情報と物質の科学哲学 情報と物質の関係から見える世界像

情報と物質の関係を分析し、心身問題、クオリア、時間の謎に迫ります。情報と物質の科学哲学を提唱。

ロボットの感情認識はパターン認識に過ぎない

2019-05-06 11:04:03 | 情報と物質の科学哲学
だいぶ前にソフトバンクから感情認識ロボットが発売されました。
メディアにも大きく取り上げられ、その知名度はかなりのものです。

Pepperの感情認識エンジンは、クラウドネットワークに搭載されています。
ヒトの表情や声あるいはタッチセンサーなどから感情を認識できるそうです。
そのため、「Pepperは感情を持っている」と宣伝されています。
Youtubeなどで動画を見た人の多くは、そのことを信じてしまうでしょう。

しかし、
ロボットに「感情認識機能がある」ということとロボットが感情を「持っている」ということとは同じではありません。
強いて言えば「ロボットは人工感情」を持っているということです。

何故なら、ロボットの感情認識機能とヒトのそれとは全く異質のものだからです。
ロボットの機能は、プログラムとハードウェアによって実現されているものです。

一方、ヒトがもつ感情は脳と身体が実現しているものです。
両者は、明らかに質的に違う存在なのです。

ロボットの認識機能は、以下の手順で実現されています:
・対象物に関する種々の物理量をロボットに入力する
・それらをビット表現する
・各物理量に対応したニューラルネットワークで特徴抽出する
・学習プログラムによって特徴抽出を分類する
・分類結果に応じた認識結果を出力する

これらの手順は全てビット計算によるものなので、心的なものではあり得ません。
このことが「ロボットが感情を持つ」ということの全てです。
ロボットの感情認識は、高度なパターン認識に過ぎません。

Pepperの行動を見た人が「Pepperが感情を持っている」と思うのは、実は見ている人の感情移入の結果なのです。

コンピュータやロボットにヒトの脳や心に似た機能があることからロボットが心を持つという帰結は決して得られません。
機能と実体は異質なものだからです。

ロボットは感情機能を持ちますがが、感情を自覚している訳ではありません。
そもそもロボットには自我がないのです。

一方、ヒトは感情機能を持ち、同時に感情をを自覚しています。
ヒトには自我があります。

ヒトは、熱いものに触ると瞬間にそれを避けます。
それは学習によるものではなく本能によるものです。

一方、ロボットにはそのような反応はありません。
ロボットにはヒトの本能に相当するものがありません。
ロボットは、生物ではないからです。

ロボットとヒトは、本質的なところで全く違う存在なのです。

ロボットに心や感情があるとするのは機能主義者だけです。
 
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ロボットに心・意識・感情はあるのか?-チューリングの危険な思想-

2019-05-05 10:22:43 | 情報と物質の科学哲学
「ロボットと心」についての本があります:
 柴田正良 『ロボットの心-7つの哲学物語-』、講談社現代新書1582、講談社(2001)
 喜多村直 『ロボットは心を持つか-サイバー意識論序説-』、共立出版(2002)

柴田は、物理還元主義の立場からロボットにヒトと同じ意識を持たせることは可能だとしています。
しかし、物理還元主義には致命的欠陥があるということを忘れてはいけません。

喜多村は、ロボットにサイバー意識を持たせることができるとしています。
しかし、このサイバー意識はヒトの意識とは異質なものです。

AlphaGo(アルファ碁)で一躍有名になった機械学習に深層学習(ディープラーニング)があります。
ニューラルネットの最新版です。
この深層学習を含めて人工知能の過去から現在までの研究をコンパクトにまとめたものが出版されました:
竹内郁雄編『AI 人工知能の軌跡と未来』、別冊日経サイエンス、No.216(2016.11)

この中に神経生物学者コッホとトノーニの”人工知能の意識を測る”という記事があります。
彼らの提唱する意識の統合情報理論は、意識の謎を解くものだといいます。
かなり高度な理論体系であり、意識の起源を解明できると主張しています。

意識の高度な情報処理機能を説明できることは広く認められていますが、意識や心の本質の説明には程遠いと思われます。

人工知能や神経生物学の研究者は、意識の高度な機能を説明する理論体系の構築には成功していますが、意識の本質の説明にはなっていません。
あくまでも脳の情報処理機能の説明に留まっています。

その明白な理由が二つあります:
(1)乳幼児には成人のような高度な知的能力はありませんが、意識はあります。
(2)意識や心はクオリアと不可分の関係にあります。

最近の人工知能の理論は、これらについてどのように説明できるのでしょうか?

