どれくらい前だったか…?
本屋さんの店内をブラブラと、本の題名やら表紙やらを眺めながら歩いていた時、「だれ?これ?」「むっちゃ、かっこの良い人やなぁ~」「ジェームス・ディーンを日本人にしたみたいな顔の人や…」と思って、興味を魅かれたのが、白洲次郎さん。
「この人って、何者?どんなことした人?」と思い、白洲次郎さんについて書いてある数冊の本の中から選んだのが、『風の男 白洲次郎』(青柳恵介 著)だった。
この人をご存知の方も多いと思うが…。
1902年(明治35年)芦屋市生まれ
芦屋の貿易商、富豪の御曹司で、ケンブリッジ大学卒業。
「育ちのいい野蛮人」と呼ばれた。
終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の支配下の日本で、吉田茂の懐刀と言われた人。
「軍人による戦争には負けたが、歴史と伝統を保持する日本はつぶれていないぞ」と言う、日本人としての気概を持ち、GHQとの交渉にあたった。
敗戦により、GHQに対して従順過ぎたり卑屈な態度の官僚や政治家が多かった中で、白洲次郎は一歩も引かず、ケンブリッジ仕込みの流暢な英語で堂々と渡り合い、GHQに『従順ならざる唯一の日本人』と言わしめた。
プリンシプル(基本的な法則、主義、根本的な方針)を重視し、主張すべきところは、頑強に主張した人。
1940年(昭和15年)には、来るべき戦争、それに伴う食料不足を予測し、現、東京都町田市の古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名づけ、カントリー・ジェントルマンを自称し、百姓を営んだ。
日本人ではじめてジーンズをはいた人。
老年期には、『軽井沢ゴルフ倶楽部』で、理事・常務理事・理事長として、運営にあたった。
ここでのエピソードが、少々、痛快。
当時の首相が、電話で「明日プレーをしたい。何とかならないか」と尋ねると、「日曜はビジターはお断り」と言い、「そこを何とか…」と懇願されると、「それなら、これから理事会を招集しなければならないが、その決定を待っていただけますか」と言って、断った。
また、ある首相が、護衛を連れてコースにやってくると、護衛はメンバーではないからと言って、コースへの立ち入りを許さなかった。そして、「どうしても、護衛と一緒にいたいのなら、首相在任中はゴルフをしないことだ」と付け加えた。
台風の後、ゴルフ場の人間が、後始末に追われているとき、ある一人の代議士が、「(ゴルフ場を)早く再開させろ」とゴネていた。その代議士のところには、つかつかと歩み寄って「とぼけたことを言っていると、今度の選挙では落選するぞ」と言って、追い返した。
(この年の選挙で、この代議士は、実際に落選してしまったらしい)
車の後部座席で、ふんぞりかえって運転手にスパイクの紐を結ばせていた人に向っては、車の扉を開いて、「てめえには手がねえのか」と怒鳴った。
誰に対しても、ずけずけと思ったことを言った人。
ゴルフ場においては、メンバーはみな平等、誰であっても、特例や特別扱いは認めないと言う、プリンシプルを貫いた。
ゴルフがうまい奴がいばることを許さず、賭けゴルフも許さなかった。
また、マナーにはうるさく「PLAY FAST」と書いたティーシャツを作ったりもした。
反面、キャディ達には優しく、落雷のおそれが少しでもあるときは、プレーすることは断固として許さなかった。プレーをしている人間が自殺するのは勝手だが、それについて回らないといけないキャディがかわいそうとの配慮からだったらしい。
晩年は、自身でプレーをせず、それでも、毎日のようにゴルフ場に通い、フォークで雑草取りをしたり、雨が降ると長靴を履いて水溜りの場所を確認し、排水計画を立てたりしていた。
1985年(昭和60年)
「葬式無用 戒名不用」のたった2行の遺言を残し、11月28日ご逝去。
本を読んでみて、ジェームス・ディーンを彷彿とさせる風貌もかっこ良いが、考え方や、生き方自体もかっこ良いなぁ~と思った。
潔くて、自説を曲げない頑固さがあるけれど筋が通っていて、誰に対しても臆することなく向き合って主張するところは主張する。
さりげなく優しい一面もあって、それが爽やかさを感じさせる。
男の人にも惚れられそうな、かっこ良い人だと思った。
こんな白洲次郎さんのことが、現在、宝塚歌劇で舞台化されている。
戦後の、GHQの占領下におかれた日本が舞台で、この白洲次郎さんとGHQの最高司令官マッカーサーとの話が軸となっているらしい。
宝塚歌劇でなら、簡潔明瞭に、白洲次郎さんのかっこ良い生き様を観ることができるかもしれない。
ご興味の有る方は、宝塚歌劇へどうぞ!(なんて、宣伝か?)
