自称米子のプロモデラー

模型、フィギュア、ジオラマを製作するブログ

幻のブルドーザー戦車 その五

2024-01-21 11:27:13 | 模型

今日も朝から台風の様な天気です。

連日書いている「幻のブルドーザー戦車」ですが、鳥取県に保管されている本に香取の開拓の様子を記録した物がありました。

この本なのですが、知り合いが「こんな本が有るよ」と教えてくれました。

本の中身は、

このようなスケッチで構成されていて、残念ながら写真では有りませんでした。

やはり、この当時は写真が高価で、なかなか取材で写真を撮るなんて事は簡単に出来なかった様です。

しかし、この当時、香取に入った方達がどんな生活していたのか、かいま見る事は出来ます。

そんなスケッチの中に、

ブルドーザー戦車のスケッチも有りました。

これはまさしくブルドーザー戦車です。

実際は、この絵の様に松の木をバリバリ倒していたという事は無かった様ですが、このようなスケッチが残っていました。

この当時は町中も静かで、大山の音が麓の米子の町まで聞こえたそうです。

そのため、大山の香取で動いていたブルドーザー戦車の音も麓まで聞こえたそうです。

米子に駐屯していたアメリカ兵達がこの音を聞いて、山の中で戦車の音が聞こえる!まだ日本兵の残党が潜んでいて、いつか襲撃しにくるかも?と思ったのか?香取までアメリカ軍が調査に来た事も有ったそうです。

 

そんな当時の丹羽さん達の写真が、

左から二番目の方が丹羽さんです。26歳だったそうです。

やはり写真は貴重です。

実際に見た形がそのまま映像になっているのですから。

ただ、この当時はカラーフィルムが無く、色が分からなかったという事が有ります。

模型を製作するにあたって、戦車をどんな色で表現するか?

これは、丹羽さんに直接聞いたのですが、「黄土色の様なカーキ色だった」という事を聞きました。

恐らく、97式戦車を迷彩に塗る際の陸軍で使用していた塗料の一つだろうと推測して、模型製作の時に2台ともダークイエローの様な色合いに仕上げました。

ただ、この色、一台はその通りの色だったのですが、もう一台の高座型の方は違う色だったというのが仕上げてから分かりました。

その連絡受けてから、全体を塗り替えましたが、展示する3日前の出来事でした。

米子ガイナックスの方から電話が有り、香取の住人に取材をした所、一台の戦車は確かにカーキ色だったそうですが、もう一台は緑色だったという情報が入りました。

香取住人の子供時代、実際にブルドーザー戦車に乗せてもらった事が有るという方に取材する事が出来たそうで、その方から一台は緑色だったという事を聞いたそうです。

この時点でジオラマはほぼ完成していて、2台ともカーキ色で仕上げていました。

でも事実と違うというのは明らかなので、3日もらって一台全部塗り替えました。

また、このへんの話はジオラマの製作話の時に詳しく書きます。

 

丹羽さんのアルバムの中に、北海道の「中山組」の写真もいくつか有りました。

エンジンの形状が良くわかります。

北海道の寒さからホロを作って取り付けてあります。

白い所は雪が積もっているようです。

こんな風に独自に改造してブルドーザーとして使用していた様です。

とても貴重な写真ばかりです。

三菱重工にもこのような写真は無いと思いますし、ブルドーザー戦車の図面すら無いと思います。

私の所にあるこれらの写真はもう他には無いとても貴重な写真になってしまいました。

今後も大切に保管しようと思います。

これで、香取の開拓の話は終わりとしますが、引き続き、「ブルドーザー戦車のジオラマ製作」の記事を書いて行きます。

このジオラマ製作が地獄でした。

続く!


幻のブルドーザー戦車 その四

2024-01-20 14:26:25 | 模型

今日は朝から冷たい雨が降っています。

ここ山陰の最高峰大山もすっぽり綿帽子をかぶっています。

もしかしたら雪がふっているのかも知れません。

連日書いている「幻のブルドーザー戦車」の舞台の香取村も今日はとても寒いと思います。

このブルドーザー戦車ですが、旧日本陸軍の97式中戦車を改造してブルドーザーブレードを取り付けた、本当の意味での付け焼き刃的なブルドーザーです。

ネットで探すと、この写真が出てくると思います。

これは、いつどこで撮影された物か分かりません。

大山に来られた「丹羽次郎さん」の写真では無いと思いますが、非常に鮮明で分かりやすい写真です。

ただ、ブレードを持ち上げるワイヤーの滑車が改造されている様です。

ワイヤーの数が多い様です。

元々は、

このような戦車の砲塔にワイヤーを繋ぎ、砲塔を回転させる事によってブレードを上下動させていた様です。

滑車の形が微妙に違います。

恐らく北海道の「中山組」が使用していた物ではないかと思います。

このように、現場で使いやすい様に自分たちで改造して使っていたようで、香取村で使用していた物も丹羽さんたちが日々苦労しながらメンテナンスし、改造もしていたと思います。

