達した女が、小づ枝は射ち靡き伏した、並の小枝にぞ、女の心の・風も吹きつけたことよ)

 

言の戯れと言の心

「をのへ…尾の上…峰の上…絶頂」「なる…にある…成る…或る情態に達する」「松…言の心は女」「こずゑ…梢…小枝」「うちなびき…(風に)揺れる…靡き…射ち果て靡きたおれ伏す」「なみ…浪…風波…並み…平凡」「声…こえ…小枝…おとこ」「風…松風…女の心風…頼りないのねえ・なんともはかないことよ・言うほどの物でも無いわ・なおも乞うているのに・その他色々な言葉にできない心風が吹くことだろう」


 

歌の清げな姿は、峰の松の梢靡き、風波の音に、松風の音が加わる高砂の風景。

心におかしきところは、頂点に極まり達した女が、靡き伏した並の小枝に、心風を吹きかけた。(如何なる女心かは聞き耳により異なる)。


 
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。



帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百十三)(五百十四)(五百十五)

2015-11-21 00:34:54 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

なぞなぞものがたりし侍りける所に         曽禰善忠

五百十三  わがことはえもいはしろのむすび松 ちとせをふともたれかとくべき

なぞなぞ遊びした所で (拾遺集では曽禰好忠・公任の父の頼忠らとほぼ同じ年配の人・通称、曾丹)

(我が、ことは・なぞなぞは、とても答を言えないだろう、岩代の結び松よ、千年経とうとも、誰が解くだろうか……我が事は、恥ずかしくて・とても言えないだろう、いわ白の結びまつよ、千年経ても誰が解くかと、解けそうもない)

 

言の戯れと言の心

「なぞなぞものがたり…二組に分かれ謎々を出し合い答えの優劣を争う…謎々合わせ」
 「えもいはし…えも言わじ…とても言えないだろう」「いはしろ…岩代…所の名…名は戯れる。岩白、女白、女の色の果て方」「岩・石・磯…言の心は女」「白…色の果て…色情の果て方…おとこのものの色」「むすび松…結び松…絡み合ったまま成長した松が枝」「松…待つ…言の心は女…木の言の心は男なので、松は例外であるため、紀貫之は土佐日記で、松と鶴(鳥の言のは女)と友だちだとか、亡き女児を小松に喩えたりして、それとなく言の心を教示している」「とく…解く…(なぞなぞに)解答する…(結ばれた枝を)解く…結ばれた身を解き離れる」「だれかとくべき…誰が解きことが出来ようか・出来ないだろう…だれが解き離れようか・離しはしないだろう」「べき…推量・可能・意志などを表す多義性のある言葉…べしの連体形、体言が省略されてあるが体言止め、余韻・余情のある言い方」。

 

歌の清げな姿は、作ったなぞなぞを、自ら愛で、勝ち誇った。

心におかしきところは、契り結んだ女の深情けに、色男振りを誇った。

 

 

野宮にて斎宮の庚申し侍りける時に、よるのこと松の風にいるといふ

ことをよみ侍りける                  斎宮女御

五百十四   ことのねにみねの松風かよふなり いづれのをよりしらべそむらん

野宮にて、斎宮が庚申した(信仰上徹夜で眠らず過ごす)時に、夜の琴、松の風に入ると云うことを詠んだ、(斎宮女御・徽子女王、元斎宮が叔父にあたる村上帝の女御となり、後に娘の内親王も斎宮に卜定されたので、伴に伊勢に下向する)

(琴の音に峰の松風の音、交わり響き合って聞こえている、どちらの尾峰より・どの玄の緒より、奏ではじめた調べでしようか……異の声に、峰の女心に吹く風の声、交響して聞こえる、どちらのお方により、奏で初めたのかしら)

 

                          

五百十五  松風のおとにみだるることのねを ひけばねのひのここちこそすれ
                    
(おそらく娘の斎宮の歌・母への返歌として聞く)

(松風の音に、乱れる琴の音を弾けば、初子の日の・初めて弾いた日の、心地がします……女の心風の声に、乱れる異性のねを、ひけば、初ねの日の心地がする)

 

