阿部ブログ

日々思うこと

北京から愛をこめて〜最凶合成麻薬フェンタニル(Fentanyl)

2019年09月29日 | 雑感
落合信彦の「北京から愛をこめて」には、中国共産党が北米や欧州に麻薬輸出している実態を報告しているが、それは今も継続している。今、売れ筋なのが最凶の合成麻薬である「フェンタニル」である。
 

フェンタニルは、粗ヘロインとフェンタニルを10:1の割合で混ぜ合わせて作られる。中国からは、フェンタニルと酢酸塩と亜塩素酸塩が一つのキットとして輸出される。現地では、粗ヘロインと塩素とアルコールなど怪しまれずに現地調達できる薬品を調達し調合する。
最初に固形に成形された茶色の粗ヘロインを粉体にする。これに中国からのフェンタニルを混ぜる。前述の通り混合の割合は10:1。ここが肝心でフェンタニルは微量の違いで効果が大きく異る。多すぎると摂取した人間を死に至らしめるし、少なすぎると合成麻薬としての顧客満足度が低下する。最凶合成麻薬フェンタニル製造業者の腕の見せ所だし、最終消費の評価に直結する。粗悪品を製造しては中長期的観点から持続的な儲けにつながらないのだ。
フェンタニルと粗ヘロインに複数の工程にて塩素、酢酸塩、アルコール、亜塩素酸を混ぜて混合、反応させ最終的に固形化するまで煮詰める。固形化したブツは、半日ほど日光の微弱な紫外線を当てて水分を飛ばし殺菌する。ヘロインの製造もそうだが、フェンタニルの調合でも特有の匂いが生じるし、フェンタニルを皮膚に付着するのを避ける必要がある。理想は軍隊が用いる化学戦防護服が必要だ。調合過程でフェンタニル依存症となる可能性が非常に高い。10:1の調合ができるスキル者は、そう多くはないだろうから、取仕切っているボスも注意するポイントではある。しかし、中国はフェンタニルの調合については失敗しないようフェンタニルの調合キットには、厳密なフェンタニル量と作業指示書を付けており、実地にトレーニングも行っている。

粗ヘロインではなく、純度を高めたヘロインと混ぜる「エル・ディアブリート(El Diablito)も売れ筋のようだ。

Fentanyl is made by mixing crude heroin and fentanyl in a 10: 1 ratio. From China, fentanyl, acetate and chlorite are exported as one kit. The company will procure and mix locally available chemicals, such as crude heroin, chlorine and alcohol, without any suspicion.
First, the brown crude heroin formed into a solid is powdered. Mix this with fentanyl from China. As mentioned above, the mixing ratio is 10: 1. This is the key point, and the effect of fentanyl differs greatly depending on the minute amount. If the amount is too large, the ingested humans will die, and if the amount is too small, customer satisfaction as a synthetic drug decreases. It is a highlight of the virtuoso synthetic drug fentanyl manufacturer and directly linked to the assessment of final consumption. Producing inferior goods does not lead to sustainable profits from a medium- to long-term perspective.
In a plurality of steps, fentanyl and crude heroin are mixed with chlorine, acetate, alcohol, and chlorous acid, mixed, reacted and boiled down until finally solidified. The solidified butter is exposed to the weak ultraviolet rays of sunlight for about half a day to remove moisture and sterilize. As with the production of heroin, the formulation of fentanyl also produces a unique odor, and it is necessary to avoid attaching fentanyl to the skin. Ideally, you would need the chemical warfare suit used by the military. It is very likely that fentanyl dependence will occur during the compounding process. It's important to note that the boss in charge may not be able to make a 10: 1 mix. However, China has strict fentanyl dosages and work instructions in its fentanyl brewing kits to ensure that fentanyl brewing does not fail.

Mixing with pure heroin instead of crude heroin, "El Diablito seems like a hot seller.

内藤湖南(内藤虎次郎)の満州に関する文章が稲葉岩吉の『満州発達史』の冒頭に掲載されている

2019年09月22日 | 雑感
内藤湖南(内藤虎次郎)の満州に関する文章が稲葉岩吉の『満州発達史』の冒頭に掲載されている。
稲葉博士は、序文を内藤に頼んだのだが、かえってきたのは、下記のような長文を含む序文であった。当然、内藤虎次郎の下記序文はポイントを落として(多分9ポイント?)掲載されている。