ただ、いくら整備してもバッテリーの上がりやエンストは四六時中起きた様です。

とにかく、バッテリーの不良はどうしようもなかったようで、丹羽さんたちは、バッテリーに頼らないある方法でエンジンをかけていたそうです。

昔の人なら分かると思いますが、車のバッテリーがダメになった時、車のギヤをニュートラルにして、後から誰かに押してもらい、ある程度加速した所でエンジンのギヤを繋ぎ、強制的にエンジンのピストンを動かし、その時にチョーク等操作しながらガソリンに点火するという方法ですが、今の車はオートマチックだからこの方法は使えないか?

それに今の若い人たちは「押しがけ」という言葉すら知らないと思います。

丹羽さんたちは、一日の作業が終わる時、ブルドーザー戦車を小高い丘の上に停車させてエンジンを切るのですが、翌日、再びエンジンをかける時、エンジンの吸気口にたいまつで火を吸い込ませ、エンジンを温めてから、戦車本体を坂道からニュートラルで走らせて、ある程度加速した所で吸気口に火の付いた紙を放り込み、エンジンのギヤを繋ぎギヤを強制的に回して強引にエンジンをかけていたそうです。

本当にそんな事ができるのか?と思うのですが、実際にそんな事をしていたそうです。

軍隊だったら、上官からぶっ飛ばされるだろうと丹羽さんは言ってました。

それに、ガソリンもディーゼルオイルを使用しなくてはならないのに、混じりけの無いディーゼルオイルが手に入らなかったようで、混合油の様な物だったそうです。

それを入れてエンジンを回すと、蒸気機関車の様な黒い不完全燃焼の煙がモクモクと排気管から出たそうです。

それに、排気管から火の粉が飛ぶので、走っている後から竹ほうきで火の粉をはらいながら走っていたそうです。

それによってかどうか分かりませんが、戦車内部も外部もかなり汚れていた様です。

食料の買い付けもこのブルドーザーで行き来していたそうで、キャベツや大根を戦車に積んで帰り、鍋等に入れて煮込むと、エンジンオイルの匂いがしてまずかったそうです。

丹羽さんたちに取って、このブルドーザー戦車は仕事の道具でもあり、生活の足でもあった様です。

丹羽さんたちが住んでいた小屋も、この戦車で資材を運んで立てた物の様です。

この写真は香取では有りませんが、この二台の戦車が来ていました。

右下の方が若き頃の丹羽さんです。

この写真はこのメンバーの一人が退職されるときの記念写真の様です。

香取では無い様です。

このように、ライカのカメラで撮影した鮮明な写真がたくさん有りました。

見ているだけでワクワクして来ます。

それに、昔の方は皆イケメンですね。

まるで映画俳優の様です。

皆、カッコいいです。

大山の香取村で、この名も無きヒーローたちが一生懸命働いてくれたという事を忘れないでほしいと思います。

続く!

 


幻のブルドーザー戦車 その三

2024-01-19 08:29:29 | 模型

連日書いている「幻のブルドーザー戦車」ですが、実際の香取村開拓の話をしてから模型の製作秘話を書きたいと思います。

かなり前になると思いますが、NHKのBSかどこかで鳥取県大山の香取村の開拓のドキュメンタリーの様な番組が有ったそうなのですが、私は見ていません。

アーカイブかなにかで残っていたら見てみたいのですが。

恐らく、戦車を改造して作った「ブルドーザー」の話も出たと思います。

ただ、鳥取県の人でもこの「ブルドーザー戦車」に付いて知っている人はほとんどいないと思います。

かく言う私も知りませんでした。

資料もほとんど無いし、その当時、写真も高価で撮っていないというのが実情です。

しかし、ブルドーザー戦車を運転していた「丹羽次郎さん」は、この当時、非常に高価だった「ライカのカメラ」を所有されていたので、高画質のブルドーザー戦車の写真が沢山残っていました。