言の戯れと言の心

「野宮…未婚の内親王が卜定により斎宮となり、伊勢に入る前に精進潔斎する所…これより、天皇が退位されるか身内に不幸の無い限り、異性と接することのない、清き暮らしが続く」。

「こと…琴…事…異…異性」「みねの松風…峰の松に吹く風(音)…ものの山ばの頂上の女の声」「松…待つ…言の心は女」「かよふ…交流する…交響する…交合する」「お…尾ね…峰…男…おとこ」「らん…らむ…推量する意を表す…原因理由などを推量する意を表す」。

「みだるる…乱れる…混合する…淫るる」「るる…る…受身・される意を表す…自発・自然にそうなる意を表す」「ひけば…弾けば…(小松を)引けば…(少女を)引けば・めとれば…(根を・おとこを)引けば…ことがおわれば」「ねのひ…子の日…正月の初子の日…春の野で、小松引き若菜摘みする若人の交歓の日」。

 

歌の清げな姿は、母は、松風の音に交じる琴の音に、斎宮になった娘の心情を思う。娘は、子の日に初めて弾いた琴を思う。

心におかしきところは、初寝のことを心配する母。今、初根を引き上げられる心地がすると応える娘。

 清げに包んで、生の心を相互に聞き合う。これが相聞歌。普通の言葉では、語り合えないこと。


 
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百十一)(五百十二)

2015-11-20 00:10:58 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

ある所に、春とあきとはいづれかまさるととひ侍りければ

五百十一 春秋におもひみだれてわきかねつ 時につけつつうつるこころは

ある所で、春と秋とはいづれが優ると問うたので(躬恒・拾遺集では貫之)

(春秋に、思考乱れて判別付きかねた、時につれて、移ろう心よ……春の情と飽きの情、思ひみだれて分けるの難しい、時につれながら、移ろうのだ、情は)

 

言の戯れと言の心

「春秋…季節の春秋…心の春と飽きと厭き」「おもひ…思い…思考…思火…情熱の炎」「わき…分別…区別」「かねつ…出来ずじまいだ…困難だ」「つ…完了・強調の意を表す」「うつる…移る…張りきる・盛る・衰える・果てる」「こころ…心…情」「は…特に取り立てて示す…感動・詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、季節の春秋の優劣は思考が乱れて判別は困難、その時によりけりだよ。

心におかしきところは、春の情、飽き満ち足りた情、厭き果てた情、逝けに沈んだ情、どれが優ると問うか、さまようこころよ。

 

 

草合し侍りける所に

五百十二 たねなくてなきもの草はおひにけり まくてへ事はあらじとぞ思ふ

草合(草を題にした歌合か)したところで  (躬恒・拾遺集は恵慶法師)

 (種なくて、なぎも(水葱藻)の草は、生えていることよ、たね・蒔くという事は無いだろうと思うぞ……多寝・多根なくて、泣きもの女は、感極まることよ、手枕まくことは・胤まくことは、いらないだろうと思うぞ)

 

言の戯れと言の心

「たね…種…植物の種子…多寝・多根…多情な共寝…人の胤」」「なきもの草…水葱藻の草…水草の名…名は戯れる。泣きものくさ、泣きむし女」「草・水草・藻…言の心は女」「おひ…おい…生える…追い…極まる…老い(歳が極まる)…感極まる」「まく…種子を蒔く…手まくらまく…共寝する…負く…負ける…従順になる」「まく…枕く…巻く…纏い付く」「あらじ…無いだろう…無用だろう」「じ…打消推量・否定的な意を表す…ないだろう・いらないだろう」。

 

歌の清げな姿は、藻や水草は種蒔かなくても生えて来るなあ、蒔くこと無用。

心におかしきところは、「種子なくて水草生えるよなあ、多寝なし、種無くてと、子無き女は、追いつめることよ、女は・負くるという事無いのだろうと思う」これは、躬恒の歌。「多情・多淫は無用じゃ、泣きむし女どもは、すぐに感極まるわ、たねまく事もいらんだろう・男どもよ」これは、法師の楽しいお説教。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百九)(五百十)

