なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

深夜の携帯

2009-02-13 18:08:13 | Weblog
昨夜と言うか今朝と言うか、2時半ごろに携帯が鳴りました。
 充電器に乗せてあったのでベッドからは手が届かないし、強制的に目を覚まさせられたばかりですぐには動けません。
 まあ、本当に緊急・重要な電話なら何度もかかってくるだろうし、携帯で無く固定電話にもかかるはずなんですが、10コールもしないうちに電話は静かになりました。
 田舎の兄弟たちにも携帯の番号を教えていないし、仕事で連絡を取る人は夜中に用事がある人はいない。
 携帯を見ると案の定非通知電話。
  こういうのは困ります。

 昔こういうコールに接続したら、瞬間に切れたものの、それ以降わけのわからない請求が続きまして、携帯を変えたことがあります。
  これははっきり犯罪なのに、未だに跡を絶たないのですね?
 まあ、今はこういう詐欺・恐喝犯罪は「振り込め詐欺」に集中しているようですが、未だにこういうのもあるのだろうか?
 それともいわゆる「さみしい老人」?
  その場合は携帯にはかかってこないはずだから・・・
 固定電話にはたまにありますね、無言電話なんですが嫌がらせとかではないらしい無言電話。
 つまり「さみしい老人」が人の声を聞きたくて電話をかけてくる!?
  話すことが無いので無言のままなんでしょう。
 確かに迷惑ではあるけれど、哀しくもある。

  さて、「さみしい老人」「かなしい老人」には私もなる可能性いは充分ある・・・人間どこでどう運命が変わるか分からないし。
 いや、今でも充分に孤独な老人かも知れない。
  だいたいが、夕食後にはTVでサッカーの中継が無ければ、だいたい部屋に引っ込んでしまう・・・マア部屋にお茶が届くのでその分は孤独ではないかもしれませんが・・・
 ともかくそこから夜中に眠るまでは入浴を除いて引きこもりオヤジ状態。
  本を読んだり、ネットで碁を打ったりしているので、寂しくもないしそれなりに充実しているつもりではあるが。
 しかし、周りからみたら、家庭内孤立とか”寂しい人”かも知れない。
  うーん、そうかもしれない?

短気との戦いなのだ

2009-02-12 17:41:57 | Weblog
 昔こういうことがありました。
  市内の大型商業施設がオープンして、同時に大きなビルの立体駐車場もオープンしました。
 この駐車場を利用すれば駐車違反の心配もないので車で買い物に行けます。
 と、言う事で家族全員でオープン日に来るまで出かけたのが大間違いでした。
  立体駐車場のビルには行列をしたもののなんとか入れまして・・・6Fぐらいまで自走して・・・そこまでは良かった。
 ところが、車から降りてエレベーターで売り場に降りる段になって思ってもみなかったことが発生しました。
 エレベーターが通過してしまうのです。
  つまり上の階ですでに満員状態なので途中では乗せられないので通貨する。
 それではと階段で下りようとすると、係員の制止にあって「これは非常階段なので通常は通行が禁止ですので使えません!」
 「なんだそれは!」状態です
 こういうとき私の決断は早い。
 家族に向かって「帰ろう!、こんな店には用はない」
  まあ、いつかは客がすいてきてエレベーターも止まるのでしょうが、私は待てない性格なのです。
 ましてや、サービスを受けるはずの立場なのに、こういう扱いを受けるのには我慢が出来ない。
 相手の従業員やアルバイトなどに怒鳴ったりはしませんが、しかし店に対しては決して許すことが出来ない感情を持つのです・・・その後そこには一度も言っていません。

 本当は自分でも損な性格だとは思う。
  もう少し辛抱すれば初期の目的通りに家族で買い物ができるかも知れないのに・・・
 しかし、その「もう少し」が我慢できないのです。
  これが、交通が激しい道路で我慢できずに道を突っ切るのとは違います。
 いくらなんでも命が惜しいからそこまではやりません。
  怪我をするのだって御免ですから信号とマナーはキチンと守ります。
 しかし、「呼び寄せた客」に対するサービスは・・・店としても予想以上の混雑だったのかも知れませんが・・・

 私はこういう状態に本当に弱い。
  だから自慢ではないけれど東京ディズニーランドに家から一時間以内で入場できるような場所に住んでいながら、まだ一度も行ったことが無い。
 あの「○時間待ち」という話を聞いただけで、意欲が無くなるのです。
  ジェットコースターに弱いと言う話以前の問題です。
 同じ理由で万博もダメ。
  何であんなに並ばなくてはいけないのか理解できないし、我慢できない。
 従って万博は「筑波」に仕事で出入りしていた(開催前と開催中は開場前)以外は行ったことが無い。

