阿部ブログ

日々思うこと

四方拝~年明け最初の天皇祭祀

2017年01月01日 | 雑感
今上陛下は、平成30年に譲位される。8月のテレビ放送の後、10月25日に上加茂神社と下加茂神社を参拝し、下加茂・糺の森を散策し、審神された。皇統維持の為には、必要な決断で措置だったと思量します。
そして126代の即位大嘗祭は京都で行われる。オリンピック/パラリンピックの開催まで3年をきった東京ではなく、また正式に遷都されていない東京ではなく、高御座がある京都でやるのが最善。

さて、年明け最初の祭祀が四方拝である。元旦の鶏刻(午前2時)に始まる。前日の晦日に行われた追儺が終わると、宮中の掃部(かもり)が清涼殿の東庭に屏風を設置する。掃部は屏風に囲まれた中に、畳で3つの座を設ける。一つは属星を拝礼するための青の御座、また一つは天地四方の神々に拝礼する紫の御座、最後は先祖を拝するための青の御座。3座の北に燈台と机を置き、机には香と花が置かれる。
陽気の発する寅の一刻に黄櫨の袍を着した天皇は、笏を持って屏風の中に入り、北に向いて「属星」を唱え拝礼する。属星は、人が生まれた年の干支を北斗七星に配したもので、本命星とも言うが、天皇の属星(本命星)を7回唱える。
これは北辰信仰、即ち北斗七星の信仰が影響している。特に仏教と道教が融合した日本独特の習俗の影響が大きい。
『北斗七星護摩秘要儀軌』には「…如来は末世の福薄く短命で若死にする衆生のために、この一字頂輪王召北斗七星供養護摩の儀則を説いた。北斗七星を供養するのものは、その属命星をして、しばしば死者の名簿から削り、生者の名簿に移し替え生き返させる」とある。(注:天皇の本命星は北極星で一字頂輪王だとの俗説があるが間違い)
四方拝の最初は、天皇自身の長命を祈る。玉体安穏だ。次に天と地、即ち北と西北に対し再拝し、次いで四方を拝し、最後に二陵を拝する。二陵は父母の陵を拝するの意であるが、父母が存命の時は再拝せず。

明治になると宮中三殿の中にある神嘉殿で四方拝は行われるようになった。神嘉殿南庭に四方拝の仮囲いが仮設され、荒薦と白布を重ねて敷く。拝座は真薦、厚畳で、拝座前面左右には菊灯2基に火がともされる。拝座の周囲は屏風二双で囲み、伊勢神宮の方角、西南は少し隙間を開けて設置される。神嘉殿南庭には庭燎が焚かれる。
天皇は午前5時に綾綺殿に出御し黄櫨の袍に着替え、手水の儀を経て、侍従がかかげる脂燭の中を四方拝の仮殿に誘導され拝座に着座。明治における四方拝は、天皇が先祖諸神、諸陵を遥拝し、五穀豊穣、宝祚長久、国家安寧を祈る重儀とされた。
拝礼は両段再拝で、四方に立って祈り、座って祈るを繰り返すもの。しかし、天皇が高齢化すると晦日から早朝にかけての祭祀をこなし、仮眠の後、5時からの両段再拝は体力的に厳しい。そこで昭和56年には四方拝伝統の黄櫨の袍から洋式のモーニングに変わり、場所も神嘉殿から吹上御苑になった。
この年末年始の天皇祭祀は、体力的にも精神的にも過酷である。四方拝は平安時代中期の宇多天皇から宮中の行事となり、四方拝のあとに行われる歳旦祭とともに恒例となった。繰り返しになるが宮中祭祀の中でも過酷なのが四方拝と歳旦祭と正月行事である。休む間のなく新年祝賀の儀となり、天皇も式部職の皆さんも疲労困憊である。

とにかく、四方拝は玉串の奉献と拝礼により終わりを告げる。後期高齢者である天皇に年始の祭祀を強いるのは、気の毒だ。日本国憲法には基本的人権なるものが書かれている。しかし、天皇や皇族は日本国民ではないし、彼ら彼女には国籍がない。ので基本的人権が無い。そろそろ、本来の国民国家のあり姿を考える時期であろう。