本日も、“内田先生ネタ”です…(^_^;)
本日は、DV(ドメスティック・バイオレンス、家庭内暴力)のこと。
ドラマ『カレ、夫、男友達』には、妻に激しく暴力を振るう夫が出てきていましたが…
ああいう映像って、観るのも嫌ですね…(-_-;)
私は、DVには、絶対に“早期段階”での、第三者の介入が必要だと思っています。
DVの当事者同士、加害者と被害者の間での話し合いだけでは、なかなか収拾がつかない、解決しないのではないか…と。
被害者が辛抱してしまえば、加害者は、反省するどころか、だんだんと、その行為をエスカレートさせてしまう…だからDVは、深刻な問題になってしまうのだと思う。
それくらい、DVは陰湿で怖いと思います。
今、もしも、このような問題で、悩んでおられる方がいらっしゃれば、辛抱し過ぎることなく、一人で考え込み過ぎることなく、なるべく早く、どなたか、信頼のできる方に、ご相談なさった方が良いのでは…と思いますよ。
内田先生が、DVについて書いておられたことを、所々引用しておきます。
『DVが巷にあふれているということは、暴力と暴力的なことばで自己表現するしかたを人々が「学習」したからです。』
『DV事例の多くは嫉妬や過干渉から始まります。「オレはお前のことをこんなに愛しているのに、どうしてオレの気持ちが分かってくれないのだ」と言って泣きながら殴りつける、というのが典型的なケースです。
暴力をふるう側は「オレの気持ち」は「純粋だから正しい」と思い込み、暴力を受ける側もしばしば「純粋な愛ゆえの暴力」は容認されるべきだという判断に与します。
そうである限り、加害者も被害者も、二人ともこの点については同じイデオロギーの信奉者です。
もし被害者が「愛情は決して暴力的表現を取らない」ということを確信していれば、この暴力行為はいきなり刑事事件となって、加害者は法の裁きを受けることになるでしょう。』
暴力を振るう人、それを許せると思う人は、同じイデオロギー(思考傾向)の信奉者ですよ…本当に…(ーー;)
「絶対にアカンやろ」って思っていたら、『いきなり刑事事件となって、加害者は法の裁きを受けることになるでしょう』って…
それくらいの気持ちになる…と思います。
『幼児期に親から虐待されてきた子どもは、虐待されることを「屈折した愛情」の証拠だからと自分に言い聞かせて、その救いのない幼児期を何とか意味のあるものだったと思い込もうとします。愛しているから殴ったとでも思わなければ、救いがないのです。結局それが悪循環になっています。』
『DVがやまないのは、殴る側も殴られる側も、心のどこかで、そういう激しい感情の発露を愛情の「屈折した表現」であると信じようとしているからでしょう。』
ドラマ『カレ、夫、男友達』においても、DVを受けた妻は、心のどこかで、これは「愛の有る束縛」で、「相手を受け入れる」ことなのだ…と信じようとしていました。
なんだか、とても憐れで、本当に痛々しかった…(~_~;)
『人間が暴力をふるうのは、自制心が弱いとか、思いやりが足りないとかいう理由からだけではありません。暴力の行使を合理化できる論拠が自分にはあると思っているからです。その論拠を「みんな」が承認してくれると信じているからです。』
…私は、そんな暴力を承認しません…当たり前ですけど…(笑)。
「みんな」も承認してはいけません…。
激しい感情の発露によって、ふいに手が出てしまったことは有ったとしても、
“普通”なら、それは、暴力を振るった人の方の心に、痛手となって、残るはずです。
「あの時、殴ってしまって、ごめんよ…」みたいな感じで…。
なのに、それが何度も続くようであれば、やはり、それは、どこか「おかしい」のです。
容認してしまえば、殴られる方も辛抱してしまえば、どんどんエスカレートする…。
そういう危険を感じます。
だから、取り返しのつかないような悲惨なことになる前に、なんとしてでも、手を打つべきです…って思います。
『「オレはお前を愛してる」と言いさえすれば、後は何でも許されるというのは、いい加減にやめませんか。』
『「「殴る人間は殴られる人間のことを愛していない」ということをきっぱりと双方が確認すれば、家庭の中で暴力がうじうじと持続することは防げるはずです。
人を傷つけるのは相手に対して悪意があるからです。』
『ほんとうに人を愛していたら、殴れない。』
…つくづく、DVが映像化されているドラマや映画などに感化されてはいけませんよ…って思います。