 と言う事で、本来囲碁向き?かどうかは甚だ怪しい。
  まあのんびりと間抜け顔をしているのは、本質半分+自分の短気を隠す仮面が半分です。
 ですから外見一見おっとりしている風ではあっても、実は猛烈な短期。
  ネットで対局する時、対局待ちの人がいる場合に私もオファーを出したとします。
 本来ならすぐに挨拶を交わして対局が始まるところが、相手からの反応が無い場合・・・相手の人はリストに名前を載せてからお茶でも入れているかも知れないし、あるいはトイレタイムかもしれませんし、はたまた電話がかかって来ているとか、宅急便とかだってあるでしょう。
 しかしこの待たされるに弱い。
  幸いネットのルールで、1分後には自動スタートとなり、(多分)5分後には相手の反則負けとはなります。
 しかし、ペナルティーが相手に課されるかどうかでは無く、過程で待つのに弱い
  だから、ギリギリで相手が現れるような場合・・・ほとんどそういうことになるのだが・・・こちらの心境は「小次郎」になっている。
 相手が「武蔵」意識しているのなら成功ですね。
 
 こういうとき私は深呼吸をして、自分に「ゆっくり、ゆっくり」とオマジナイを唱えてから第一手を打つ。
 このオマジナは序盤のうちは唱えていないといけませんね。
  何と言っても心の中で「短気」と戦っているのです。
 最近は、この「武蔵常習者」に気が付きましたから、それらの方にはオファーを控えています。
 下司の勘ぐりかも知れないけれど・・・武蔵はきっと意図的に・・・
  短気なだけではなくて、性格も悪いですね私は。

名前は記号

2009-02-11 15:44:19 | Weblog
 夕べは早く寝てしまったので・・・夕食後1時間くらいで寝てしまうのだから、本当は良くないのでしょうが、何となく疲れていたのと特にやりたいことが無かったので眠ってしまったのです。
 本当は、ネットで観戦していたのですが、ついつい寝てしまったのです。
  それは両者ファイト満々の戦いの碁でしたから、本来なら手に汗を握って観戦する所ですが・・・余りにも激しすぎると言うか、戦いは良いのですが戦いの目的がはっきりしないと言うか・・・『何でこの二人は戦っているのだろうか?』などと考えているうちに意識が薄れたようです。
 目が覚めたのが深夜の1時すぎですから、5時間と言うのは長い転寝と言うか、ほぼ1日分の睡眠に近いと言うか・・・もう一度寝直しても良いし、このまま起きていても良いという中途半端な時間。
 それで、今度はパンダの方に散歩してきました。

 毎度只見ですから悪口は言えませんが、いつも不思議に感じている。
  ここは段級位で打つのですが、PANDA>タイゼム、サンサン>日本棋院くらいに段級位のランクがあるように思うのですが、、、でも持ち時間のせいなのか、あるいは観戦オンリーなので「傍目」的な感覚か、それほどレベル差を感じないのです。
 おそらくあの時間制なせいか、時間に追われて何割かレベルダウンをしているかのように思うのです。
  実際に自分で打てば、自分も時間に追われて酷い手を打つに違いないので、自分で思っているほどの力は出せないだろう。
 つまり相対的に変化しそうです。
  
 そう言えば最近パンダの観戦で、時間が10/25つまり10以内で25手打つという対局の観戦が続いています。
 たまたまなのか、そういう時間制度で打つ人が増えたのか、あるいは日本人同士の対局に当たっているのか・・・
 パンダでは・・・いや、たいていのネットでは名前は記号ですから何国人なのか、男性か女性かなどわかりません。
  アルファベットと数字の羅列ですから、なんだか記号と言うか機械と戦っている感じですね。
  いや、その記号を名乗っているのは確かに人間なんですが・・・
   