「知的能力があれば心や意識もある」という理解は、
「知的能力がなければ心や意識もない」ということにつながりかねません。

これは、脳科学、認知科学、人工知能に携わる研究者の危険な思想です。
そこで、この思想を人工知能の開祖であるチューリングに因んでチューリングの危険な思想と名付けます。

ロボットやコンピュータに心や思考能力を認める強いAI主義者は、心と知能とを同一視します。
彼らは、我々の知能と見分けが付かない知能をもつロボットやコンピュータには心があると主張します。

この考え方の開祖は、自動計算機、暗号器、数学基礎論などで有名なチューリングです。
この主張は、「機能が同じならそれを実現しているシステムは同じとみなせる」という立場によるもので機能主義とも呼ばれます。

強いAI主義者には「機能が同一なら実体も同一」という強固な思い込みがあります。
しかし、一般人にとって心と知能を同一視することにはかなり違和感があります。
心には知能のほかに生き生きとした感覚や意識があるからです。

これらは、人工知能やニューラルネットなどの無機物では扱えません。

(1)いくら人間とよく似た行動をするロボットがあったとしても
(2)ロボットが人間と同じ意味で”生きている”と主張する機能主義者はいません。

機能主義者は、心の概念は生命とは独立なものであると理解しています。
心に対するこのような偏った捉え方は、一般人には到底受け入れられません。

機能主義によれば臭いを判別する人工センサーにヒトと同じ感覚があることになります。
これは、ナンセンスです!
何故なら、
(1)人工センサーの機能はすべて物理則で説明できますが
(2)感覚そのものは物質現象ではないので物理則では説明できないからです。

”赤い”という感覚(クオリア)と赤色光の波長とは全く異質であり、互いに還元できません。
クオリアは、感覚野によって情報が具象化されたものです。
ロボットにはこの感覚野がないのでクオリアは生成出来ません。

ロボットの脳に相当するニューラルネット内部の過程は、すべて計算過程あるいは情報処理過程です。
言い換えれば、0と1からなる世界です。
それ以上でも以下でもありません。

前野隆司は
『脳はなぜ「心」を作ったのか-「私」の謎を解く受動意識仮説』、筑摩書房(2005)
の中で、ロボットに「心」を作ることができると主張します。
大胆にも我々の感情や感覚などは錯覚にすぎないと言います。
この主張は、唯物論者のものと同じです。

人工知能やロボットの研究者は、「ロボットやコンピュータに心を持たせることができる」という挑戦的な宣伝で予算および人材の獲得に努めています。

意外なことに、日本を代表する哲学者の一人である大森荘蔵は、『物と心』、第1章、第5節”ロボットと意識”の中で次のように述べています:
ロボットの意識の有無は科学理論や実験室で一挙にきめれてるものではない。
人間とロボットの長い歴史の中で徐々にその答えが形成されていくものなのである。
いま、あえてそえを予測するならば、ロボットは意識をもつことになるだろう、といいたい。”
大森荘蔵『物と心』、p.100、岩波書店(1976)
この主張は、ロボットの意識というテーマに関して大森が機能主義者であることを示しています。

目に入る光の強度とそれに対する視覚的な印象の強さとの間には
ヴェーバー・フェヒナーの法則が成り立つことが精神物理学で知られています。
音や温度などに対しても同様な法則が成り立っています。

しかし、感覚の印象の強さと感覚そのものとはカテゴリーが違います。
前者は量で表現できますが、後者は量では表現できません。
(1)精神物理学的法則が成り立つからといって
(2)感覚そのものを物理的に説明できるとは言えません。

脳の情報処理をモデル化したニューラルネットは、パターン認識器やロボットに利用されています。
これは、神経回路を一種の計算回路とみなすことがある意味で妥当なことを示しています。
情報処理の場合には数理モデルあるいは記号処理モデルが可能です。

しかし、感覚自体にはこの種のモデル化は原理的に不可能です。
感覚と実数・記号とはカテゴリーが違うからです。

科学が言語を用いた学問であることを踏まえると、心を科学で説明することには限界があるのです。

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鏡を見るロボット-ロボットの他我問題-

2019-05-05 09:54:58 | 情報と物質の科学哲学
自分の内部と外部との区別をさせることはロボットにとって可能でしょうかか?
この問題をロボットの他我問題と名付けます。

ロボット同士が会話をする様子をYouTubeで見ることができます。
では、ロボットの前に鏡を置いたらどういう反応を見せるでしょうか?

鏡に映ったロボットに話しかけるでしょうか?
あるいは、鏡に映ったロボットが自分自身であることを認識するでしょうか?