本日は、DV(ドメスティック・バイオレンス、家庭内暴力)のこと。
ドラマ『カレ、夫、男友達』には、妻に激しく暴力を振るう夫が出てきていましたが…
ああいう映像って、観るのも嫌ですね…(-_-;)
私は、DVには、絶対に“早期段階”での、第三者の介入が必要だと思っています。
DVの当事者同士、加害者と被害者の間での話し合いだけでは、なかなか収拾がつかない、解決しないのではないか…と。
被害者が辛抱してしまえば、加害者は、反省するどころか、だんだんと、その行為をエスカレートさせてしまう…だからDVは、深刻な問題になってしまうのだと思う。
それくらい、DVは陰湿で怖いと思います。
今、もしも、このような問題で、悩んでおられる方がいらっしゃれば、辛抱し過ぎることなく、一人で考え込み過ぎることなく、なるべく早く、どなたか、信頼のできる方に、ご相談なさった方が良いのでは…と思いますよ。
内田先生が、DVについて書いておられたことを、所々引用しておきます。
『DVが巷にあふれているということは、暴力と暴力的なことばで自己表現するしかたを人々が「学習」したからです。』
『DV事例の多くは嫉妬や過干渉から始まります。「オレはお前のことをこんなに愛しているのに、どうしてオレの気持ちが分かってくれないのだ」と言って泣きながら殴りつける、というのが典型的なケースです。
暴力をふるう側は「オレの気持ち」は「純粋だから正しい」と思い込み、暴力を受ける側もしばしば「純粋な愛ゆえの暴力」は容認されるべきだという判断に与します。
そうである限り、加害者も被害者も、二人ともこの点については同じイデオロギーの信奉者です。
もし被害者が「愛情は決して暴力的表現を取らない」ということを確信していれば、この暴力行為はいきなり刑事事件となって、加害者は法の裁きを受けることになるでしょう。』
暴力を振るう人、それを許せると思う人は、同じイデオロギー(思考傾向)の信奉者ですよ…本当に…(ーー;)
「絶対にアカンやろ」って思っていたら、『いきなり刑事事件となって、加害者は法の裁きを受けることになるでしょう』って…
それくらいの気持ちになる…と思います。
『幼児期に親から虐待されてきた子どもは、虐待されることを「屈折した愛情」の証拠だからと自分に言い聞かせて、その救いのない幼児期を何とか意味のあるものだったと思い込もうとします。愛しているから殴ったとでも思わなければ、救いがないのです。結局それが悪循環になっています。』
『DVがやまないのは、殴る側も殴られる側も、心のどこかで、そういう激しい感情の発露を愛情の「屈折した表現」であると信じようとしているからでしょう。』
ドラマ『カレ、夫、男友達』においても、DVを受けた妻は、心のどこかで、これは「愛の有る束縛」で、「相手を受け入れる」ことなのだ…と信じようとしていました。
なんだか、とても憐れで、本当に痛々しかった…(~_~;)
『人間が暴力をふるうのは、自制心が弱いとか、思いやりが足りないとかいう理由からだけではありません。暴力の行使を合理化できる論拠が自分にはあると思っているからです。その論拠を「みんな」が承認してくれると信じているからです。』
…私は、そんな暴力を承認しません…当たり前ですけど…(笑)。
「みんな」も承認してはいけません…。
激しい感情の発露によって、ふいに手が出てしまったことは有ったとしても、
“普通”なら、それは、暴力を振るった人の方の心に、痛手となって、残るはずです。
「あの時、殴ってしまって、ごめんよ…」みたいな感じで…。
なのに、それが何度も続くようであれば、やはり、それは、どこか「おかしい」のです。
容認してしまえば、殴られる方も辛抱してしまえば、どんどんエスカレートする…。
そういう危険を感じます。
だから、取り返しのつかないような悲惨なことになる前に、なんとしてでも、手を打つべきです…って思います。
『「オレはお前を愛してる」と言いさえすれば、後は何でも許されるというのは、いい加減にやめませんか。』
『「「殴る人間は殴られる人間のことを愛していない」ということをきっぱりと双方が確認すれば、家庭の中で暴力がうじうじと持続することは防げるはずです。
人を傷つけるのは相手に対して悪意があるからです。』
『ほんとうに人を愛していたら、殴れない。』
…つくづく、DVが映像化されているドラマや映画などに感化されてはいけませんよ…って思います。