仕事の用事で3日に1回は大手新聞社の地方局の前を通ります。
そこの入口に幟旗が立っていて「メガ文字」と書いてありますから、これは新聞の活字をより大きくしますという宣伝でしょうね。
個人的には大きな文字は歓迎です。
まあ老眼鏡無しで読めるほど大きいかどうかは別として、小さな文字では眼鏡をかけた上に虫メガネでやっと読めるものもあるのですから、大きい事はありがたい。
でも、この幟旗を見るためにいつも引っかかるのです。
はじめに幟の掲げられている場所ですが、厳密に言えばこれは歩道上ですから、許可が必要な場所です。
当然道路を管理している当局の許可が必要なのですが、無許可ではないかなと想像しています。
想像ですから騒ぐわけにもいかにのですが、仮に誤ってこれにぶつかって事故が発生した場合は当然責任が発生します。
よくガソリンスタンドの幟などが歩道を占拠していたり、いろんな商店の置き看板が歩道をふさいでいたり、あるいは戸建住宅や事務所などの全面の歩道に車が乗り上げ易いように勝手にステッパーが置いてあったり・・・
でも新聞社は自分が正義だと思い込んでいますから、他から批判されると逆切れもどきの反撃をするか、一切無視するかどちらかだと思われます。
物価の値上げをいろいろ批判しますが、新聞自体の値上げの時は沈黙ですから。
それはそれとして、もうひとつ言葉の問題も気になります。
「メガ文字」と聞けば、メガ=けた外れに大きいと言うイメージがありますから
意味としてわかりますが、イメージを宣伝するために新聞社自ら造語していることが気になります。
この言葉とは違う言葉ですが、最近の若者言葉でしょうか「○○なく」という表現があるようです。
正しくは「○○ではなく」を縮めて言っているのでしょうが、私にはどことなくわざとらしさを感じます。
あるいは言葉足らずの、日本語に不慣れな外国人の真似のような、あるいは短縮して言葉で遊んでいるような。
それで、彼氏を変な所にアクセントを置いて口にするのと同じ様に、気になって・・・気になり始めると耳障りです。
こういう変化を「時代による変化」とも言えるかもしれないけれど・・・
昔「重複」を「ジュウフク」と読むと×だったのが、今は「チョウフク」でも「ジュウフク」でもどちらでも良いになって、尚且つ「チョウフク」と読むと=古い人間みたいなところがあります。
だからどうなんだと言われると困りますが・・・具体的な不利益を被ったわけでもなし。
でも複雑な気持ちです。
今の言葉の中に、江戸時代にできた奴言葉がずいぶん残っていますし・・・
と言うことは、言葉にはそういう流れがあるという証拠でもあるのですから、今も変わりつつあるのが当然でもあるのですが、一方でこれ以上は変化してほしくないと言う気持ちもあるのです。
ずいぶん勝手な言い分でしょうね。
年を取るとこういうところにも保守化するのかも知れませんが、、、変化賛成あるいは変化した言葉を愛用する人が”革新”でもなさそうです。
そこの入口に幟旗が立っていて「メガ文字」と書いてありますから、これは新聞の活字をより大きくしますという宣伝でしょうね。
個人的には大きな文字は歓迎です。
まあ老眼鏡無しで読めるほど大きいかどうかは別として、小さな文字では眼鏡をかけた上に虫メガネでやっと読めるものもあるのですから、大きい事はありがたい。
でも、この幟旗を見るためにいつも引っかかるのです。
はじめに幟の掲げられている場所ですが、厳密に言えばこれは歩道上ですから、許可が必要な場所です。
当然道路を管理している当局の許可が必要なのですが、無許可ではないかなと想像しています。
想像ですから騒ぐわけにもいかにのですが、仮に誤ってこれにぶつかって事故が発生した場合は当然責任が発生します。
よくガソリンスタンドの幟などが歩道を占拠していたり、いろんな商店の置き看板が歩道をふさいでいたり、あるいは戸建住宅や事務所などの全面の歩道に車が乗り上げ易いように勝手にステッパーが置いてあったり・・・
でも新聞社は自分が正義だと思い込んでいますから、他から批判されると逆切れもどきの反撃をするか、一切無視するかどちらかだと思われます。
物価の値上げをいろいろ批判しますが、新聞自体の値上げの時は沈黙ですから。
それはそれとして、もうひとつ言葉の問題も気になります。
「メガ文字」と聞けば、メガ=けた外れに大きいと言うイメージがありますから
意味としてわかりますが、イメージを宣伝するために新聞社自ら造語していることが気になります。
この言葉とは違う言葉ですが、最近の若者言葉でしょうか「○○なく」という表現があるようです。
正しくは「○○ではなく」を縮めて言っているのでしょうが、私にはどことなくわざとらしさを感じます。
あるいは言葉足らずの、日本語に不慣れな外国人の真似のような、あるいは短縮して言葉で遊んでいるような。
それで、彼氏を変な所にアクセントを置いて口にするのと同じ様に、気になって・・・気になり始めると耳障りです。
こういう変化を「時代による変化」とも言えるかもしれないけれど・・・
昔「重複」を「ジュウフク」と読むと×だったのが、今は「チョウフク」でも「ジュウフク」でもどちらでも良いになって、尚且つ「チョウフク」と読むと=古い人間みたいなところがあります。
だからどうなんだと言われると困りますが・・・具体的な不利益を被ったわけでもなし。
でも複雑な気持ちです。
今の言葉の中に、江戸時代にできた奴言葉がずいぶん残っていますし・・・
と言うことは、言葉にはそういう流れがあるという証拠でもあるのですから、今も変わりつつあるのが当然でもあるのですが、一方でこれ以上は変化してほしくないと言う気持ちもあるのです。
ずいぶん勝手な言い分でしょうね。
年を取るとこういうところにも保守化するのかも知れませんが、、、変化賛成あるいは変化した言葉を愛用する人が”革新”でもなさそうです。