 例えば花の名前とかあだ名のような名前、あるいはaizome程度ならまだいくらか人間の匂いがしそうですが、abc0012とかtttxyのような単なる記号になると、なんだか囲碁を打つロボットが相手みたいな錯覚をしそうです。
 そういうものだとか、なれとかの問題でしょうが・・・
 普通に名前にしてももともとは他人と区別するための記号ではあるけれど、名前をつける人の思いみたいなものも感じられるので、”名前”に人間の温かみが感じられるのでしょう。
 ネットででの個人情報とか、何らかの不利益を考えると記号を名乗って碁を打つのは仕方がない事ではあるけれど・・・
 と、言いながらブログはaizomechouだから・・・
 囲碁の方は一定の閉鎖性があるから実名で打てるのですね。
  実名ですと、残酷な碁を打つ人もえげつなく稼ぐ人も、それなりに人間的な感じがしてくるから不思議です。

久々の連勝

2009-02-10 18:12:51 | Weblog
 ひさしぶりに連勝しました・・・と言っても2連勝ですが。
  内容は快勝とは程遠いのですが、まあ結果オーライです。
 とにもかくにも、どこかで連勝をしないと上昇はありえないわけです。
  今後また一進一退を繰り返すにせよ、勝ち負けをどんなに繰り返しても、どこかに連勝があれば1点は上がるのですから

 その碁は、自分としては序盤を確実に打って、中盤で少しリードをしたと思われます。
 感じとして少し良いかなと言う程度ですから、アマとしては確実なリードではないでしょうが、それでも逆の立場だったとしたら、打開策を考えなくてはいけないのですから、作戦の立て方が全く違います。
 リードしていると考えているのですから、相手の勝負手をどう抑えるか・無理をしないけれど震えない・相手の無理な手や隙はきちんと突く・・・そうなります。
 いえ、そうなるはずなんですが・・・現実はそうはならないのが素人の悲しさ
  勢いに乗って一気に走る傾向がある・・・そういう傾向が強い。
 少し景気が良いと調子に乗り、ダメなときは泣きが入るノビタ君みたいなものです。
 まあ勝ち戦と言うのは、時に一気に行くのが決め手になることもあるとは思いますが、一気の寄りに素直に土俵を割るような素直な人は少ないのが困ります。
 どこに落とし穴があるか分からないし、必殺クロスカウンターと言うのもあるかもあいれません。
 ジリジリ寄って、土俵際で腰を落として相手には何もさせないと言うのが理想的ではある・・・が、いつでもそれが出来るくらいなら苦労は無い。

 この碁でも案の定猛反撃を食らいました。
 大石を取りに行ったところ、大きなコウ争いが発生し、私にはコウ立てが無い!
 相手のコウ立ては私の石を・・・23子でかなりのダメ空きで取る手!。
  これを受けると相手にコウを取り返されて、私にはコウ立が無い。
 持ち時間10分、1手30秒の早碁でしたが、残っている時間を全てつぎ込んでの地合い計算。
 コウに負けても何とか残りそうなのを確認できたのでほっとしました。
  全く冷や汗の勝利です。
 これでも残ったと言うことは、危ない橋を渡らずに何もしなければ良かったと言うことになる・・・そうでなくてはいけないし、常々そういう打ち方をしたいと思っているのに、肝心なところではずしそうになるのだから、我ながら素人は怖い。

福耳?

2009-02-09 17:40:31 | Weblog
 土曜日の夜に近所に出かける用事がありました。
  表に出てみると、体感湿度と言うか何となく肌に当たる風の感じが少し湿り気を感じました。
 表の景色と言うか目に映るもの・道路わきの外套の明かりが心なしか潤んでいるような感じがして、そういうものが一体となって少し湿り気を感じたのかも知れません。
 いずれにせよ2月の初めの夜なのに、身を切るような寒さは感じませんでした。
  この時期の寒い日・普通の冬の朝とか夜ですともっと寒さを感じるはずです。
 私は寒がりなので、特に人目を気にしない夜などはスタイルもモードも関係なしで身支度をします。
 男性用タイツをジーパンの下にはいて、それでも寒そうな日はオーバーズボンも愛用します。
 上着は防寒用のジャンパーかハーフコートですが、マフラーは欠かせません。
  但し困ったことがありまして・・・年々頭のトップの防寒が不備になって来まして・・・これは帽子をかぶるしかないのですが、自分でもがっかりするくらいにあいません。
 マア、ジイサマだから見てくれは気にしない風に開き直っていますが、内心は人に見られたくないのです。
 更に困るのは・・・これは本当に困るのは・・・顔は露出していても皮が厚いせいか寒さにたえられるのですが、耳が困るのです。
  耳あてはあるにはあるのですが、若い女の子なら似あうでしょうが・・・耳まで被るニットの帽子もあることはあるのですが、これを被って外へ出る勇気がありません。
 さてさて、寒い朝などは耳を切られるような痛みと戦うことになるのです。

