村本大輔が台東区のホームレス拒否を批判 よく言ったと称賛の声
10月12日、生活困窮者の支援を行う団体「一般社団法人あじいる」は、台風で避難してきたホームレスを台東区の避難所が受け入れ拒否したとブログで発表した。
この問題について、お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの村本大輔(38)がTwitterで持論を展開。
ネットで反響を呼んでいる。
「一般社団法人あじいる」によると団体は12日に上野駅周辺へ行き、ホームレスたちに台東区の自主避難場所の一つである忍岡小学校に避難するよう勧めた。
しかしホームレスの一人が、「行ったが、受け入れを断られた」と話したという。
団体が小学校に行き、区の職員に確認。すると「住所のない人は利用させないようにとの命令を受けている」と答えたという。
そこで台東区長が本部長を担う台東区災害対策本部に問い合わせると「台東区として、ホームレスの避難所利用は断るという決定がなされている」と返答があったという。
この問題について、ネット上では賛否両論が巻き起こっている。
なかには≪まともに税金を納めていない人がなんで助けてもらえると思ってるの?≫という厳しい意見も見られた。
村本はそのような意見に対し≪ホームレスを区が受け入れられないのは税金を払っていないからというツイートをみた。
おれは高い税金を払ってる。
それは税金を払えない人の分も負担させてもらってる。
だから社会ってのは税金を払ってない人もいていい場所。
税金は払える人が払えばいい。
社会は誰であっても1人も見捨ててはいけない≫とツイート。
このツイートは13日18時時点で5.8万いいねされており、リプライには≪よく言ってくれました!!≫≪初めて村本氏に同意≫≪ノブリス・オブリージュそのものだね。格好いい≫≪彼らも消費税という名の税金を納めて生活をしています。
社会の仕組みに組み込むのではなくその人それぞれの権利を大事に≫≪ウーマン、そのとおりだよ!(略)「お互いさま」が税金の役割のひとつ≫など、称賛の声が相次いでいる。
☆
称賛の声?マァ良くも綺麗事を述べているダケでこんなもの信用してはダメ...ネットコメント見ると、とにかく臭い、ダニ、ノミ、シラミ(もう若い人は見たことも無いだろうケド)、これは不衛生極まり無い事は容易に想像つく。
こんなのでアレルギー反応したら、まともな人間も被害者となる。
お年寄り、子供、妊婦さんが、かかったら誰が責任とるのか...テレビのアホーな綺麗事は結構、これは可愛そうだが狭い空間には入れるのは無理だろう。
とにかく一面、鼻を付く臭いで悶絶すると東京に行って電車内にいたホームレスは酷かった、服に臭いがつく忘れられないと言っていたゾ。
日本も戦後は衛生環境、劣悪でノミ、シラミ、ダニが下着の中にいた、血を吸うので、とにかくかゆい、掻きむしるとそこからバイ菌が入る。DDT等で降りかけられた。
--------------------
■ DDTの功罪とその歴史
DDTは、農薬として使用される以前には、シラミやノミなどの衛生害虫の駆除剤として使用されていました。
第二次世界大戦前後の衛生状態が悪化した時代において、発疹チフス(シラミが媒介、致死率10~60%)やマラリア(ハマダラ蚊が媒介)の伝染病予防に果たしたDDTの役割は大きく、その功績によりDDTの発明者であるP.H.ミュラー博士(スイス)は、1948年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。
日本においても終戦後にDDTはシラミなどの衛生害虫防除に用いられ、推定として、200万人にも及ぶ人命が発疹チフスから救われたとの報告もあります。
DDTは、戦後、農薬としても稲の大害虫であったニカメイチュウや果樹・野菜の害虫の防除に広く使用されてきましたが、DDTの分解物(DDE、DDA)が、環境中で非常に分解されにくく、また食物連鎖を通じて生物濃縮されることがわかりました。
そのため、わが国では、1968年(昭和43年)に農薬(製造販売)会社が自主的に生産を中止し、1971年(昭和46年)には販売が禁止されました。
世界的にも、環境への懸念から先進国を中心に2000年までには、40カ国以上でDDTの使用が禁止・制限されています。
しかし、その一方で、マラリアが猛威を振るう亜熱帯や熱帯地域の多くの国々では依然としてDDTを必要としています。
世界保健機関(WHO)の推計によると、年間3~5億人が罹患し、150~270万人の死亡者があるといわれ、特に、5歳未満の小児が犠牲になっているとされています。