ブルドーザー戦車の模型の製作に、この写真が非常に参考になりました。

しかも、実際に香取村に来られて開拓に携わった「丹羽次郎さん」に当時の実話を沢山聞けたのが今思うと宝の様な話でした。

丹羽さんとお会いしてからもう12年も立ってしまいましたが、その時のお話は今でも鮮明に覚えています。

今日からしばらく、その香取村の開拓秘話を書こうと思います。

ブルドーザー戦車のジオラマの製作はもう少し後になりますが、ご了承ください。

 

時代は戦後(1945年)の後の話です。

終戦で大陸から引き上げて来た元日本兵の皆さんは鳥取の港に着いたは良いが、四国の香川県まで帰る事が出来無い人が沢山いました。

そこで鳥取県最高峰の大山麓にある未開の地を自分たちで開拓すれば、そこに住んで良いという事を鳥取県が決めたそうです。

香川県の人たちはうっそうと茂る赤松を切り倒し、地面を堀り、酪農が出来る土地を作るため働きましたがとうてい人力だけでは無理だったようです。

そこで、これはどこが発注したのか資料が無くて分からないのですが恐らく鳥取県の方から東京の「協同建設」と言う会社に、ブルドーザーを持って来て開墾の手伝いをしてほしという事を連絡した所、丹羽次郎さんを含む7人の勇者がブルドーザー2台と一緒に来られました。

この写真は丹羽さんのライカのカメラで撮影された貴重な写真です。

さすがライカのカメラだけ有って、非常に鮮明で、正確な写真です。

この写真のおかげでブルドーザーブレードの形状や大きさのバランス等知る事が出来ました。

こちらが1/35の模型

大山の現場は大変なジャングル状態。

この当時、赤松の木が沢山生えていました。

これがその当時の香取村の実際の写真です。

このブルドーザーは高座型で、車体の高い位置から前を見る事が出来るタイプです。

こんな荒れ地を一つ一つ開墾して農地にしました。

地面は大山特有の「くろぼく」と呼ばれる火山灰で、畑や水田を作るには向かない土地の様です。

なので酪農が盛んに行われる様になった様です。

赤松の木が沢山生えていたのは、松の木の根から油を取る為だった様です。

「松根油」(しょうこんゆ)と言うそうです。

そのため、沢山の赤松が生えてました。

これを倒すのに、ブルドーザーが必要だったのですが、今有る「コマツ」とか本当のブルドーザーと違い、戦車を改造したブルドーザーとは言いがたい代物だったので、走る早さは負けなかった様ですが、物を押し倒す力は意外なほど無かった様です。

なので、イメージとしてはブルドーザーブレードで、大木を押し倒してガンガン進むという感じでしょうけど、実際は、ブレードで木を揺すぶって、根を緩め、その後、木にロープをかけてひき倒していたそうです。

小さい松の木でも意外なほど頑丈で、すぐにブルドーザーブレード(排土板)が壊れたそうです。

この山の中では溶接機も無く、修理には大山の麓の町、米子まで戦車ごと走って行き、米子鉄鋼所で修理してもらっていたそうです。

その時、ブルドーザーブレードではなく、「スキ」を作ってもらい、木の根っこにアタックしやすい様に改造してそうです。

その写真がこれ、

この写真も非常に貴重な一枚です。

恐らく、鳥取県の香取の役場にもこの写真は無いと思います。

その当時の香取村開拓の写真です。

こちらのブルドーザー戦車は、低座型です。

戦車の砲塔を取っ払い、天板も無くし、操縦席がそのまま露出した状態のタイプです。

こちらが1/35の低座型模型です。

ブルドーザー戦車を米子まで走らせるに、途中、木製の橋を渡る事が何度か有ったそうですが、小型の戦車とは言え15トンの重量が有るので、木の橋を渡るに、もし、橋が壊れて谷底に堕ちたら即死だ!という事で、戦車の操縦桿にカマセをして、エンジンをかけて、無人で走らせ、無事渡った所で乗り込んだそうです。

米子の町を走っていたら、どこかのおばあさんが、「こんなすごい物が有るのに、なんで戦争に負けたんじゃ〜!!」と怒鳴られた事も有ったそうです。

 

そんな日々の中ブルドーザーは毎日の様にトラブルが起きたそうです。

その度、丹羽さんが自分で修理していたそうです。

これがそのメンテナンスの様子。

右の方が丹羽さんです。

エンジンの形状や冷却のシロッコファンの位置がはっきりと分かります。

そして、この戦車のバッテリーがくせ者で、しょっちゅう上がってしまい、エンジンがかからなくなったそうです。

最初は、その都度10キロくらい有ったバッテリーを背中に背負って米子まで充電してもらいに行ったそうですが、バスに乗るとき、運転手に「そんな物持って乗るな!!」と乗車拒否されたそうです。

その時は仕方が無いので大山から米子まで20キロ以上ある道のりをバッテリー背負って歩いて行ったそうです。

それでもバッテリーは放電しなくなり、丹羽さんたちはある方法でエンジンをかけたそうです。

その話は次回に!