2015-11-19 00:06:44 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

題不知                       読人不知

五百九 もかりぶねいまぞなぎさにきよすなる みぎはのたづの声さわぐなり

        題しらず                      よみ人しらず

(藻刈舟、今ちょうど渚に、寄せて来ているようだ、水際の鶴の声、騒がしくなっている……かりする夫ね、井間ぞ、なぎさに来て寄り添う、見際の女の声、さわいでいるようだ)

 

言の戯れと言の心

「もかりぶね…藻がり舟」「藻刈り…海草を刈る…若草を採ると同じく、妻を探し求めて娶る」「ふね…船…舟…言の心は男…夫根…おとこ」「いま…今…井間…おんな」「なぎさ…渚…濱…言の心は女」「みぎは…水際…身際…見際…見る寸前」「見…覯…媾…まぐあい」「たづ…鶴…鳥…鳥は神話の時代から言の心は女、古事記によると、八千矛の神が沼河姫の許に、さよばひに訪れ、板戸を叩いた時、鶏をはじめ周りの鳥たちが騒いだ(お付きの女房たちが騒いだのである)、沼河姫は『ぬえ草の女にしあれば、わが心浦渚の鳥ぞ、今は我鳥のあらめ、後は汝鳥にあらむを、命はな死せ給ひそ』と申されたので、乱暴に叩くのも騒ぎもおさまったいう…この時既に鳥の言の心は女であった」「さわぐ…騒ぐ…慌てる…動揺する」

 

歌の清げな姿は、藻刈舟、渚に寄せる、水際に鶴の声する風景。

心におかしきところは、かりする夫根寄せて来る、見ぎわの女の声さわいでいるさま。

 

この歌は、山部赤人の歌に追従した派生歌と思われる。赤人の歌を聞きましょう。『三十六人撰 赤人(三)』より、

わかの浦に潮満ちくれば潟をなみ 蘆辺をさしてたづ鳴き渡る

和歌の浦に潮満ち来れば、干潟なくなるので、葦辺をめざして、鶴鳴き渡っている……若人の心に、しお満ちくれば、堅お汝身、脚辺をさして、たづ、泣きつづく)


 言の戯れと言の心

「わか…和歌…所の名…名は戯れる。若、若者、若人」「浦…女…裏…うら…心」「しほ…潮…しお…おとこ」「かたをなみ…潟を無み…干潟を無くして…片男浪…片お汝身…堅お汝身…堅いおとこの身」「あしべ…蘆辺…脚辺」「たづ…鶴…鳥…(当然この歌でも)言の心は女」「鳴き…泣き」「わたる…飛び渡る…つづく」


 紀貫之が人麻呂と同等に赤人を絶賛する理由は、姿とエロスの品質の良さにある。

 

 

躬恒

五百十 おほぞらをながめぞくらすふく風の おとはすれどもめにし見えねば

(題しらず)                  (凡河内躬恒

(大空を眺めて暮らす吹く風が、音はすれども目には見えない常のこと……大空を、頂点眺めて・絶頂長めて、果てる、心に吹く風が、おと擦れはしても、めには見えないのだから・おんなは何も思えないいつも)

 

言の戯れと言の心

「おほぞら…大空…天…あめ…あま…大あま」「大…ほめ言葉では無い…ほめ言葉は細」「ながめ…眺め…見ている…長めている」「くらす…暮らす…ひが暮れる…ものが果てる」「風…空吹く風…心に吹く風」「おとはすれども…音はすれども…お・とは擦れども」「と…門…おんな」「め…目…女…おんな」「見えね…見えず…見えない」「ば…(見えない)ので…順接の確定条件を表す…(見えない)いつものことよ…恒常的条件を表す」「見…目で見ること…覯(詩経にある言葉)…媾…まぐあひ(古事記にある言葉)」

 

歌の清げな姿は、風音はしても風は目に見えない。昔から人に風は見えない、他人の心風も見えない。

心におかしきところは、偉大なる女の性と、はかない男のそれとの性の格の違い、いつものことながら・しみじみ感じる。

 

「躬恒を侮るなかれ」、貫之の上に立ち難く下に置き難い。これは、平安時代の人々の当然の評価である。



 
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。