タブレットを操作しているのが面白いので(笑)、
「あの人って、どんな人?」って思う人を検索し…、
そして、その人の書いているblogが有れば、少し読んでみたりもしている。
その中に、人にものを教えている先生が、生徒を「バカ呼ばわり」しているようなblogが有ったので、
読んでいて、「ちょっと、これはどうかなぁ~?」って思ってしまった。
あまりにも腹の立つことが有ったので、少し愚痴っているだけならまだしも、ご丁寧に「バカ」の連載をなさっていた(笑)。
「こういう生徒は、バカ」
「こういう態度の生徒は、バカ」
「こういうことを言う生徒は、バカ」
と、「バカの展示会か?」と思えるくらいだった…(爆)
気持ちは分かる…けど、くどい!
そして、「それを言っちゃ“おしまい”でしょ…」って思った。
この“おしまい”は、それを言ったら身も蓋も無いということではなく、
あなた自身(この先生自身)が、おしまい…という意味。
言いたいことを面と向かっては言えない気持ちを、blogに書いて発散なさっているのかもしれないけれど…。
こんな生徒は「バカ」だと書いて、ある意味、その先生にとっては、ストレス解消になっているのかもしれないけれど…。
でも、「こんな気持ちを抱えながら、生徒さんに接しているから、余計にストレス解消や発散をしなきゃいけないことになる…。
かなりストレスを溜めている先生だろうな…」との印象を受けた。
そこで、また…、
内田樹さんが書いておられた言葉の引用なのですが…(^_^;)
『人は、自分を「見下している」人間から何か「善きもの」を教わることはできない…』
『教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。』
…まったく、この通りだと思います。
だから、教える側が、教わる側のポテンシャルを見下してしまったら、教える側が「おしまい」…。
創意工夫をする気にもなれない。
「どうすれば良いのだろう?」を考える気力だって喪失する。
教えるモチベーションも上がらない。
よって、自分の教える技量も上がらない。
教わる側のポテンシャルを信じているからこそ、教える側は“熱く”なれて、そして自身も成長して行けるのである。
それに…、
「だから、あなたはダメなんだ」や「なんて、きみはバカなんだ」は、教わる側の責任か?
(教わる側の)ダメな部分に気づけるのは、教える側であるからこそ気づけること。
この部分に関しては、教える側が、自分と同列に考えて、教わる側を見下してはいけない。
見下すくらいなら、教える仕事は放棄すべき!
人は誰でも、苦手とする分野のことについては、“ドンくさい”し、
知らない分野のことに関しては、“バカ”なのである。
全ての分野において、その道のスペシャリストになることなど不可能。
それほど、世間や世の中は狭くない。
このblogを書いておられた先生は、自分のことは、自分でしっかりと“持ち上げて”おられたが…(笑)、
教わる側は、考え方にしたって、そのことへの取り組み方にしたって、教える側からすれば未熟な部分を持っているからこそ、教えてあげられることが、たくさん生じるのではないか?
そこに、教える側の存在意義が有るはず。
このバカの展示会をなさっている先生は、まず、そのことに気付いた方がいい…と思った。
そして、自分もまた、違う分野に足を踏み入れれば、“バカ”なのだ…と。
ま、「どんな人なのかな?」って思ったから、読んでみただけで、私とは無縁の人だから、指摘するまでも無いんでしょうけど…(~_~;)
もしも、こういうblogを目にしている人がいれば、「そうだ、そうだ」と同調してしまわずに、
『人は、自分を「見下している」人間から何か「善きもの」を教わることはできない…』
『教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。』
と言う事を知っておく方が良いでしょう…この意味をよく理解しておくと良いでしょう…って、私は思います。
…と言う事で、本日のblogは、『“同意”です(^^)/…その5』としておき…、
この二つの言葉は、私自身への訓戒の言葉にもしておきたいと思います。
「あの人って、どんな人?」って思う人を検索し…、
そして、その人の書いているblogが有れば、少し読んでみたりもしている。
その中に、人にものを教えている先生が、生徒を「バカ呼ばわり」しているようなblogが有ったので、
読んでいて、「ちょっと、これはどうかなぁ~?」って思ってしまった。
あまりにも腹の立つことが有ったので、少し愚痴っているだけならまだしも、ご丁寧に「バカ」の連載をなさっていた(笑)。
「こういう生徒は、バカ」
「こういう態度の生徒は、バカ」
「こういうことを言う生徒は、バカ」
と、「バカの展示会か?」と思えるくらいだった…(爆)
気持ちは分かる…けど、くどい!
そして、「それを言っちゃ“おしまい”でしょ…」って思った。
この“おしまい”は、それを言ったら身も蓋も無いということではなく、
あなた自身(この先生自身)が、おしまい…という意味。
言いたいことを面と向かっては言えない気持ちを、blogに書いて発散なさっているのかもしれないけれど…。
こんな生徒は「バカ」だと書いて、ある意味、その先生にとっては、ストレス解消になっているのかもしれないけれど…。
でも、「こんな気持ちを抱えながら、生徒さんに接しているから、余計にストレス解消や発散をしなきゃいけないことになる…。
かなりストレスを溜めている先生だろうな…」との印象を受けた。
そこで、また…、
内田樹さんが書いておられた言葉の引用なのですが…(^_^;)
『人は、自分を「見下している」人間から何か「善きもの」を教わることはできない…』
『教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。』
…まったく、この通りだと思います。
だから、教える側が、教わる側のポテンシャルを見下してしまったら、教える側が「おしまい」…。
創意工夫をする気にもなれない。
「どうすれば良いのだろう?」を考える気力だって喪失する。
教えるモチベーションも上がらない。
よって、自分の教える技量も上がらない。
教わる側のポテンシャルを信じているからこそ、教える側は“熱く”なれて、そして自身も成長して行けるのである。
それに…、
「だから、あなたはダメなんだ」や「なんて、きみはバカなんだ」は、教わる側の責任か?
(教わる側の)ダメな部分に気づけるのは、教える側であるからこそ気づけること。
この部分に関しては、教える側が、自分と同列に考えて、教わる側を見下してはいけない。
見下すくらいなら、教える仕事は放棄すべき!
人は誰でも、苦手とする分野のことについては、“ドンくさい”し、
知らない分野のことに関しては、“バカ”なのである。
全ての分野において、その道のスペシャリストになることなど不可能。
それほど、世間や世の中は狭くない。
このblogを書いておられた先生は、自分のことは、自分でしっかりと“持ち上げて”おられたが…(笑)、
教わる側は、考え方にしたって、そのことへの取り組み方にしたって、教える側からすれば未熟な部分を持っているからこそ、教えてあげられることが、たくさん生じるのではないか?
そこに、教える側の存在意義が有るはず。
このバカの展示会をなさっている先生は、まず、そのことに気付いた方がいい…と思った。
そして、自分もまた、違う分野に足を踏み入れれば、“バカ”なのだ…と。
ま、「どんな人なのかな?」って思ったから、読んでみただけで、私とは無縁の人だから、指摘するまでも無いんでしょうけど…(~_~;)
もしも、こういうblogを目にしている人がいれば、「そうだ、そうだ」と同調してしまわずに、
『人は、自分を「見下している」人間から何か「善きもの」を教わることはできない…』
『教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。』
と言う事を知っておく方が良いでしょう…この意味をよく理解しておくと良いでしょう…って、私は思います。
…と言う事で、本日のblogは、『“同意”です(^^)/…その5』としておき…、
この二つの言葉は、私自身への訓戒の言葉にもしておきたいと思います。