「(略)古代から満州は、支那の大部の方に聞こえて居つた。三千年も前から、粛愼と云う名で聞こえて居る。日本の歴史にも、大分後に即ち千二三年も前に、この粛愼という文字が現れて居る。粛愼の人が渡つて来て佐渡ヶ島へ来たとか、北海道地方に居つたといふことが書いてある。併し其頃は、本当の粛愼の本部があつたのは極く古いので、松花江へ入る河に通称牡丹江と伝ひ、満州語では呼見○河というふがある。其の牡丹江の沿岸地方に大きな湖水がある。是は支那人は昔から鏡泊と言っているが、其湖水の少し北の方に、粛愼の昔の痕がある。勿論それは、粛愼の首都で、粛愼種族は、其處を中心にして、大分満州各地に廣がって居つたものに相違ない。此の粛愼として支那に知られた間は、幾年位かと云うことは分明せぬが、略ぼ三千年前から二千年前までの間、粛愼又は稷愼等の名で聞えて居った。
其次に起こったのは、漢の末頃、即ち今から千八百年位前に知られて居った國で高句麗、是は日本の古史で知られて居る高麗と同じで随分大国である。其時分、漢では遼河の沿岸の今の奉天以北までも版図を広め、鴨緑江の沿岸も、海口の処に朝鮮へ交通する路が開けて居ったが、高句麗は、鴨緑江の沿岸地方を主なる部分として國を樹てて居った。今一つ扶余と云う國があり、高句麗よりも少し古く開けたらしく前漢の末から知られて居るが、それは今の南満州鉄道の終点、長春府の西北に農安懸と云う所があるが、此處が中心で、夫から西遼河の沿岸に廣がって居った。此二國は漢の中頃より末頃にかけて満州で有名な大きな國であった。其の歴史は随分長く続いて居るが、扶余の方が先づ亡んだ。扶余が亡くなった後に、高句麗は益々大きくなって、七百年間も継続した。其晩年には朝鮮の方まで繋がって、今の平壌に都をして居って、併せて満州まで手を廣げて居った。此國も鴨緑江の沿岸を中心に其の晩年には朝鮮の方まで廣がって、今の平壌に都をして居って、併せて満州まで手を廣げて居った。此國も鴨緑江の沿岸を中心にして起こったが、此國が滅んだのは、唐から攻められた為で、其際に日本と支那との勢力が朝鮮満州地方で始めて接触した。其時から、日本は、満州に対して何事か出来ると云う運命を現はし始めたのである。是が唐の高宗の時、日本の天智天皇の時である。
高句麗が滅んで、又満州の種族が直ぐ之に代って、高句麗より遥かに大きな國を樹てた。それは、日本とも永く交通した國で渤海国である。勿論種族から、言葉から、高句麗と少しも変わりはない、今の満州種族である。何故に唐が一方に盛であるのに、亡んだ高句麗よりも大きな國が満州に於いて樹てられたかといふと、唐の則天武后の頃、満州と支那大部との間に一種の種族が中に入って来た、即ち契丹種族が、北から下って来て遼西の地方に迫ってきたので、此の地方から支那の本部の交通が頗る困難に陥った。それで支那の勢力が満州に加はることがなくたぅったから、渤海が大きな版図を領して発起することを得た。鴨緑江から今の奉天辺にかけてー奉天は其時に渤海の一州であって、既に小さい城市を成して居った。奉天は元、明の時から瀋陽と居たが、これは渤海の時に満州といったのから起因して居る。兎に角、此の瀋州辺からかけて、北の方、扶余の故士たる長春から農安懸付付近、松花江の流域までかけて、余程広大なる國を樹てた。年数も三百年位続いて、日本には余程親密に交通をして居た。其大國である割合に、日本に対して恭順の意を表した。高麗とか新羅とかが、日本に対して縷縷無体の行動のあったのに比して頗る温順い國であった。蓋し当時支那との直接の交通が困難で、随て貿易上支那の優秀な産物、即ち絹綿其他を輸入することも困難である為めに、日本との貿易で、其の輸入を試みたのであろう。渤海の使が来ると、毛皮其他満州の産物を齋らして絹布など交易することを許され、其外に朝廷から特別に銭を賜って、物を買はせた例がある。此等の関係から我為に対して尊敬を表したものと見えて、唐の皇帝に対するように陛下という語は用いてなかったが、天皇と云う語を用いて居った。日本に渡航するには、今の露領ウラジオストクの辺りから出帆して、着く處は敦賀辺である。時には山陰或は北陸などに漂着し、甚だしきは出羽に漂着した。我が朝廷では、毎年十二年に一度来るように指定したが、渤海では、この指定の期間を守って居ない。頻々来航し、又縷縷難船して死んだ者が多いにも拘らず、絶えず交通を続けた。此出帆地の付近今ニコリスクあたりに、渤海では東京府を置いた。是は渤海が立てた五京の一で、其他南京府の一は、近年朝鮮と支那と交渉結果、有名になった間島に、延吉即ち俗に局子済と云う處の附近である。此地から鴨緑江へ出る道を、朝貢道と云って居った。朝貢道とは、即ち唐に交通する道の義で、鴨緑江を下って、南満州の沿岸を伝って旅順へ出て、老鉄山の海峡を渡って、山東の登州府へ着き、それから長安の方へ行くと云う道筋を通ったのである。勿論海を渡ることは、当時としては余り望ましいことではなかったに相違ないけれども、前にいう通り、寮西の道は、契丹に塞がれて居るので、皆鴨緑江を通ったのである。この朝貢道と云う事実は当時の史乗にも現れて居り、又近年旅順の黄金山の下にあった鴻臚井に、古い刻石があって即ち唐の使者崔折が祈念の為に刻したのである。日本でも、当時唐に交通をしたが、当時の航海術で大海を横切って、支那へ行くと云うことは、非常なる危険なことで、縷縷難船をする。遠くとも陸行が宣いと云う所から、日本から渤海の都へ出て、夫から鴨緑江を下って旅順を経て山東へ出て、長安へ行ったことがある。今から考えて見ると、非常なる迂回であるが、渤海と親しく交通をして居るので成べく海を通る道を少なくしようと云う考からしたものと見える。又今の南満州鉄道附近の開原から東に向って永く分水嶺になる山脈を越えて、朝暘と云う處がそれである。是は唐に交通する道であるけれども、契丹の逼迫の為に、実際後になって用いらなかったのである。又モウ一つ北に道がある。即ち扶余府から西へ行く、是は契丹道である。扶余府は即ち今の長春府の西北の農安懸である。以上は渤海が当時の交通路であるが、其外五京の中の中京府は、松花江の支流、揮発河の沿岸地方に在り上京府は、昔し粛愼の有った○址の辺に置いた。此の如く五京を立てて今の南北満州かけた大国であったが後に契丹に近い地方へ移して満州の地を捨てた状態になって居った。故に渤海の國は亡んだが、残った民族は依然○地に居って、契丹の治外に立て居つた。契丹が衰えて来ると、この民族が代って起こったのが金である。金國は、八百年ばかり前に起ったので、、今のハルピンの傍なる阿什○又阿勒楚○城の南方にある白城、それが昔金の都の跡である。此地が金、都の跡と云ふことは、余の老友なる支那人○廷○云う学者が考へ出して、其後になって白鳥博士が、白城の跡に於て金碑を発見して、愈よ金の上京○寧府の跡に違いないと云うことが定まった。金の時は其民族を女真と云ったが、勿論高句麗、渤海同様の満州族で、白城附近に根拠を置いて、これから東南、朝鮮の○鏡北道まで有って居った。夫から阿骨打の時に急に大きくなって、○ち西の方へ侵略して、契丹即、遼國を滅し、更に宋 打破って、支那の半分を取る位に発展したが、此後百余年続いて、金 滅びて、蒙古種族から起つた元に取られた。元が滅びて明になり,清朝になったが、元明の間は、満州は女真種として、大に退歩を来した。清朝の起つたのは、奉天の南を流るる○河の上流地方で、元の高句麗の起った土地の一部分である。古代から段々満州に於て起った國はザツと右の如くであるが、一時清朝の初め、今から百年ばかり前までの間は、歴史が中絶したのが妙である。其の中絶した所以は、満州に起った清朝が間もなく北京に乗込んで、支那を統一することになると、其の発祥地方の人民を多数引連れて、その禁軍たる八旗兵を組織する関係から、殆ど満州の土地を空虚にしてしまった。此の空虚の地に、若し支那人が代って入って、これを開拓することになると、其の根拠を失うと云ふ考えから、支那人に一切満州へ入ることを禁じた。即ち之を封禁地と称した。一カ年の内、数次、満州人だけに此地に入りて満州の産物たる人参を掘らせ、及び満州人の武器たる矢を造る鷹の羽などを取らせる、即ち天産物を採取する為めに一カ年数次封禁地に入る必要があるので許すが、其の公用で入るものの外は、一切中に入って開墾することも出来ず、狩猟をすることも許さない。其の政策は、約百年以上継続して居った。それが為満州の歴史が中断して、総て昔の事が分からなくなった。昔盛であった土地も皆荒れて仕舞ひ、都会は全くなくなって、公用で行く満州人などは、全く無人の地を行く困難があるから、点又は○○という宿場に行人の寝るだけの用意した家屋を造って置いた。支那人の旅行には、総て食物調度品を持ってあるくから、其の官設の小屋に宿る。其小屋だけが残ったが、満州の歴史は一旦中断して仕舞った。