 よく熱いものを触った時に耳タブに指を当てるのですが、それは体の中で一番熱が伝わりにくい場所なんでしょう。
 それだけに露出している耳は厳しい寒さに耐えなくてはいけないのです。
 私は子供のころから、この耳タブが大きくて「福耳」と言われたのですが、きっと俗説ですね、未だにそういうことは起きていない。
 未だ嘗て裕福な生活はしていません。
  住むところがあって、一応食べるものに困らなくて、好きな碁を打っていられる、、、そういうのが「福」であると言えば福には違いないが、裕福とは縁がないのですから、威張れるような福耳ではありませんね。
 尤も、学生時代に「出世しなくても、金持ちになれなくても、有名になれなくても、、、暮らせる程度に稼げれば良い」と考えたのが、幸か不幸か、それしか出来なかったのか今のところその通りにはなっているので、その範囲では小さな福なのかも知れません
 但し、冬にになると拷問みたいな耳です。

 さてネット碁は、昨年末以来低迷していますが、ここのところ連敗は止まっています。
 要するに勝ったり負けたりですが、連敗が無いために同じ辺りの点数にとどまっていると言ったところです。
 これで、どこかで連勝があればゆるやかではあるけれど上昇できるのですが、まだそこまでは。
 何とか、長期低迷も底を打ったのかと少し安心ですが、気を緩めると第二次低落が始まるかも知れないので油断ができません。
 若い頃なら、不調ということがあったとしても、力そのものが落ちると言う心配などしなかったのですが、自分の年令を考えると不調なのか力が衰えたのか両方心配です。
 こういうところも福耳は守ってくれないのですから、なんのための福耳かと・・・耳に文句を言っても「○の耳に念仏」「○耳東風」[聞く耳を持たない」
 努力と関係なく耳に頼れれば良いのに・・・。

真綿で首作戦!?

2009-02-08 15:53:54 | Weblog
 今NHK囲碁講座は石田芳夫さんでテーマは「やさしく考える定石」です。
 この「やさしく」と言うのが良いですね、講師が若くしてタイトルを取った頃の印象は「しっかりした計算に基づいて、余計なことはやらない」と言うようなスタイルで、周りからは「算盤で碁を打つ」みたいな雑音もありました。
 まあ算盤よりかなり評価が上のコンピューターですが、批判との是非はともかくそれまでになかった形を見せてくれたのだと思います。
 私にとっては、常に憧れの棋士でしたし、今でも変わっていない。
  ただまあ、今回のテーマについては「やさしく」という部分で楽しませてもらっています。

 話は横道にそれますが、お隣の国のハングルは表音文字で例えて言えば発音記号が文字になっている感じです。
 日本の平仮名カタカナも表音文字ですが、これらは全て単音えお表しますが、ハングルの場合は一音節を一文字で表している・・・そして感じを排除してハングルだけで著述された場合・・・。
 仮に日本語で平仮名だけの文章があったら、相当読みにくいでしょう。
  王朝時代の女性文学と比較できないでしょう。
 カタカナばかりの文章は、まるで軍国時代の作戦命令書ですが、この場合は漢字+カタカナであるので、カタカナ混じりの文に慣れれば何とかはなりそう。
  尤も、善悪は別にして後者は「同音意義」を排除して絶対に間違いが起こらないことを位置されていると思われる。
 今で言えば法律関係の文章でしょうか、一般には回りくどい表現とか、一いち注釈付きの文章に感じられますが、基本は「読み間違いが起きないこと」にあると思います。
 実は、私はこういう表現が嫌いではない。
  法律も軍事も関係ないのですが、話し言葉とか文章でどちらとも読み取れるものに多少の違和感を感じるので、一つのことが一つの意味と言うことが好きです。
 これは中高時代に、数学を教えてくれた先生が幾何学が得意で、言葉の「定義」と言う部分がやかましかったので、回答もこの部分に神経を使う習慣ができたようです。
 要するに性格が単純ですから含みのある表現が苦手なんですね。