 

 

 


幻のブルドーザー戦車 そのニ

2024-01-18 08:55:31 | 模型

昨日から書き始めた「幻のブルドーザー戦車」ですが、書く事が多くてとりとめの無い文章になってしまいました。

なので、今日はブルドーザー戦車を作る事になった経緯を詳しく書きたいと思います。

このブルドーザー戦車(通称チハドーザー)ですが、実際に日本国内で戦後に活躍した物です。

これは私が作ったチハドーザーの低座型、

こちらがチハドーザー高座型、

このような形状の戦車を改造したブルドーザーがこちら山陰地方最高峰の大山の麓、香取地区に来て松林を開墾して酪農地にしました。

スケールは1/35です。

元になったキットは「ファインモールド」の97式中戦車です。

このジオラマを作る事になったのは、今から12年前、「米子ガイナックス」の取締役の「赤井孝美氏」から製作依頼が有ったからです。

こちら山陰では戦車のジオラマを作るとなると、島根県のプラモ同好会である「轍の会」というグループがあるのですが、本来ならそちらに製作依頼が有っておかしく無いのですが、私が「米子」に住んでいたのと、以前赤井氏がデザインしたキャラクターのフィギュアを作っていた事も有り、これも何かの縁?という事で、私の所に製作依頼が来た様です。

そもそも、なぜこのようなマイナーなジオラマを製作するのか?

それは、四国の香川県で開催されている「さぬき映画祭」に米子ガイナックスが参加する際、交流の証として何かイベントを持って行きたいと考え、鳥取と香川の密接な関係にある香取の地を開拓したブルドーザー戦車のジオラマを展示したいという事だった様です。

香川県と鳥取県は昨日アップした記事の通り、戦後の大陸から鳥取まで帰って来た香川県の兵士達が帰る地を無くし困っている所、大山の麓のジャングルの様な地を開墾したらそこに住んで良いと言う事で、うっそうとした松林を香川の方々が開墾したそうです。

ただ、あまりにジャングル状態だったので、人間の力だけではとうてい進まないという事で、東京の「協同建設」に依頼して、ジャングルを開墾してほしいという事で、97式戦車を改造したブルドーザー戦車(チハドーザー)がこの鳥取の地に来ました。

これは鳥取の地では有りませんが、ここに写っている方々と、このチハドーザーが大山の地に来ました。

このブルドーザーのおかげで開墾が進み、酪農にかかせない土地が出来上がったそうです。

ただ、簡単な開墾作業ではなかったようで、日々トラブルの連続だった様です。

上の写真で一番高い位置の帽子をかぶっておられる方が「丹羽次郎さん」です。

12年前の写真が、

右が「丹羽次郎さん」左が米子ガイナックスの「赤井孝美さん」です。

ブルドーザー戦車のジオラマを製作するに当って、実際に運転やメンテナンスをしている方がまだご存命と聞いて、それなら是非会って話を聞こう!という事になり、静岡まで米子ガイナックスの3人と行きました。

この丹羽さんと連絡を取って頂いたのが、運送業をされている「株式会社カマド」の「小林社長さん」でした。

こちらに小林さんのブログが有ります.

 

社長の小部屋 鳥取県大山の麓へ・・・2日目

 

小林さんは、戦車博物館を作りたいと日々働いておられますが、新聞でその記事を掲載されたとき、たまたま丹羽さんがその記事を見て、小林社長さんと交流が出来たそうです。

その小林さんと知り合だったのが「日本陸軍の戦車」という本を編集されていた「小泉聡さん」で、この「小泉さん」とガイナックスの「赤井さん」が知り合いだったという経緯です。