其の中絶した歴史が、如何にして復活して来たかというふと、是は自然の結果である。此中絶した歴史の初めて復活したのは、清朝の嘉慶四年だと思ふ、今より百十五年前である。此の時に初めて満州の開発の歴史が復興した。其復興が長春から始まったのが面白いので、これが扶余の地である。満州の歴史は、勿論扶余の前に粛慎があるが、清朝の封禁時代にも、寧古塔即ち粛慎の古地だけは開けて居り、満州種族も住居し、又漢人の犯罪者の流さるる土地になって、開かれて居った。ソコで此は取除として、其他の最も古い歴史を有って居る扶余の初めて起った所から歴史が復興したのが妙である。長春附近は当時蒙古の郭爾羅斯の公の領地で、蒙古人の習俗として、牧地として領有して居たが、かくて田地として耕作した方が利益だろうと考へたものと見える。そこで僅かに山東から百姓を呼んで耕作をした處が、段々大きくなって、清朝の官吏も倒頭発見した。発見した時には戸数が二千余戸、田地が二十六萬余○と云うものが開かれて居る。そこで此二千余戸の人民を追い出して開いた田地を潰すと云うことは、全く智慧のない話であるから、是は寧ろ許してしまほうといふことになった。そこで初めて開発されたのが長春府である。長春府が開発せられ、満州地方でも耕作をすることの利益だと云ふことを政府でも考へることになった。其際北京では八旗の満州人が北京に入ってから、既に二百年近くになるので、人口が殖えてきたが、是に定禄を宛行って居るので、数が殖えたからとて禄を多く宛行うといふ訳には往かぬ。殊に定まった政府の牧人では、多く金穀を支給することも出来ない。此の始末に困って居った。處で考へ附いた。蒙古の王公が長春を開墾をして、大変利益があると云ふことだ。それから考へると、満州の或る地方を開墾するが宜しかろうと云うことになった。其時に初めて開墾されたのが、ハルピンから少し西南の方に当たる変城子と云ふ今の露西亞の東清鉄道の驛のある所、其所に屯田を開いた。又今の第二松花江驛から少し西北に当る伯都訥にも開墾した。それが政府が手を下してやった開墾の初めである。勿論其時も漢人に開墾を許したのではないので、単に満州八旗に開墾を許したのであるが、兎に角満州の封禁地に開墾をするようになつたのは、此時が初めである。處が妙なことには、最初に満州の開発されたのが長春府で第二に開墾に着手されたのが金の起った地方に近いのである。夫らく暫く開墾の沙汰もなかったが、道光の末から
○豊年間に、長髪賊の大乱が起つて、其の為に満州などは放棄して置くような有様であった。其間に、今度は漢人が勝手に満州に潜り込んで、そこら中開墾又は金鉱採掘を始めて居った。其中最も大きかったのが鴨緑江の沿岸で、殊に其支流の混江から通化・懐仁辺の土地で、大開墾をして居った。其内に賊亂も下火になり、同治六年、今から丁度四十八年前に、封禁地に、知らぬ間に田地が出来て居るといふ騒ぎで、急に之を調べようと云うことになった時、其處へ行って開墾をして居った者が、今まで脱税で開墾して居ったけれども、脱税して罰せられるより、正当の田地として納税をした方が宜いと云うので、土地の調査、地租の賦課、即ち弁料と云ふことを願い出でた。政府でも其の開墾を認めることになった所が、百七余萬畝と云ふものが、朝鮮に近い所だけで開墾されていた。此より政府の方針一変して、封禁を開放し地方官も設けるが宜し、段々満州を開発する方針にするが宜いといふので、満州人に限らず、漢人も引入れて開墾することになった。それで鴨緑江の地方即ち昔の高句麗の起った地方は歴史が新たに始められた。以上は奉天省の事であるが、吉林省の方でも新しい土地を何処までも開墾して行く方が政府の利益にもなり収入も増すと云うことで、段々開墾すると云う手順になって来た。其時吉林省の有名なる将軍銘安が、名案を出して開墾の奏議を出した。處が之が採用されて牡丹江の上流地方を開墾して見たが、モウ一つ山脈を超すと良い土地がありさうだと云うので、行って見ると、満人が○かに金鉱の採掘をして居る地方へ出た。一時やかましかった天宝山の金坑並びに○春地方の沙金地がそれである。處が此地方に漢人よりも多く入込で盛に耕作して居るのは、朝鮮人であったので、支那の官吏は非常に驚いた。それから間島問題が起ったが、明治十三四年頃から此の問題は起こりかけて来て、近年までやかましい問題であった。ツマリ朝鮮人が先ず行って開梱し、支那の方からも行って開梱しようといふので手を附けて見た結果として、茲に国際問題が起った訳である。それから段々黒竜江の方も開墾したが、兎に角百十何年前から最近までの間、満州の開墾と云ふものは、さういふ順序で段々封禁地 開放する方針に変って来たのである。開墾された土地が、どう云う所かと考へて見ると、皆往古一時國が起って盛であった處處を段々探ねて行くように、昔の開けた跡の土地が段々開けて行くのである。歴史は繰返すと言ふが満州に於ける実際の歴史、以上述べた百年此のかたの開発の歴史はツマリ三千年此のかた二三百年前までの間に開発されたと同じ土地に開発されて居る。昔の交通路を見ても、今と余り変わりがない。ウラジオストクと日本との連絡は今日あるが如く、渤海と日本の連絡があった鴨緑江の道は、今日でも上流から材木などを下して大切な交通路になって居る如く、渤海が唐に交通する道であった。長嶺符の営州道は、近頃では、揮発河の上流の地方から、段々豆が出て来たのが、一時鉄嶺に寄り集ったが、今日では鉄道が出来た為に開原に集まることになった。扶余府より西へ向かう契丹道といふのは、今日でも、長春府から西の方へ向って奉天省の西北鄭家屯の方へ交通する道がある。近似の満州の開発は盛で日本でも露西亞でも手を着けて、鉄道も敷き、種々の事業を企つるのは、百年来の農業開発の為であるが、農業の開発された地方は、全く昔の國國の起った地方の跡を探ね探ねて自然に開けて行ったのである。勿論それを開発する人が、何人も、是は昔の國跡だからといふので、目的を定めてしたのではない。歴史も何も知らずに開いた居るが、自然に歴史を探ね探ねて開いて行くような形になって居る。交通路でも同様である。三千年前から三百年前までの古い歴史も、百年このかたの満州開発の実情 照らして見ると、溌剌として生きて居るように考へられている。それ故今日の満州を知って居ると、自然昔の歴史上を知ることが出来る。古代の満州の歴史を知って居ると、今日の満州が如何なる方面に於て開発せられて行くと云うことを知ることが出来ようと思う。随て歴史は、単に過去の死だ事実ではなく、我等の現在の実生活と顕然たる関係あるといふことを知り得ると思ふ。
(略)
大正四年四月廿九日東京旅次に於て   文学博士 内藤虎次郎」
(稲葉岩吉 「増訂満州発達史」日本評論社 昭和十八年八月十一日 第十刷発行 1ページから8ページ)※初版は昭和十年一月十四日)