鏡の中の像は左右反対になりますが、それをどのように認識するでしょうか?
ロボット研究者に是非調べて頂きたいです。

もし、このブログをご覧の方でPepperなどのロボットをお持ちの方が居れば、
実験してYouTubeに投稿して欲しいです!
その結果次第では、爆発的多数の動画鑑賞者が出るのではないでしょうか。

ここまで書いてYouTubeで”robot mirror"検索したところ下記の動画がありました:
"Qbo Robot in front of a mirror"
英語字幕付きなので分かりやすいですが、教師付き学習ロボットであり反応も今一つでした。
この投稿者による"Qbo meets Qbo"
というのもありましたが、相手が違う色なので面白くなかったです。

障害物を避けるロボットは、自分の身体の境界を認識しているのでしょうか?
そう思うのは実はロボットの設計者やロボットの行動を見ている人なのです。

ロボットの現象は情報物質現象ですから、その説明には情報的説明と物質的説明があります。
両者を混同している説明が非常に多いのです。

物理還元主義者は、ロボットに関する現象は物理則のみで説明できると考えます。
その際、ロボット内部の情報に関する部分は説明者の脳で補完していることに気が付きません。

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ロボットに情報が必要な理由

2019-05-04 18:22:00 | 情報と物質の科学哲学

 ロボットにとって環境の情報を定義し出力する測定器と認識器が不可欠です。
これらがないとロボットは自律的に行動できません。

ロボットは、情報を介して環境とロボットによる相互作用のもとで行動します。
ロボットは、物体から一種の遠隔作用を受けて行動します。
この作用を非物理的遠隔作用と名付けます。

非物理的遠隔作用という用語が的外れでないのは、飛んでくるボールを人が避けるときです。
(1)ボールの物理的作用によって避けるのでなく、
(2)ボールの運動状況から将来を予測して避けるからです。

地上からの指令で制御される人工衛星は、情報による非物理的遠隔作用の典型です。

情報化によるメリット:
 (1)物理量が抽象化されるので異なる物理量に対する計算や学習を共通の仕組みで実現できます。
 (2)情報を利用して環境のモデルをロボット内部に構築できます。
このモデルは、ロボットの行動に必要最小限なものでよい。
どの物理量を情報化するのかの選択もロボット自身が決めます。

環境のモデルは、ロボットにとっての現実世界になります。
ロボットにとって実在するのは情報であって物質ではないとも考えられます。
 
情報化によるデメリットは、入力の物理量の次元が失われるので異なる物理量同士を区別できなくなることです。
これは、ロボットにとって重大な障害になります。

情報化による物理量の次元の喪失(=透明化)は、環境に関する情報の意味が失われることです。
この状況は、認知科学における記号接地問題と関係します。

記号接地問題: 形式的な記号システムに如何に実世界の意味を内在させるか。
(日本認知科学会編 『認知科学辞典』、共立出版(2002))

ファイファーらの自律進化型ロボットは、情報化による環境情報に関する意味の喪失を自らの行動(=経験)によって回復しているのです。

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心と意識を巡る哲学者の非生産的で空しい議論

2019-05-04 17:42:00 | 情報と物質の科学哲学

心身問題、心、意識などに対する哲学者の議論が絶えません。
哲学的議論は、当然のことながら言葉によるものです。

ところで、言葉という概念には本質的に客観性がありません。
何故なら、言葉の使用者によってその意味が異なることが多いからです。
文字で表された言葉自体には客観性があると言えますが、その言葉の意味は
人それぞれで異なります。
言葉の意味は、使用者の誕生以降のもろもろの学習や経験により決まるからです。

辞書にある言葉の意味は編集者の主観によるものであり、あくまでも多数決の
ようなもので定められています。

客観性がない言葉を用いた哲学者の議論は哲学者の主観によるものであり、
その主張には客観性がありません。

ここで、次の命題を考えます:
「私には意識がある。」
この命題は、デカルルトの「われ思う。故に我あり。」と同じ内容です。

意識に関する哲学者の議論はこの命題から出発します。
しかし、よく考えてみるとこの命題は客観的には証明も反証もできません。
つまり、話し手の感想を述べているに過ぎないのです。
そのような主観的性格を持つ「感想」に対して意識があるとかないとか
議論するのは無意味です。

そもそも「意識」という概念は、心理的なものであり本質的に客観性はありません。
「意識がある」「意識がない」というときの”ある””ない”という言葉は主観的なものであり、
それらには客観性は全くないのです。

従って、他人やロボットに対して意識の有無を議論することはナンセンス以外の何物でもありません。
哲学においては真理あるいは真実という概念は成立し得ないのです。
心や意識に対する哲学者の議論は限りなく非生産的で空しいものです。

論理学に通じている筈の哲学者がこのような議論を繰り返すのは不思議です。
皮肉な言い方をすると、哲学者の議論はペダンティック(衒学的)でさえあります。

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