マラリアの感染予防には、マラリア原虫を媒介するハマダラ蚊の防除対策が重要となります。
しかし、いまだにDDTに取って代わるだけの防除効果が高く人畜毒性が低く、かつ安価な薬剤がないのが実情です。
スリランカを例に取ると1964年にDDTの使用禁止措置を行いましたが、その後5年間でマラリア罹病数は激増する結果となってしまいました。
そのようなことから、WHOは、2006年9月にマラリアを制圧するために、DDTを屋内使用に限定して有効活用することを勧告しました。
---------------
松尾芭蕉が詠んだ有名な俳句。
「蚤虱馬の尿(しと)する枕(まくら)もと」
奥の細道
[訳] 一晩中、のみやしらみに責められてなかなか眠れないでいると、さらに枕もとには馬の小便をする音までが聞こえてくることだ。
当時は、衛生環境など劣悪、今なら鳥肌ものだろう。
金チョーもムヒパッチ、アースジェットも無い時代、ご先祖様は、よくぞ暮らしていたもんだ。
当然、人間芭蕉も臭かった?だろう...もうザワザワしてきた。
この地域では馬屋は住居の中にあった。
してみれば蚊も虱も蚤も一緒に住んでいたに違いない。
馬が放尿するのはいたく当然のことだから、その猛烈な音に目が覚めることも至極尤もなこと。
ただし、そのことが「枕もと」で起こったように言うのは文芸的誇張に相違ない。
実際は有路家は立派なつくりであったし、旅人の格によって部屋を割りふったとはいうものの江戸の大詩人を迎えてよもや馬小屋の隣に寝かしたとは思えない。
リラックスした名品。
この家の主の言うには、ここから出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、そのためには誰か道案内をつけなければ無理だという。
そこで人を頼むことにしたところ、屈強な若者が来てくれた。
見れば、反り脇差しを腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。
この、物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくしながらついて行く。
有路家の主の言ったように、高山は深々として、鳥の声一つしない。
木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。
強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。
篠の藪を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。
かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。
終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。
山形県、国道47号沿い、鳴子温泉方面か行くとJR陸羽東線堺田駅のちょっと手前右側、駐車場は封人の家の向かいあり、地元の野菜を売りそばを食べる所があります。
JR陸羽東線で来た場合、堺田駅から歩くと約500メートルです。
尿前の関からは約10キロだそうです。
松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中で泊まった所で江戸初期の建物、昭和に解体復元工事が実施されて創建当時の様式で保存、一般公開されています。
泊まった家は馬と一緒に生活している所でその時の印象を「蚤虱馬の尿する枕もと」と句で表現しました。
有名な句です。
なお入場料大人250円です。
近くに日本海と太平洋に流れる分水嶺がある様だ。
☆
大きな庄屋で当時の江戸から来た大俳人、芭蕉さんを俳句を、そのまま詠むと直ぐ隣に寝かされた様な感じがするが、そんな非礼な、もてなしはしなかった様だ。
ただ家畜が曲がりや内にいるので蚤シラミ、ダニは当然いてシンドイ目にあっていただろう。
『奥の細道』では、江戸の深川(ふかがわ)を出発し、日光、松島、平泉(ひらいずみ)まで行き、山形を通って新潟から金沢に入るルートを通ります。
その後、敦賀(つるが・現在の福井県)に行って大垣に到着。
そして伊勢に向けて出発するまでが『奥の細道』に書かれている内容です。
日程は150日間で総移動距離は2,400km、ときには1日に50kmも移動する日もありました。
山には山賊、これから日本海、庄内...新潟へ向かったのか。
途中にいくつもの関所があり、旅も難儀しただろう。
この句を詠んで、超有名な俳句を残した山寺へ参拝、そして最上川...旅は続く。
