阿部ブログ

日々思うこと

MS&ADホールディングスが住友ツインビル西館に拠点を集約~損保業界は倉庫業と関係が深い~

2014年09月07日 | 雑感

MS&ADインシュアランス・ホールディングス(MS&AD Insurance Group Holdings, Inc.)と三井住友海上あいおい生命保険株式会社は、中央区新川にある住友ツインビル西館に本社を集約する。MS&ADインシュアランス・ホールディングスは、三井住友海上火災保険株式会社、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社などのグループ保険会社を有する保険持株会社。
三井住友海上あいおい生命保険は、合併後もそれぞれの本社ビル(東京都中央区日本橋と千代田区神田錦町)で業務を続けていたが、業務効率化のため、ホールディングスと同じ住友ツインビル西館に拠点集約する事になった。 今回の本社移転にあたっては、プロジェクトチームを立ち上げ「We LIFE,Me LIFE みんなの明日にやさしいオフィス」をコンセプトにした快適・安全・安心して働けるオフィス整備を検討しているとの事。取り組み内容はどのようなものか、関心ありだ。それと西館には4階ぶち抜きの空間が施してある。一度中に入って観てみたいものだ。
        
さて、住友ツインビル西館と住友化学と新日鉄住金ソリューションズが入居する東館が建つ土地には、住友倉庫の巨大な耐震耐火倉庫があった場所。土木学会附属土木図書館のデジタルアーカイブス土木貴重写真コレクションにある関東大震災時の住友倉庫が参考になる。関東大震災の時にも被災すること無く無事だった。往事を偲ばせるものは、銘板があるのみだ。
      
銘板にはこう書いてあるようだ。
『本倉庫は大正十年八月の竣成に係り東京に於ける高層耐震耐火倉庫の先駆たり適大正十二年九月一日関東大震災に遭遇するや構造堅牢能く毅然として強震猛火に耐え一千有余万円の在庫貨物を保全し貨主をして損失を免れせしめ窮乏の帝都に物資を供給し以って弘く救済並びに復興に寄与セル所甚だしとせす当時此の倉庫の防備に当り決死的努力克く任を達せる従業員の功績亦忘るへからす乃ち茲に大震災十五紀年を迎ふるに当り之を録し以て記念と為す 昭和十二年九月一日』

また銅額には、
『この銅額は、かつてこの地にあった弊社越前堀倉庫に取り付けられていたものであります。
同倉庫は大正10年に竣工、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造5階建ての耐震耐火構造の建物でありました。大正12年の関東大震災の時には従業員一同の決死的努力もあり、猛火から保管貨物を完全に守ることができ、東京復興に大いに貢献いたしました。
昭和60年6月、東京住友ツインビルディング建設のため同倉庫は解体されましたが、竣工以来60有余年の風雪に耐えた越前掘倉庫の名を永く当地にとどめるため、銅額を保存するものであります。昭和62年2月』とある。
   
現在の新川界隈には財閥系など倉庫が立ち並んでいた土地。ツインビルの隣の東京ダイヤビル群は三菱倉庫だし、川向の箱崎にある日本IBMビルは三井倉庫だ。
そもそも倉庫業界と損害保険業界は、昔から関係が深い。社団法人日本倉庫協会が『日本倉庫業史』を発刊しているが、この中で関東大震災、地震、火災、戦争などで倉庫業界は甚大な被害を被っている。倉庫業界は当然ながら損害保険&火災保険など保険契約を締結しているので、損保業界とは損害保険料率の引き上げや引き下げなど丁々発止のやり取りが為されており、両業界の関係は歴史的に長い。『日本倉庫業史』には、関東大震災時に住友倉庫の越前掘倉庫についても記載もある。前述の通り罹災は免れたが、この倉庫には、当時の金額で、約1000万円の貨物が保管されており、警戒のため陸軍部隊が警備したという話や、震災後に発行された新聞号外の用紙は、越前掘倉庫に保管されていた洋紙が使用されたというエピソードなどが書かれている。
この住友倉庫の跡地には、住友ツインビルが建設され、その西館に住友海上火災保険㈱(現三井住友海上火災保険㈱)の本社が入居。昨年から行われた改装作業を経て、国内最大の損害保険グループを率いるMS&ADインシュアランス・ホールディングスが、関東大震災に耐えた越前掘倉庫の縁起良い地に移転するのは、歴史から見れば必然とも言えるものだ。