 ところが、ジイサマになりますと周りからかまって貰えなくなるわけで、その分一人遊びが上手くないといけなくなるのですね。
 ネットで碁を打って、本を読むのが趣味ですから問題はあまりないのですが、やはり影響でしょうか、言葉遊びが多くなります。
 と、言う事でやっと「同音意義」の振り出しに戻ります。
 「やさしく」は優しくあるいは易しくと書けますが、講義のタイトルは勿論後者でしょう。
 「難しい変化は極力避ける」ということで、難しい説明をしても読者の理解を得られないと言うこともあるでしうが、基本が大事と言うことでもあるでしょう。
 「定石が右上から左上に発展する時、左上に自分の勢力があるか無いかが重要」こういう説明が良いですね・・・簡単な基本的な考え方を表す言葉を(あまり多くなく)お題目がかわりにして、基本を徹底するとか繰り返すことで身につけるとかすること、あるいは振り返ることが大切ですね。

 ところが、このあたりから「言葉遊び」の世界が始まります。
  私が碁会所で打っていた頃、時折やってくるビジターで強い人がいました。
 本来私などがお相手するようなひとではなかったのですが、初めての時は「互い先でどうぞ」と言われて・・・雰囲気で相当な使い手のムードがあり、「では遠慮なく」とは言ったものの「先でお願いします」になりました。
 しかし30手も打たないうちに、「先で・・・」が間違いだと気がついて投了。
  どこが違うかって言うのは上手く説明できないのですが、「動きに無駄が無い」と言うか「こちらの動きに相手が揺らぎが無い」と言うか・・・オーバーに言えば大きな岩に素手でぶつかっているような感じがしたのです。
 その人は、決して難解な手を放つわけではないし、こちらの虚を突くわけではない。
 しかしつけいるような隙はないし、反対に「ここに打たれたら難しい」と思っているところは見逃してくれません。
 いや直接攻撃が来るのではなくて、一手かけさせられるような攻め方ですね。
  そういうことが1回あれば先のリードは吹っ飛びますし、2回あれば立場が逆になるわけです。
 要するに「優しく打っている」のに、どんどん差がついてしまう・・・あるいは自分の不備・欠点に気がつかされて修正している間に置き去りにされてしまう。

 強いってこういうことなのかと思いました。
  勿論プロ同士ではこういうことは起きないでしょうが・・・強さにばらつきが大きいアマの世界での出来事です。
 まるで剣豪がセンス本で真剣の相手を負かせるような・・・
 「簡明な作戦」「易しく考える」「優しく構える」・・・これらは私にとって憧れであるのです。
 何かしようとしても、そのパワーが相手に跳ね返って自分で自分を痛める、そうかと言って何もしなければジリジリと差を付けられる・・・それでいて相手は穏やかに微笑んでいるみたいな、きっと名づければ「真綿で首を絞める」が当てはまるような気がします。

 NHK囲碁講座の「やさしく考える定石」という講座名だけで、頭の中遊ばせてもらいました。

 

おなかいっぱい

2009-02-07 04:40:41 | Weblog
 私が生まれたのは戦後まもなくで、昭和20年代、30年代に少年時代(そういう時もありました)。
 今から見れば相当貧しかったのですが、周りに桁違いに裕福な人がいなかったせいか、あるいは現実に大富豪の生活の情報などが無かったせいか、貧しいとはあまり感じたことはなかった。
  確かに、子供が5人もいるサラリーマン家庭の末っ子ですから、流行のおもちゃなどは期待できなかったのですが・・・姉たちは女3人なので、着るものなどは上から下へお下がりとなるので、一番下の姉などは不平を言っていましたが、私の場合は兄とは11才も違うのと、体格が違ったので”お下がり”の対象にならなかったためかも知れません。
 いや、一番大きな理由は食べるものかも知れません。
 親の考え方としては「貧しくても食べるものには不自由させない」みたいなところがあったのですが、逆読みすれば「食べ物だけは」だったのでしょう。
 豪華なものとは縁がありませんが、それでも”おなかいっぱい”食べていたから、エンゲル係数が高かったはずです。
  そういう習慣の中で育ったので、「ともかく、おなかいっぱい食べる」習慣がついてしまったようです。
 当時でも「腹八分目」とか「腹も身のうち」と言う言葉はあったのですが、おなかいっぱい食べないと食べた気がしないという食習慣があったはずです。