10月12日、生活困窮者の支援を行う団体「一般社団法人あじいる」は、台風で避難してきたホームレスを台東区の避難所が受け入れ拒否したとブログで発表した。
この問題について、お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの村本大輔(38)がTwitterで持論を展開。
ネットで反響を呼んでいる。
「一般社団法人あじいる」によると団体は12日に上野駅周辺へ行き、ホームレスたちに台東区の自主避難場所の一つである忍岡小学校に避難するよう勧めた。
しかしホームレスの一人が、「行ったが、受け入れを断られた」と話したという。
団体が小学校に行き、区の職員に確認。すると「住所のない人は利用させないようにとの命令を受けている」と答えたという。
そこで台東区長が本部長を担う台東区災害対策本部に問い合わせると「台東区として、ホームレスの避難所利用は断るという決定がなされている」と返答があったという。
この問題について、ネット上では賛否両論が巻き起こっている。
なかには≪まともに税金を納めていない人がなんで助けてもらえると思ってるの?≫という厳しい意見も見られた。
村本はそのような意見に対し≪ホームレスを区が受け入れられないのは税金を払っていないからというツイートをみた。
おれは高い税金を払ってる。
それは税金を払えない人の分も負担させてもらってる。
だから社会ってのは税金を払ってない人もいていい場所。
税金は払える人が払えばいい。
社会は誰であっても1人も見捨ててはいけない≫とツイート。
このツイートは13日18時時点で5.8万いいねされており、リプライには≪よく言ってくれました!!≫≪初めて村本氏に同意≫≪ノブリス・オブリージュそのものだね。格好いい≫≪彼らも消費税という名の税金を納めて生活をしています。
社会の仕組みに組み込むのではなくその人それぞれの権利を大事に≫≪ウーマン、そのとおりだよ!(略)「お互いさま」が税金の役割のひとつ≫など、称賛の声が相次いでいる。
☆
称賛の声?マァ良くも綺麗事を述べているダケでこんなもの信用してはダメ...ネットコメント見ると、とにかく臭い、ダニ、ノミ、シラミ(もう若い人は見たことも無いだろうケド)、これは不衛生極まり無い事は容易に想像つく。
こんなのでアレルギー反応したら、まともな人間も被害者となる。
お年寄り、子供、妊婦さんが、かかったら誰が責任とるのか...テレビのアホーな綺麗事は結構、これは可愛そうだが狭い空間には入れるのは無理だろう。
とにかく一面、鼻を付く臭いで悶絶すると東京に行って電車内にいたホームレスは酷かった、服に臭いがつく忘れられないと言っていたゾ。
日本も戦後は衛生環境、劣悪でノミ、シラミ、ダニが下着の中にいた、血を吸うので、とにかくかゆい、掻きむしるとそこからバイ菌が入る。DDT等で降りかけられた。
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■ DDTの功罪とその歴史
DDTは、農薬として使用される以前には、シラミやノミなどの衛生害虫の駆除剤として使用されていました。
第二次世界大戦前後の衛生状態が悪化した時代において、発疹チフス(シラミが媒介、致死率10~60%)やマラリア(ハマダラ蚊が媒介)の伝染病予防に果たしたDDTの役割は大きく、その功績によりDDTの発明者であるP.H.ミュラー博士(スイス)は、1948年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。
日本においても終戦後にDDTはシラミなどの衛生害虫防除に用いられ、推定として、200万人にも及ぶ人命が発疹チフスから救われたとの報告もあります。
DDTは、戦後、農薬としても稲の大害虫であったニカメイチュウや果樹・野菜の害虫の防除に広く使用されてきましたが、DDTの分解物(DDE、DDA)が、環境中で非常に分解されにくく、また食物連鎖を通じて生物濃縮されることがわかりました。
そのため、わが国では、1968年(昭和43年)に農薬(製造販売)会社が自主的に生産を中止し、1971年(昭和46年)には販売が禁止されました。
世界的にも、環境への懸念から先進国を中心に2000年までには、40カ国以上でDDTの使用が禁止・制限されています。
しかし、その一方で、マラリアが猛威を振るう亜熱帯や熱帯地域の多くの国々では依然としてDDTを必要としています。
世界保健機関(WHO)の推計によると、年間3~5億人が罹患し、150~270万人の死亡者があるといわれ、特に、5歳未満の小児が犠牲になっているとされています。
マラリアの感染予防には、マラリア原虫を媒介するハマダラ蚊の防除対策が重要となります。