住友ツインビル西館改装前の画像を~
                

映画監督で作家の西川美和さんの著書 『その日東京駅五時二五分発』 と陸軍中央特種情報部

2014年09月07日 | 雑感
作家で映画監督でもある西川美和さんの著書『その日東京駅五時二五分発』を読んだ。小編なので一気呵成。
   
読んで驚いた。東京に住む叔父さんが戦争中の経験談を綴った手記を元にしていると言うが、叔父さんが所属していた部隊は、何と「陸軍中央特種情報部」だ。
当時は広島に住んでいた叔父さんが徴兵検査を受けたのは昭和20年4月。第二乙種合格だが、小柄な叔父さんは待機となる。しかし、5月半ばに陸軍への入隊を命じる召集令状が届き、大阪の部隊に入隊。叔父さんは、この部隊で無線通信の訓練を受た。そして彼は陸軍中央特種情報部に配属となる。深夜の大阪駅を東京に向かい着いた所は、北多摩通信所から4キロほど離れた訓練施設。当時は武蔵野の面影を強く残す所だ。

到着すると小隊長の掛井智常中尉が訓示する。
「ここは陸軍の情報の根幹を握るところである。我々は敵の発信する無線情報を、ここや千葉は房総・白浜の分遣隊等にて傍受して暗号解読し、敵の思惑や動きを大本営に連絡するのである。(中略)我々の読み取るこういった情報をもとに、大本営は警報を発令し、関係部署に連絡を入れるのだ。前線に立つこそ意義があると思われがちだが、情報こそが戦争の鍵だ。敵を知らなければ戦いようがないし、国や家族を守るすべもない。知っての通り戦局は逼迫している。今がふんばりどころだ。情報収集には人手がいる。しかもその一人一人が、技術と根気と集中力を必要とされる。訓練期間は二ヶ月だが、どうか1日でも2日でも早く実戦の場に立つつもりで努力して欲しい。今後このうちの誰かが重要な情報をすくいとり、日本を救う契機を作ってくれるかもしれない。ここに集った者たちの真心と知性を信じる。共にたたかおう-」

叔父さんは、この訓示に感激する。さて訓練施設は2階建てで、居住は2階で、暗号書がギッシリと詰まった1階で訓練を受けた。訓練は要するにモールスの送受信と暗号解読だ。
7月27日、叔父さんたちは、壊れた諜報用受信機を修理していた。真空管を変えると受信機は微弱な英語放送を受信する。やがてこれはポツダム宣言だと分かる。そして8月7日、6日の朝に新型爆弾で広島が壊滅したことを知る。8月11日には撤収作業に入るとの指示を受ける。掛井中尉は「機密書類や通信機材の一切合財を焼却し、あまざず処分しなければならない。(中略)紙切れ1枚残さぬよう」
8月14日にはいよいよ燃やすものがなくなり、最後に襟章と軍隊手帳の焼却を命じられた。掛井中尉は叔父さんに里が心配だろうから、まるべく寄り道せずまっすぐに帰ったほうが良いと言い添える。陸軍通信隊初年兵25名は、現金400円を貰って、叔父さんは一路広島へと向かった。

特種情報部は、その存在を湮滅すべし、との大本営陸軍部命令を受け、全ての資料機材を破壊焼却し、指名された者は、新たな氏名と戸籍と身分証明書を付与され部隊から去った。