 今の食事とは量が全く違う・・・よく韓ドラで食事シーンを見るとテーブル一杯にいろんなおかずが並んでいますが、あんなに種類は無かったが、大家族がテーブルを囲んで、大きなお皿にメインのおかずが山盛りにあって、常備菜とか家でつけた漬物が並んでいたのですから、どちらかと言えばそのイメージに近いかもしれません。
 今は夫婦と息子が一人で、一人ずつのお皿にちまちまと・・・何と言っても私の場合は量も種類もコントロールされているわけで、本能的な欲求を理性で抑え込んでいる食事を繰り返しているとも言えます。
 食べたい物を食べたいだけ食べられる幸せはたぶん二度とは戻ってこないでしょうね。
 と、言う事で今の私の座右の銘は「死なない程度に生きていく」。
  お医者さんに叱られながら薬と検査の手助けで・・・マア、何と暗い話ですが、現実はそれほど深刻に感じてはいないのですから、自分で言うのも変ですが能天気な性格が救い?でしょう。
 それでも、毎朝の通勤時にはうらやましいことはあります。
  自転車での通勤コースは市民のジョギング・散歩コースになっているのです。
 私にはジョギングの趣味はありませんが、走らないのと走れないのでは意味がだいぶ違います。
 自転車で走るのは問題ありませんが、それでも全速力の持続走は問題ありでしょう。
 歩くのも、速歩の持続は無理でしょうし、もし走ったら数百メートルで危険信号がともるに違いない。
 試しにやってみる勇気もありませんが、ともかく「死なない程度に生きている」のです。
 マア、好きな碁が打てて観戦できるのですから、多分幸せなんでしょう。
 
 夕べも夜中にネット碁の観戦をしていました。
 深夜にいつものMさんの碁を観戦していた・・・はずなんですが・・・気がつくといつの間にか終局していて結果が出ています。
 いつものごとく、いつの間にか眠っていただけですが。
 慌ててネットの対局室を退出して、対局待ちの部屋を覗くとそのMさんと、もう一人お馴染みのNさんが”対局待ち”となっています。
 MさんとNさんが対局しないのは?・・・たぶん現在の点数差が14点なので、2子の手合いになるからでしょう。
 さて、時間は午前4時半ですが、『一局打ってみようかな』と考えたのですが『いま対局希望ボタンを押すとMさんとつながるか、それともNさんかな?』と考えました。
 やってみれば、ホストのパソコンが条件・早い順に選んでくれるでしょうが・・・『その前にトイレに行って準備を整え・・・』と戻って見ると、Mさんの名前が消えていました。
 対局者リストにも名前が無いから接続を切ったようです。
 と、見ているうちにNさんも退出・・・
  『もしかしたら』・・・『私が目を覚ますのを待っていてくれたのかも知れない』。
 終わった対局室に留まっていたのですから、接続状態で眠っているのはミエミエです。
 私が目が覚めたら打ってやろうと待っていてくれたのかも知れません。
 それが、対局室から退出したのに、対局希望を出さないのでMさんもNさんも待つのをやめたのかも・・・
 勝手な想像をする、幸せな人間です。

 家のドアに新聞が差し込まれる気配がします。
 いつもは3時半なのに、今日は土曜日なので遅いのかも知れません。
 さてさて、私ももう一眠り。

古いのですか?

2009-02-06 17:36:26 | Weblog
 仕事の用事で3日に1回は大手新聞社の地方局の前を通ります。
  そこの入口に幟旗が立っていて「メガ文字」と書いてありますから、これは新聞の活字をより大きくしますという宣伝でしょうね。
 個人的には大きな文字は歓迎です。
  まあ老眼鏡無しで読めるほど大きいかどうかは別として、小さな文字では眼鏡をかけた上に虫メガネでやっと読めるものもあるのですから、大きい事はありがたい。
 でも、この幟旗を見るためにいつも引っかかるのです。
  はじめに幟の掲げられている場所ですが、厳密に言えばこれは歩道上ですから、許可が必要な場所です。
 当然道路を管理している当局の許可が必要なのですが、無許可ではないかなと想像しています。
 想像ですから騒ぐわけにもいかにのですが、仮に誤ってこれにぶつかって事故が発生した場合は当然責任が発生します。
 よくガソリンスタンドの幟などが歩道を占拠していたり、いろんな商店の置き看板が歩道をふさいでいたり、あるいは戸建住宅や事務所などの全面の歩道に車が乗り上げ易いように勝手にステッパーが置いてあったり・・・
 でも新聞社は自分が正義だと思い込んでいますから、他から批判されると逆切れもどきの反撃をするか、一切無視するかどちらかだと思われます。
 物価の値上げをいろいろ批判しますが、新聞自体の値上げの時は沈黙ですから。
  