しかし、いまだにDDTに取って代わるだけの防除効果が高く人畜毒性が低く、かつ安価な薬剤がないのが実情です。
スリランカを例に取ると1964年にDDTの使用禁止措置を行いましたが、その後5年間でマラリア罹病数は激増する結果となってしまいました。
そのようなことから、WHOは、2006年9月にマラリアを制圧するために、DDTを屋内使用に限定して有効活用することを勧告しました。
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松尾芭蕉が詠んだ有名な俳句。
「蚤虱馬の尿(しと)する枕(まくら)もと」
奥の細道
[訳] 一晩中、のみやしらみに責められてなかなか眠れないでいると、さらに枕もとには馬の小便をする音までが聞こえてくることだ。
当時は、衛生環境など劣悪、今なら鳥肌ものだろう。
金チョーもムヒパッチ、アースジェットも無い時代、ご先祖様は、よくぞ暮らしていたもんだ。
当然、人間芭蕉も臭かった?だろう...もうザワザワしてきた。
この地域では馬屋は住居の中にあった。
してみれば蚊も虱も蚤も一緒に住んでいたに違いない。
馬が放尿するのはいたく当然のことだから、その猛烈な音に目が覚めることも至極尤もなこと。
ただし、そのことが「枕もと」で起こったように言うのは文芸的誇張に相違ない。
実際は有路家は立派なつくりであったし、旅人の格によって部屋を割りふったとはいうものの江戸の大詩人を迎えてよもや馬小屋の隣に寝かしたとは思えない。
リラックスした名品。
この家の主の言うには、ここから出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、そのためには誰か道案内をつけなければ無理だという。
そこで人を頼むことにしたところ、屈強な若者が来てくれた。
見れば、反り脇差しを腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。
この、物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくしながらついて行く。
有路家の主の言ったように、高山は深々として、鳥の声一つしない。
木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。
強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。
篠の藪を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。
かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。
終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。
山形県、国道47号沿い、鳴子温泉方面か行くとJR陸羽東線堺田駅のちょっと手前右側、駐車場は封人の家の向かいあり、地元の野菜を売りそばを食べる所があります。
JR陸羽東線で来た場合、堺田駅から歩くと約500メートルです。
尿前の関からは約10キロだそうです。
松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中で泊まった所で江戸初期の建物、昭和に解体復元工事が実施されて創建当時の様式で保存、一般公開されています。
泊まった家は馬と一緒に生活している所でその時の印象を「蚤虱馬の尿する枕もと」と句で表現しました。
有名な句です。
なお入場料大人250円です。
近くに日本海と太平洋に流れる分水嶺がある様だ。
☆
大きな庄屋で当時の江戸から来た大俳人、芭蕉さんを俳句を、そのまま詠むと直ぐ隣に寝かされた様な感じがするが、そんな非礼な、もてなしはしなかった様だ。
ただ家畜が曲がりや内にいるので蚤シラミ、ダニは当然いてシンドイ目にあっていただろう。
『奥の細道』では、江戸の深川(ふかがわ)を出発し、日光、松島、平泉(ひらいずみ)まで行き、山形を通って新潟から金沢に入るルートを通ります。
その後、敦賀(つるが・現在の福井県)に行って大垣に到着。
そして伊勢に向けて出発するまでが『奥の細道』に書かれている内容です。
日程は150日間で総移動距離は2,400km、ときには1日に50kmも移動する日もありました。
山には山賊、これから日本海、庄内...新潟へ向かったのか。
途中にいくつもの関所があり、旅も難儀しただろう。
この句を詠んで、超有名な俳句を残した山寺へ参拝、そして最上川...旅は続く。