なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

も・し・も

2009-05-21 18:32:11 | Weblog
 私は中学1年生の時から高校2年生まで数学のみ教える塾に通いましたが、そこの先生のお決まりの例えに「殴ったらさすって話の辻褄があう」・・・これが何のことかと言うと一般式から公式を導き出す時に便宜的にbを足したら後ろの方でーbxとして置く・・・まあその程度の話です。
 先生は何かと言うとこの例え方をしましたが、本人としては生徒に分かりやすく説明しているつもり何だろうなと思いながら聞いていたものです。
 子供ながらに「そのたとえ話は違うだろう」と感じながら・・・
  殴られてから、いくらさすったり手当をしたからと言って気分が元に戻るわけが無いだろう・・・などとマジに疑問に思ったりするところが中学生と言うか、真面目というか子供と言うか。
 別の例えを考えるなら「借金&返済」と言うところか、あるいは碁盤目ののような街路で右に行ってから左に曲がると、それは先に左に曲がってから次に右に曲がったのと同じと言うようなことだろうか。

 しかし、街歩きならそう言うこともあるけれど、仮に人生だと途中経過の手順違いは決して結果が同じにはならないでしょう。
 例えば囲碁を覚えると言うことで言うと、私が人に「囲碁ほど面白いものはないですよ、一度覚えたら囲碁のない人生なんて考えられなくなるはずです」などと進めた場合に、たいていの人の反応は「きっと、面白いでしょうね。今は忙しいから暇が出来てから覚えたいと思っています」とか「定年になったら始めるつもりです」という感じでしょう。
 こういうことに正しいも間違いも無く、その人の選択に過ぎないのですが、先の理由がやんわりと断ったのではなく、本当にそういう計画だったとしたら・・・

 学生の時はしっかり学問をし、より良い会社に就職し結婚して家族の生活をしっかり支え・・・しかる後、定年になったら好きなことを始める。
 成程立派!
  こういう人にけちをつけるのは、言いがかりを吹っ掛けるようなものですが、私にはこれほど難しいことも無い。
 「その時にやりたいことは、その時にやる・・・」まあ、計画性のない刹那主義と言うか、いい加減な人間の代表選手です。
 仮に囲碁に関して言うと、私が若い頃囲碁・競馬・麻雀をやらなければ、もう少し良い暮らしができただろうか?・・・答は難しいが、今よりは良いには違いないとは言えます。
 では、仮に50あるいは55才くらいから一旦封印した囲碁を始めたとして・・・今頃初段の壁辺りだろうか、あるいはそこにも行っていないかも。
  何より、良いか悪いかは別として何かのために何かを我慢できる正確なら、きっと今とは違う性格が全面に出ているでしょうね。

 人生にもしもは無いけれど、もしもがあったら証明できるでしょうか?
  それに、もしも「もしも」があって人生の分かれ道で右の道も左の道も両方経験することが出来たとしたら・・・そういう分かれ道がたくさんある!?。
 と言うことは「もしも」の連続の人生のようです。
  まだ終わったわけでは無いから、これからも分かれ道があるのかも。