 それはそれとして、もうひとつ言葉の問題も気になります。
 「メガ文字」と聞けば、メガ=けた外れに大きいと言うイメージがありますから
 意味としてわかりますが、イメージを宣伝するために新聞社自ら造語していることが気になります。
  この言葉とは違う言葉ですが、最近の若者言葉でしょうか「○○なく」という表現があるようです。
 正しくは「○○ではなく」を縮めて言っているのでしょうが、私にはどことなくわざとらしさを感じます。
 あるいは言葉足らずの、日本語に不慣れな外国人の真似のような、あるいは短縮して言葉で遊んでいるような。
  それで、彼氏を変な所にアクセントを置いて口にするのと同じ様に、気になって・・・気になり始めると耳障りです。

 こういう変化を「時代による変化」とも言えるかもしれないけれど・・・
  昔「重複」を「ジュウフク」と読むと×だったのが、今は「チョウフク」でも「ジュウフク」でもどちらでも良いになって、尚且つ「チョウフク」と読むと=古い人間みたいなところがあります。
 だからどうなんだと言われると困りますが・・・具体的な不利益を被ったわけでもなし。
 でも複雑な気持ちです。
  今の言葉の中に、江戸時代にできた奴言葉がずいぶん残っていますし・・・
 と言うことは、言葉にはそういう流れがあるという証拠でもあるのですから、今も変わりつつあるのが当然でもあるのですが、一方でこれ以上は変化してほしくないと言う気持ちもあるのです。
 ずいぶん勝手な言い分でしょうね。
  年を取るとこういうところにも保守化するのかも知れませんが、、、変化賛成あるいは変化した言葉を愛用する人が”革新”でもなさそうです。

個人的にも乾燥注意報

2009-02-05 17:18:47 | Weblog
 昨日マスクが苦手と書きましたが・・・そうなんです。
  心理的にはごく子供の頃から虫歯とか歯列矯正でお世話になっていた歯医者さんが当然治療の際にはマスクをしていたわけで、マスクをした人に顔を覗きこまれるトラウマがあるかも知れません。
 まあ、それは冗談みたいな心理かも知れませんが、マスクをすると息苦しさを感じると言うことはあります。
 例えば寝るときに布団や毛布をかぶったまま眠るのは私にはできません。
  真冬でも顔は布団から出ていて、新鮮な空気を感じられないとダメです。
 ですから部屋の空気を暖めるようなところも、余り良いとは言えない。
  体は暖かく、それでいて空気は少々ひんやりしていても、新鮮さが大事・・・相当我儘な性格がここにも出ています。
 という事で、心理的はともかくマスクをした時に自由に呼吸が出来ないような感じが苦手なのです。
  マスクの効能をアップするために、マスクと顔の隙間の密閉性が大事だと言われるのですが、それこそ私にとっては迷惑な話。
 ところが、インフルエンザとか花粉症対策ではこの密閉性が大事なんですから、困ったものです。
 そうなると潜水士さんがかぶるキャップでなくては・・・そんなもの被って歩いていたら相当有名になりそうですね。
 
 さて、インフルエンザに限らず乾燥した季節は、風をひきやすいのだそうですね。
 そういう事ではマスクをしていると少なくとも鼻・口の周辺の湿度は保てますから、その意味での効果はあるのかも・・・
 乾燥と言えば・・・私の体重がらみの話で、夏に体重が増加し冬に落ち着くのです。
 つまり夏瘦とか暑さによる食欲不振はないのです。
  逆に夏は汗をかくので水分を頻繁に取りますから、これが摂取過剰となるのか体重が増えるわけです。
 要するに水太り、「水を飲んでも太る」タイプで、「水を飲むから太る」とも言えます(水とか、0カロリー飲料です)。
 夏は汗として水分が出てしまうと、血液濃度が上がってしまいただでさえ血管の流れが悪くて、狭いところがあるのですから頻繁に補給をするのは生命維持?のためにやむをえないのです・・・が、過剰な補給は逆に血液が薄められた状態になるかも知れないので、それはそれで良いこととは言えません。
 要するに厄介なのは性格だけではなく・・・ソフトもハードにも難点ありと言うことです。
  
 さて冬は乾燥注意報。
  室内の湿度も、体内の水分も適当に保たなくてはいけない。
 室温も暑すぎれば不快で、寒いと体が震えて来る・・・全く厄介。
  早く桜の季節が来て欲しい
 そういうわけで、冬を乗り切る対策で、部屋の中の湿度を保ったまま室温を少し上げるためにオイルヒーターを使い、ベッドの中に入って足温器で足先を温めながらパソコンでネット碁です。
 一見ものぐさ太郎状態ですが、あくまでも冬場乗り切り対策なのです!・・・説得力がないけれど、そうなんです。