島原鉄道 赤パン2

2019年09月16日 | 雑感

 

 

更地になった築地市場

2019年08月03日 | 雑感

    

皇居の中にあった大川周明の「大学寮」〜大東亜戦争への路を切り拓いた人材を輩出

2019年07月21日 | 雑感
戦前の皇居の中に気象測候所があったことは余り知られていない。
明治維新後の気象観測は、今のホテルオオクラがある場所(東京市赤坂区溜池葵町)で内務省・地理寮量地課気象掛によって行われていた。しかし、この土地は、西南戦争の論功行賞により大倉喜八郎に払い下げられた。大倉には、武器弾薬の調達に功があった。前述の通り、8,000坪の土地に喜八郎は、ホテル「大倉」を建てるのだ。
さて、気象掛は、紆余曲折を経て、皇居の中に移設された。場所は、まさに江戸城本丸、天守閣の土台があるところ。気象観測は実際に天守閣土台で行われていた。住所は、東京市麹町区代官町。当時は、皇居の中なのに住所が付されていた。
※当時の様子を知るには「東京トリップ」が参考となる。

この皇居にあった大学寮については、敗戦後、戦犯指定を恐れて3年間、女中と逃げ回った大谷敬二郎の「昭和憲兵史」から引用する。
「大正十年頃から皇居の旧本丸に、社会問題研究所というのがあった。小尾晴敏、安岡正篤が、宮内大臣牧野伸顕の後援で、地方青年に対し社会教育者としての訓練を目的として始めたものだが、大正十年春頃、大川周明が、この研究所の同人となると、名を大学寮と改め、世のデモクラシー風潮に対し日本主義を鼓吹し、牧野宮相、関屋宮内次官、荒木貞夫、渡辺錠太郎、秦真次ら諸将軍も参加し、また陸海軍の少壮将校も出入することになった。ことに西田税が軍事学の講師として在寮していたので、陸海軍青年将校、陸軍士官学校生徒も集まり、西田と青年将校、また陸軍と海軍との青年将校との結びつきができた。この意味で大学寮の存在は、わが国革新運動史上銘記せらるべきだろう。」(大谷敬二郎「昭和憲兵史」みすず書房、1966年、71ページ)

大川周明や北一輝の盟友 満川亀太郎の「三国干渉以後」からも引用する。満川は大学寮に寄宿していた当事者である。
「旧猶存社の同人が麹町区代官町なる大学寮に立て籠もったのは大正14年4月からであった。今までは小尾晴敏氏の経営に属し、一歩も教化運動の埒外に出なかった社会教育研究所は、明徳親民の国士養成機関として、新に我々同志の手に委せられた。八代海軍大将を顧問として、大川周明君は研究部長に、安岡正篤君は教育部長になった。上海からは村上徳太郎君、朝鮮からは中谷武世、西田税両君が迎えられた。民族問題とか国防学とかいふその当時には珍しい学科目が設けられた。また松延繁次君は労働問題を、柳瀬薫君は支那問題を、島野三郎君はロシア事情を講義した。沼波大人を始め、笠木良明、綾川武治、高村光次君等同士を合わせると、学生の数よりも常に多かったのである。」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、236ページ)