ま、私も、宝塚歌劇の白洲次郎ってどんなものか?って、観に行きたいと思ってます。
本屋さんの店内をブラブラと、本の題名やら表紙やらを眺めながら歩いていた時、「だれ?これ?」「むっちゃ、かっこの良い人やなぁ~」「ジェームス・ディーンを日本人にしたみたいな顔の人や…」と思って、興味を魅かれたのが、白洲次郎さん。
「この人って、何者?どんなことした人?」と思い、白洲次郎さんについて書いてある数冊の本の中から選んだのが、『風の男 白洲次郎』(青柳恵介 著)だった。
この人をご存知の方も多いと思うが…。
1902年(明治35年)芦屋市生まれ
芦屋の貿易商、富豪の御曹司で、ケンブリッジ大学卒業。
「育ちのいい野蛮人」と呼ばれた。
終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の支配下の日本で、吉田茂の懐刀と言われた人。
「軍人による戦争には負けたが、歴史と伝統を保持する日本はつぶれていないぞ」と言う、日本人としての気概を持ち、GHQとの交渉にあたった。
敗戦により、GHQに対して従順過ぎたり卑屈な態度の官僚や政治家が多かった中で、白洲次郎は一歩も引かず、ケンブリッジ仕込みの流暢な英語で堂々と渡り合い、GHQに『従順ならざる唯一の日本人』と言わしめた。
プリンシプル(基本的な法則、主義、根本的な方針)を重視し、主張すべきところは、頑強に主張した人。
1940年(昭和15年)には、来るべき戦争、それに伴う食料不足を予測し、現、東京都町田市の古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名づけ、カントリー・ジェントルマンを自称し、百姓を営んだ。
日本人ではじめてジーンズをはいた人。
老年期には、『軽井沢ゴルフ倶楽部』で、理事・常務理事・理事長として、運営にあたった。
ここでのエピソードが、少々、痛快。
当時の首相が、電話で「明日プレーをしたい。何とかならないか」と尋ねると、「日曜はビジターはお断り」と言い、「そこを何とか…」と懇願されると、「それなら、これから理事会を招集しなければならないが、その決定を待っていただけますか」と言って、断った。
また、ある首相が、護衛を連れてコースにやってくると、護衛はメンバーではないからと言って、コースへの立ち入りを許さなかった。そして、「どうしても、護衛と一緒にいたいのなら、首相在任中はゴルフをしないことだ」と付け加えた。
台風の後、ゴルフ場の人間が、後始末に追われているとき、ある一人の代議士が、「(ゴルフ場を)早く再開させろ」とゴネていた。その代議士のところには、つかつかと歩み寄って「とぼけたことを言っていると、今度の選挙では落選するぞ」と言って、追い返した。
(この年の選挙で、この代議士は、実際に落選してしまったらしい)
車の後部座席で、ふんぞりかえって運転手にスパイクの紐を結ばせていた人に向っては、車の扉を開いて、「てめえには手がねえのか」と怒鳴った。
誰に対しても、ずけずけと思ったことを言った人。
ゴルフ場においては、メンバーはみな平等、誰であっても、特例や特別扱いは認めないと言う、プリンシプルを貫いた。
ゴルフがうまい奴がいばることを許さず、賭けゴルフも許さなかった。
また、マナーにはうるさく「PLAY FAST」と書いたティーシャツを作ったりもした。
反面、キャディ達には優しく、落雷のおそれが少しでもあるときは、プレーすることは断固として許さなかった。プレーをしている人間が自殺するのは勝手だが、それについて回らないといけないキャディがかわいそうとの配慮からだったらしい。
晩年は、自身でプレーをせず、それでも、毎日のようにゴルフ場に通い、フォークで雑草取りをしたり、雨が降ると長靴を履いて水溜りの場所を確認し、排水計画を立てたりしていた。
1985年(昭和60年)
「葬式無用 戒名不用」のたった2行の遺言を残し、11月28日ご逝去。
本を読んでみて、ジェームス・ディーンを彷彿とさせる風貌もかっこ良いが、考え方や、生き方自体もかっこ良いなぁ~と思った。
潔くて、自説を曲げない頑固さがあるけれど筋が通っていて、誰に対しても臆することなく向き合って主張するところは主張する。
さりげなく優しい一面もあって、それが爽やかさを感じさせる。
男の人にも惚れられそうな、かっこ良い人だと思った。
こんな白洲次郎さんのことが、現在、宝塚歌劇で舞台化されている。
戦後の、GHQの占領下におかれた日本が舞台で、この白洲次郎さんとGHQの最高司令官マッカーサーとの話が軸となっているらしい。
宝塚歌劇でなら、簡潔明瞭に、白洲次郎さんのかっこ良い生き様を観ることができるかもしれない。
ご興味の有る方は、宝塚歌劇へどうぞ!(なんて、宣伝か?)
ま、私も、宝塚歌劇の白洲次郎ってどんなものか?って、観に行きたいと思ってます。