この丹羽さんは戦時中、三菱重工のエンジニアで、97式戦車等の整備や組み立て作業等していたそうです。

なので、97式戦車のエンジンは暗闇の中で手探りだけで組み立て出来ると言われてました。

上のブルドーザー戦車の上に立っている時は26歳だったと聞きました。

戦争の真っ最中でも超高級品のライカのカメラを持っておられたそうで、今、ネットで出回っているチハドーザーの写真のほとんどが、この丹羽さんの写真の様です。

ブルドーザー戦車の製作に当って、沢山の写真を頂きました。

ただ、分からない事だらけで、かなり想像で作った部分が有ります。

大勢で丹羽さん宅に押し掛けたにも関わらず、にこやかに対応して頂き大変恐縮しました。

丹羽さんの話がとても面白く、途中お茶をひっくり返すハプニングも有りましたが、大変有意義なお話を聞く事が出来、模型の製作に大変参考資料となりました。

この時参考になるかと即席で作ったチハドーザーです。

写真を参考にボール紙とスチレンボードで簡単に形を作った物です。

これを見て頂き、あれこれと指示して頂きました。

 

そして、実際に香取村に来てブルドーザー戦車の操縦、メンテナンスをしながら「赤松林」を開墾した時の話を何時間も聞かせて頂きました。

やはりスゴい人なのだと感心しました。

香取村の開拓の話はまだまだ続きます。

 


幻のブルドーザー戦車 その一

2024-01-17 09:16:59 | 模型

昨日で「朽ちたダグラム」の製作が終わりました。

それで、次は何をアップしようかと思いましたが、このブログのタイトルのバックに変な戦車らしき物が写っていると思った方が多いのでは?

車体の横に「協同建設」と書いてあるし、一体これは何だ?

と思われるでしょう。

 

なので、今回からこの「協同建設」の「ブルドーザー戦車」に付いて書こうと思います。

先ず、なんでこのような「ブルドーザー戦車」のジオラマを作る事になったのか?

から話さないと行けません。

 

この「ブルドーザー戦車」は太平洋戦争が終わり、GHQが日本に入って来た頃に製造された実際に有った物です。

ベースになった戦車は、日本陸軍97式中戦車の初期型と後期型です。

そのプラモがこれ、

これが初期型

こちらが後期型

どちらも同じ様な形なのですが、エンジンまわりがだいぶ違います。

キットはファインモールド製で、ファインモールドの社長さんが無料で提供して頂いた物です。

キットの出来はかなり細かく、

このような排気管のカバーのエッチングパーツや、透明パーツには酒の瓶まで付いていました。

パーツを見ただけでワクワクして来ます。

ただ、実際製作に入ったら地獄を見ました。

 

話がそれましたが、日本が敗戦、GHQが日本に入って来たとき、瓦礫だらけの町を開墾して整備するのに、戦車を改造してブルドーザーを作り、それを使って町を復興させろ!という命令が来たそうです。

この当時、三菱重工には97式中戦車のパーツが残っており、実際、戦車を改造したブルドーザーが有り、戦場で滑走路の整備や基地の地固め等に使用していたそうです。

その当時ブルドーザー戦車は、ノーマルな97式戦車の砲塔にフックを付けてブルドーザーブレードにワイヤーで繋ぎ、砲塔を回す事でブレードを上下動させていたそうです。

これは1/35の模型です。

こんな形状の戦車でした。

これの武装を全部外し、砲塔も無くした物が今回アップするブルドーザー戦車(チハドーザー)です。

我が家の古いアルバムを見たらこんな写真が有りました。

これは皇居前でのパレードの様子です。

国民に配られた写真の様です。

同じ写真がこの本にも掲載されていました。

この本の編集をされた「小泉聡氏」に、大変お世話になったのですが、それはおいおい話します。

 

話を元に戻しますが、なぜ、私がこの模型を作る事になったか?

それは「米子ガイナックス」から製作依頼が有ったからです。

もう12年前になりますが、「米子ガイナックス」が、四国の香川県で行われる「映画祭」に参加する時に交流の証として何か展示したいと考えました。

ここ鳥取県と香川県はちょっとした縁があります。

鳥取県の大山にある「香取村」は、香川県の「香」と鳥取県の「取」を組み合わせた地名なのです。

日本が終戦のとき、大陸から帰って来た兵隊さんは自分の故郷に帰りたいが、鳥取県の港に着いた時点で帰る場所が無くなってしまった人が沢山いたそうです。

そこで、鳥取県は大山麓にある未開の地を開拓すれば、そこに住んで良い。という事を帰還した人たちに知らせました。

香川の出身の方々が、大山に入り開墾するのですが、人間の手だけではとうてい開墾が進まないという事で、東京に有った「協同建設」からブルドーザー戦車が出動する事になったそうです。

そういう経緯から香川の方々が開墾した香取村のブルドーザー戦車のジオラマを作ろうという事になりました。

 

遠路はるばる来たブルドーザー戦車ですが、現場では色々大変なことが毎日起きたそうです。

それらの話はまた次に。

続く!