元憲兵司令官の大谷は社会問題研究所と書いているが、満川は社会教育研究所と書いている。満川が正しいだろう。満川は、日本の敗戦を知らない。「三国干渉以後」は1935年で平凡社発刊である。彼は1936年に脳溢血で死んだ。満川は続いてこう書いている。
「その前々学年の社会教育研究所時代から「国際事情」の講義を当てがわれていた私は、この年になって単身寮内に移転し、学生諸君と起伏を共にすることとなった。江戸城の名残を留めた天守閣あとに立って俯瞰すると、大学寮の建物は正方形であり、中庭に湛えた小池の周囲には、毛氈の苔蒸して学生の閑談するに適していた。名は代官町となっているが、お濠の中の一角であり・・・」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、237ページ)云々と。大学寮は正方形とは「東京トリップ」にある様子に合致している。

「顧問たる八代大将は縷縷来寮して、明治天皇御製の講演をされた。憲兵司令官たりし荒木貞夫少将もよく来訪された。寮生からは今内務省にその人ありと知らるる緋田工君や、熊本市に神風学寮を興して維新運動に従える井上寅雄君や、郷国石川県に潜熱せる金森喜与之君、武道特に杖術の熟達に、一新生面を開きつつある田島啓邦君等の人材がでたのである。
非常時日本の尖端を切りつつ、昭和7年2月5日上海爆撃に偉功を奏して戦死した藤井斎君、少尉候補生としての錨章短剣凛々しく来訪したのもこの頃であった。海軍兵学校生徒たりし古賀清志君もまた藤井君に伴われて来訪した。」(満川亀太郎「三国干渉後」平凡社、論創叢書4、2004年、238ページ)

2.26事件の蹶起から除外された青森第5連隊の末松太平(北九州出身)「私の昭和史」にも大学寮が登場する。
「西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、青森の五連隊での六ヶ月の隊付を終えると、私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、と筆をとって巻紙のはしに、さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田税や北一輝があった。しかし、入校早々、すぐにも訪ねなければとまでは思っていなかった。が、入校後間もない土曜日の夕食後、青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、まず西田税訪問が急に実現することになった。」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、35ページから36ページ)
「訪ねた場所はそのころ西田税が寝起きしていた大学寮である。健康上の理由で挑戦羅南の騎兵連隊から広島の騎兵5連隊に転任した西田は、結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、大学寮にきていたのである。
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。が、鶴居見習士官は、大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、一つ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。乾門である。右手に見あげるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。木造のちょっとした構えである。」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、37ページから38ページ)

末松の「私の昭和史」には大学寮に関する注釈が付されている。
「※4・・・・・・之により先大正十年頃より小尾晴敏なる者が安岡正篤と共に旧本丸内に「社会教育研究所」を設置し毎年地方の青年二十名前後を募集し、社会教育者としての訓練を与えて居た。大正十一年春大川は小尾より同研究所の同人たらんことを勧められ、之を快諾して日本精神に就いての講義を為すに至った。当時の宮内大臣牧野伸顕、宮内次官関屋貞三郎、荒木貞夫、秦真次、渡辺錠太郎等の諸将軍其他少壮陸軍士官等が随時来所して学生に薫陶を与え奮励を為したと言われている。
猶存社解散後大川は大正十二年秋より其の居を右研究所に移し青年と起居を共にして訓育に努め、尚其の名称を「大学寮」と改めた。大学寮と言うのは「大学之道 在明明徳 在新民 在出至善」とあるに依りたるものにして、明徳即ち自己の道義的精神を明らかにし、其の精神に則って民即ち国家社会を改新する人物を養成すると言う趣旨である。而して学生は応募者中より二十名内外を選抜し、皆寮内に起居し午前四時間は講義を聴き其の余は自習時間とし夜間には一周少なくとも二回は知名の士を招聘して学生をして其の智徳に接せしむる事とした。安岡正篤、満川亀太郎、中谷武世、松延繁次等が講師として其の訓育に携わり、西田税も其の当時の病気の為軍人を止めて来り投じたのである。神武会の中堅狩野敏は本寮の出身者にして、血盟団事件、五・一五事件に関係あり上海に於いて戦死した海軍少佐藤井斎も亦本寮に出入したと言われている。尚故海軍大将八代六郎は本寮の熱心なる後援者であった。・・・・・・」(前出「司法研究」四八頁。)
 なお、満川亀太郎著「三国干渉以後」二七二-二七四頁、「笠木良明遺芳録」二○八頁参照。」
(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、279ページから280ページ)
つづいて、同書の注釈には、
「※5・・・・・・[西田税は]大正十四年六月軍職を退き革新運動に専念従事するべく上京し大川周明の行地社に入り機関紙「日本」の編輯に当たり大学寮兼軍事講師となって国家革新運動の普及宣伝に努めた。・・・・・・」(末松太平「私の昭和史(上)二.二六事件異聞」中公文庫、2013年、280ページ)。

霞が関にある「海軍省跡・軍令部跡」の碑〜大東亜戦争の敗戦の原因は日本海軍にあり

2019年07月15日 | 雑感
官庁街の霞が関に「海軍省跡・軍令部跡」の碑がある。合同庁舎5号館の敷地の中である。以前から激写したいと思っていたが、一般人が観るにはハードルがある。警備員に碑の拝観と申告し、受付で氏名・住所を記入してから警備員さんに案内されて現地に行くからだ。丁度、合同庁舎5号館の19階にお邪魔する機会があり、ようやく撮影ができた。警備員さんに聞くと、やはり拝観する人は、旧海軍の人たちが多く、来るときは大勢でやってくるそうだ。掃除の時間帯だったようで、碑を作業員の方が水で清めていた。

     

