昨日
「みーすけが話せたら楽しいのになぁ」
と書きましたが、
少し前の朝日新聞にこんな記事がありました。
それは、軽い言葉で感想を述べるのがはばかられる文章。
普段何気なく話している”言葉”
それがこんなにも深い意味をもっているなんて。
もっと丁寧に言葉を選ぼうと思った。
もっと大切に気持ちを伝えなくてはと思った。
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障害が重いために言葉を理解できないと考えられてきた人々も、
実は言葉の世界を持っている。
それを社会に伝えたいと願った少年が、志半ばの16歳で亡くなった。
かすかな体の動きを拾う特別のスイッチで入力された文章が残された。
「せっかくいろいろなこどもたちが ことばをつかっているのに しんじて」
彼の文はそう訴えかける。(2012/10/3 朝日新聞より)
「よもすえというかんがえかたは まちがっていて かのうせいにかけるべきです
にんげんのことを あきらめてはいけないとおもいます
よきひよきときに めぐりあうことを しんじよう」
「けっしてなにもするわけではなく ただじっと ことばだけをつかっていきてきた
しかも いちどもそのことばを だれにもはなさずに いきてきたので
のんふぃくしょんどらまのようなせかいを すごしてきた
どらまよりも すさまじいたいけんをしてきた
だから ことばがとぎすまされてくるのは あたりまえのことなのです」
「せっかくのことばが ことばとして こうのうがきのように
うけとめられてしまいざんねんです(中略)
すばらしいのはつらくても ことばがあることです
ことばこそ ぼくたちにとってひつようなものなんです」
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以下、同紙面に載せられていた某教授の話
「重い障害で「はい」「いいえ」も言えないため、
赤ちゃん程度の発達段階とみなされている人もいる。
だが、多くは言葉を持っている。
彼らがスイッチで表現するのを助けているが、
本当に本人の言葉なのかと疑念を持つ人もいる。
やっと表現できた喜びを感じている本人が、
信じてもらえない現実にふたたび絶望するケースもあった。
意思を持ちながら認められないのは、人間としての存在を否定されること。
その恐ろしさを想像してほしい。」
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最後の2行がものすごく印象に残りました。
明日から義父の所へ行ってきます。
ダーリンと2人、
義父の言葉にゆっくりと耳をかたむけてこようと思います。
かたむければかたむけるほど
理想と現実のギャップに悩まされることになると思うのですが。