※過去ブログ:海軍経理学校〜築地と靖国〜
      「戦艦大和副砲長が語る真実〜レイテ沖海戦の反転の真相」太平洋戦争の敗因は日本海軍にあり


手塚治虫書店

2019年07月13日 | 雑感

         

キプロス海域でのトルコによる天然ガス田開発

2019年06月30日 | 雑感
エクソンモービルが、キプロスの排他的経済水域で大規模な天然ガス田を発見。ブロック10と呼ばれる鉱区の埋蔵量は、1400億~2300億立方メートル。
トルコは、キプロスの天然ガス田開発を妨害してきた経緯があり、キプロスが排他的経済水域と主張する海域で、ガス田開発を進めている。トルコは今月20日には2隻目となる採掘船YAVUZがキプロス海域に向け出港し、トルコ海軍の警備艦艇も展開している。
EUは、キプロス海域でのトルコの天然ガス田採掘を非難。
トルコは、キプロス本土にある北キプロス・トルコ共和国を支援しており、ガス田開発海域は、北キプロス・トルコ共和国の排他的経済水域であり、合法だと主張している。北キプロスはトルコ版の満州国。北キプロス・トルコ共和国を承認しているのはトルコだけ。満州国でも12カ国が承認したと記憶しているが、北キプロスは、東地中海の火種であり続けるだろう。
前述の通りトルコは、ガス田開発を強行しており、2018年10月採掘を開始し、2019年7月からは20日に出港した掘削船で2ヶ所目のガス田開発に着手する。
キプロスは、既に作業中の人員に対し逮捕状を出しており、2ヶ所目のガス田開発要員に関しても逮捕状を出して逮捕するとしている。当然ながらトルコ海軍との小競り合いが発生する可能性が高く、キプロス海域の緊張が高まっている。

※過去ブログ:イスラエル=レバノン沖の天然ガス資源
       エジプト沖で世界最大の天然ガス田発見

丸ビルと新丸ビルの間に沈む太陽 2019年6月13日

2019年06月14日 | 雑感

    

  

  

パレスホテル周辺は警察官だらけ〜ドローン警戒に人海戦術で対応〜時代に適応できない警備公安警察

2019年05月23日 | 雑感
トランプ大統領が25日来日するが、警察は、宿泊する大手町のパレスホテル周辺を完全に包囲・監視下に置く処置を決定。周辺の地域でも巡回警備が強化されている。この範囲は、警視庁管轄を超えて実施されている。何故か? それは、新天皇即位に対し、ゲリラ的なドローン飛行を抑止できなかった為だ。幾つか視認情報はあったものの、被疑者確保には至っていない。そりゃそうだ、法律を作るのは勝手、だが、それには監視し、違反したら抑止・防衛・破壊がなされる手段を警察自体が有していなければならない。法律は所詮、紙での世界。ドローン飛行禁止区域を設定しましたと言っても、やろうと思う輩を取り締まる技術がない〜かわいそうにな、おまわりさんや機動隊、ご愁傷様です。また、暑い中、お疲れ様です。ホントウに〜

ドローンというと、皆さん、イメージする形状があると思いますが、既に東京上空では、ドローンの飛行は珍しくなく、しかも4kカメラを搭載しているので精緻な画像が撮れるので、今回のトランプさんの来日でも飛行するでしょう。最近ではバッテリーの性能著しく、充電しながらも飛行も可能。今日もそうだが、トランプさんが日本にいる間は、快晴のようだ。それと、殺人ドローンが開発されており、第一線に登場するだろう。超小型なので警戒や抑止は、どうだろうか…警察にとっては難しい時代になりました。

今回のトランプさんの訪日は、無事に済みます。米国は、本気で中国共産党を潰そうとしている。これは戦前の日本の経験したことだ。

北朝鮮は米国と取引〜中国は北朝鮮に手が出せない

2019年05月18日 | 雑感
北朝鮮の統一戦線部長の金英哲(キム・ヨンチョル)が失脚。金正恩の妹はジャンキーだが、北朝鮮労働党の中央委員会第一副部長という実質的なナンバー2の地位にある。彼女は、現在、金一族専属の病院に入院中。そして、国家保衛部の局長級3名と課長2名、その他事務官などが中国に亡命した。北朝鮮軍の偵察総局の長距離挺身隊が偵知に走っている。金正恩は、北朝鮮の富裕層や人民軍でビジネスに携わる軍人を粛清している。

急速に北朝鮮の公安組織と軍など富裕層が、追い詰められている状況にあり、国内外での反体制活動が活発化している。金正恩は、北朝鮮の軍閥を中心とする対外強硬派を潰しにかかっている。これは、米国と取引した結果だろう。誰でもわかることだが、このままではジリ貧である。この際、自らが先導して完全に開国するしかいない。中国が黙っていないが、北朝鮮は米国についている。中国は、北朝鮮に手を出せないだろう。何せ、米国は、本気で中国共産党を潰しにかかっているからだ。戦前の日本と同じだ。北朝鮮どころの騒ぎではない。

東京駅前の博多 丼拓 八重洲店〜薄口の出汁がたまらなく美味しい!

2019年05月18日 | 雑感
丼拓の出汁は、鰹、鯖、うるめいわしに、九州では定番となっているニビシ醤油を加えた薄口で、大変美味しい。ワタクシは、東北人なので、醤油味の濃い口が好みではあるが、丼拓の薄口出汁は格別だ。毎朝、丼拓で、かけ蕎麦大盛り370円に、ネギを盛って食べるのが日課となっている。本当は、うどんを食べるのが通なのだろうが、北の人間が選ぶのは、やはり蕎麦だ。
下記の写真には、かけ蕎麦とはいいながら、かしらの天ぷらが乗っているが、これは店員さんの心尽くし。美味しく、また感謝していただく。

 

最近は、一番最初に入店する常連となっている〜半開きになっているシャッターの前で待っていると、その足元を視認した店員さんは、大盛りの蕎麦を茹樽に投入した後、シャッターを開けに戸口に移動してくださる。こちらは、シャッターが上がりつつある中、準備中の看板を営業中にひっくり返して入店する。
かけ蕎麦と大盛りの食券を買ってカウンターに行くと、既に大盛りのかけ蕎麦は出来上がっていて御盆に乗っている。何という手際だろうか!

今年3月までは、店長と同じご出身のHさんが、65歳の嘱託定年で、故郷の久留米に帰郷され、お姿をお見かけすることがなくなった。正直、寂しい。ブリヂストンに勤務されていたようだ。以前は、Hさんが最初に入店され、うどんが出てくる前に、店内の箸置きや調味料、水などを定位置にないと、くまなく店内を廻って移動させていた。そのお姿が懐かしいし、また観てみたいとも思っている〜東京に来ることがあれば、是非、朝一番の丼拓にご来店下さい〜
出張が多いサラリーマン生活でしたね。お疲れ様でした。

         

クシュナーの中東和平案〜イスラエル主導による中東再編はロシアと衝突惹起

2019年05月18日 | 雑感
トランプ大統領の娘婿でユダヤ教徒のクシュナー上級顧問は、現在、中東の和平案を作成中。この和平案は、イスラエル政府との緊密な連携のもと、協働して作成作業が進められている。事実上イスラエルの対米外交を担っているのがモサドのワシントン支局長である。クシュナーの中東和平案は、イスラエル国内でも異論があり、エイゼンコット元参謀総長は、仮に和平案を公開すると西岸地区で暴動が発生するとの懸念を表明している。そりゃそうだ〜現在の西岸地区の入植地が、そのままイスラエルの主権下に置かれるのだから。これは間違いなく紛争を助長する。クシュナーはそれを重々承知。イスラエルは戦争してでも、周囲の反イスラエル勢力に打撃を与え占領地域を広げたいのだ。

イスラエルの国家意思がが顕著に現れているのが、イランである。イスラエルの意向を全面的に受け入れ対イラン政策を強硬しているトランプ大統領だが、イラン国民の生活を圧迫しており影響は深刻だ。イランのロウハニ大統領は、今の経済制裁がイラン・イラク戦争時よりひどいと発言している。イスラエルの罪は極めて大きい。
イランの革命防衛隊などイスラム勢力中枢を破壊したいイスラエルと米国は、イランとの開戦を求めて盛んに謀略工作を行っている。アラブ首長国連邦の4隻の民間船が攻撃されたと報道されているが、負傷者は無く犯人はわからない〜いつもの手口だ。イランはこの手の挑発にはのらないだろう。が、イランが攻撃したと欺瞞して、ペルシャ湾で先制攻撃したいのだ。米国防総省は、USS Abraham Lincoln (CVN-72) を旗艦とする空母打撃群を湾岸に派遣。またドック型揚陸輸送艦 USS Arlington (LPD-24)が随伴し、陸軍の パトリオット部隊も展開を完了している。

イスラエルの不穏な動きは、アラブ諸国に漏れ伝えられており、国連のムラデノフ特使がガザを訪問した際、イスラエルがガザに侵攻すると発言。ガザ周辺での暴動が、イスラエル軍をガザに導き入れる原因となる。また、ヒズボラのナスララは、今年の7月にイスラエルと戦争状態に陥り、自分達も殺される運命にあると語っている。避けようとしても、防ぎきれないと。

ロシアは、シリア内戦の終息に向けて最終掃討戦に乗り出しており、イドリブ県では、内戦最悪の状況が発現している。クルド民族軍もシリア・ロシア連合軍から攻撃され、トルコがそれに乗じて攻勢作戦を展開している。

何れにせよイスラエルとロシアとの国家的権益が衝突するのは眼に見えている。

ロシア主導によるシリア内戦終息に向けた取り組み

2019年05月06日 | 雑感
ロシアは、4月27日、イスラエルとシリア、イランの3者間で、信頼醸成措置に関する letters of good will が、ロシアの仲介・調停で交換された。
この信頼性醸成措置により、イランは、ゴラン高地の停戦ラインから80㎞地点までで革命防衛隊部隊を退げる。しかし、ロシアはイランへの圧力を強めている。特に、ダマスカスの軍用空港、スウェイダのkhalkhala、ダマスカス南東のbeit sahamから、革命防衛隊の撤収と、防空兵器、ドローンを撤去させようとしている。イランのドローンは、米軍から奪取した最新鋭のステルス無人偵察機のコピー機al saiqaである。
ロシアは、以前はラタキアへの海軍基地建設を支持していたが、今では建設計画を妨害している。また、ロシアは、イランによるアラブ人の民兵勧誘を止めるように警告しているし、革命防衛隊やイラン系民兵部隊への浸透工作を行っている。諜報工作に長けたロシアならではだ。

プーチンは、イドリブ・アレッポ地域に対する全面軍事行動を否定していないが、ロシア空軍機が、シリア政府軍と連携して激しい空爆を行っている。攻撃地域は、telmlaとal habit、al howeija、ghaba、kafar nabida、al lataminaなどで、地上軍によるロケット攻撃と、攻撃ヘリが地上を掃射し、樽爆弾などを投下し地上攻撃を支援している。ロシア軍は、アレッポ北西のハマに戦力を移動している。そしてロシア軍とシリア軍の攻撃を受け、イドリブから住民が避難している。
ロシアは、硬軟交えた取り組みから、シリア内戦終息後の枠組みを、ロシアの権益を確実にする政治工作を展開しており、今後動きにも注目である。

さて、米軍は、相変わらず、クルドYPGを保護・監視下においているが、シリア民主軍のマズルーム・コバネ総司令官は、シリア部族会合で、シリア内戦前の2011年の状況に戻ることはないと、断言している。シリア民主軍がシリアを統一すると。また、シリア政府は、最終的に民主化され、クルド人の自治権利を新生シリア憲法に明記し、議会で承認される必要があるとも語っている。更に、トルコと間接に交渉を行っていることも明かしている。

何れにせよ、ロシアは、シリアからのイラン勢を駆逐する努力を継続し、クルドは、米軍庇護の下で、民族自治を確実にするための、軍事的、政治的な取り組みを先鋭化させるだろう。

ウィンゲート空挺団〜ビルマ奪回作戦を読み返す ウィンゲートはイスラエル国防軍の創始者

2019年05月05日 | 雑感

久しぶりに第二次世界大戦がビルマ戦で長距離挺身部隊チンディットを指揮したウィンゲートの本を読み返した。暇なので3月のイスラエル・メディアをチェックしていると、ウィンゲートに関する記事が幾つかあったから〜

  

イスラエルでウィンゲートは、実質的にイスラエル国防軍となる特別夜間行動隊を編成した。この部隊は、選抜されたユダヤ人とイギリス軍兵士からなる混成部隊である。1938年7月、特別夜間行動隊とともにパトロールしていた際に、ウィンゲートは負傷したが、これが認められDistinguished Service Order(DSO)、所謂、殊勲賞を授与された。名誉なことだ。
何故、ウィンゲートはユダヤ人に味方したのか? それは彼の信仰によるものだろう。士官学校時代のエピソードとして教会での礼拝やイギリス国教会の行事参加を拒否する理由として、自分はプリマス・ブラザーであることを主張した。ウィンゲートの両親は、聖書だけを受け入れるプリマス・ブレズレン派の分派であるオープン・ブレズレンの信者で、息子と娘を厳しく宗教的に躾けた。
1936年9月にパレスチナに駐屯したとき、彼は、その篤き信仰心を逞しくしたことだろう。何故なら、プリマス・ブレズレンの教義にはユダヤ人をパレスチナの地に帰還させることが含まれているからだ。彼は、ダビッド・コーヘンに対し「あなた方の戦いに力添えできるのは、喜ばしいことだ。私はこの目的実現のために、私の生涯を捧げたいと思う。人間は、精神的に聖書の教えに基づいた生き方をしてこそ、はじめて存在する意味があるのだ」と述べている。ウィンゲートは、ダヤンなど軍人や、他のユダヤ人からは「The Friend」呼ばれ英雄視されている。ウィンゲートの命日である3月24日には、イスラエルのメディアではイスラエル国防軍の創始者として称える報道がなされている。
アラブ反乱を支援したアラビアのロレンスは、ウィーンゲートの従兄弟。チャーチルが第二次世界大戦で直接指揮した、欺瞞・謀略部隊ロンドン司令部の副司令官サー・ロナルド・エブリン・レスリー・ウィンゲートも従兄弟である。ウィンゲート一族は、どうやら不正規戦が得意らしい。
さて、ユダヤ人の友人であるウィンゲートが日本でも知られているのは、大東亜戦争のビルマ戦(現ミャンマー)で日本軍と対峙した長距離挺身旅団の発案者で指揮官だったからだ。
ウィンゲートは、着任そうそうビルマ西部のアラカン山脈という通行困難な地帯に注目した。このアラカン山脈は、インパール作戦が行われた地で、日本軍3個師団が咆哮した。ウィンゲートが着任して間もなく、日本軍がビルマ全土を占領。イギリス軍はインド・インパール以西に撤退した。ウィンゲートは、薄く広く部隊を展開せざる負えない日本軍の現状を把握して、もし、日本軍の後方に部隊を長距離挺身させ、補給は全て空中から行う事ができれば、日本軍を揺さぶることができると考えた。これが有名なチンディット部隊。そして、第77インド歩兵旅団を基幹とするチンディット部隊の編成に成功した。
1943年の第一次チンディット作戦は、日本軍を大いに驚かせた。何せ、突然3000名規模の英印軍が現れ、後方補給線の破壊活動を始めたからだ。しかし、犠牲が多かった。でもチャーチルはこの作戦に注目した。もしかしてロンドン司令部のロナルド・ウィンゲートが首相に耳打ちしたのかもしれない。
1944年の第二次チンディット作戦は、大規模な挺身作戦となった。投入されたのは、第77インド歩兵旅団、第111旅団、第16旅団の3個旅団、そして予備の第14旅団。C-47輸送機が延べ579機、グライダーは延べ74機投入された。輸送兵員は9052名、輸送物資は2545トンに達した。日本軍には到底真似のできない芸当だ。ウィンゲートの長距離挺身旅団が投入された作戦正面には、日本陸軍ビルマ方面軍の第15軍が展開している。前述したインパール作戦を実施した軍で、指揮官は牟田口中将。牟田口は、盧溝橋事件の当事者となった支那駐屯歩兵第1聯隊の聯隊長である。
1944年3月5日、第二次チンディット作戦は実施された。北ビルマでは、魔の谷・死の森であるフーコン河谷で、連合軍のレド公路を封鎖していた久留米の第18師団を攻撃する、米軍仕様で武装された新編中国国民軍を支援する目的があった。レド公路は、イギリス領インドのアッサム州レドから中国の昆明まで至る輸送道路で、所謂、援蒋ルートである。18師団は、補給困難な状況にもかかわらず、長期持久戦を展開。連合軍としては、レド公路を一刻も早く打通し、中国国民党軍に支援を行い、日本の支那派遣軍の攻勢を阻止する必要があった。
そうこうしているうちに、第15軍の3個師団が、3月8日、インパール作戦を開始した。しかし、第二次チンディット作戦に対応する必要のあるビルマ方面軍は、この15軍から歩兵2個聯隊と砲兵1個大隊、歩兵聯隊本部1個を抽出し、方面軍予備である第24混成旅団をウィンゲートの挺身部隊への対応をさせている。そして、急遽ビルマ南部に展開していた第2師団と第54師団をビルマ北部方面の防衛に向け移動させている。そして、日本軍は、なけなしの全戦闘機30機と全爆撃機40機をチンディット作戦に対応するため投入した。インパール作戦の結果は、ご存知の通り。航空支援もなければ補給もないのでは、最初から勝ち目はない。
ウィンゲートは、3月24日に飛行機事故で死亡した。享年41歳。