ロシア風邪

2009-02-04 17:10:09 | Weblog
 今、インフルエンザが流行っているとか、いないとか、新型のインフルエンザの警報が報道されています。
 インフルエンザが概ね40年ぐらいでリニューアル?、いや新型に変化する可能性が大きいのだそうで、そうなると少なくとも流行の最初には対処が追い付かない可能性があるのだそうです。
 そうなると抵抗量の弱い、あるいは生命力の比較的弱い高年齢・若年層が危険なんだそうです。
 と言うことは、高年齢で体力がなく且持病持ちとしましては、一見平凡な日常のように見える毎日なのに、本当は危険な状態かも・・・相当オーバーですが。
 
 そう言えば、小学校の高学年の時に作文・朗読のコンクールがあって、一応クラス代表で校内大会に参加したのですが、その時のテーマがインフルエンザでしたから、多分そのころ流行していたのでしょう。
 インフルエンザにかかった経験と家族の反応などを描いたものですが、惜しくも次席で代表にはなれず、市の大会には出られませんでした。
 ともかく、それが約50年前のことですから、やはりインフルエンザの周期に遭っているかもしれませんから、注意が必要ですね。

 さて誰かの小説だったか、何のドキュメントだったか定かではありませんが、明治時代だったか日本で流行った風邪が、港で外国からやってきた船員から流行り始めたと言う話で、風は「ロシア風邪」と名づけられ猛威をふるったそうです。
 実際に相当の数の方が亡くなられたのです。
  ところがこの風、日本ではロシアの船員から始まったと言う事で「ロシア風邪」と言うのですが、それではそのロシアでは日本からやって来たという事で「日本風邪」なんだそうです。
 災いは外国からやってくるという感じ方なんでしょう・・・よく田舎に行くと見られるのですが、村境にある道の頭上にかけられた注連縄をイメージします。
 今も昔も変わらない感情があるらしい。
   そうだとすると、「A香港型」などと言う名前は、きっと地元香港では国辱的名前として断固使用を拒否して「A日本型」などと呼んでいる(想像です)かも知れない・・・災いは日本からやってくるみたいに。

 と言う事で、休みの日にも家でじっとしていてネット碁を打つのが一番の対処法なんでしょうが、水曜日は午前中が生活習慣病クリニックの定期診察日で、午後は歯科大での虫歯治療日なので出かけないわけにはいかない。
 表に出て、バスに乗ったり人の集まる所に行くのですから、それなりの注意は人用です。
 但し、注意する相手が見えていないから厄介です。
  気休めみたいにマスクが奨励されていますが、これが私の苦手の一つなので厄介なんです。

質より量

2009-02-03 18:29:44 | Weblog
 2月に入ると何となくせわしなくなって来ます。
  個人的には来年度の契約はすんだので、その面では楽なんですが、その分来季の準備も含めた仕事がスタートします。
 昔なら年末気分・今は年度末のラストスパートに向けて助走期間のような気がします。
 普段の業務をこなしながら、年度末の集計的業務を準備します。
  一方でほぼすべての台帳の準備があるのです。
 現在のように電子的な記憶装置が発達しても、台帳は消えません。
  私の担当している業務では昭和42年頃の記録がありますし、よく問い合わせがあるのは昭和62,3年頃の記録です。
 現在取り扱っているものは、電子的にコンピュータに入力して管理するものと、台帳で管理するものがあり、台帳のものはパソコン入力もしますからダブル手間。
 マア、ダブルにはそれなりの意味もあり、私も仕事があるのですから文句ばかりも言えませんが、ともあれこの時期には翌年度の台帳の準備が必要です。
 これが市販のものが無いので、原本を自家製して必要枚数をカラーコピーします。
 印刷屋さんに頼めなくもないのですが、種類の割に必要数が少ないので、外注すると相当数の在庫を抱えることになるので、やはり手作りするしかなさそう。
 更に各ページの項目ににナンバーリングし、見出しタグをつける・・・このご時世に仕事があってありがたい。

 ありがたい忙しさのおかげで疲れる!?ので・・・観戦中心の生活?になりそうです。
 考えてみれば「仕事で疲れるので実戦が減る」と言うのはまともな流れですが、若い頃はそうではなかったはずです。
 常識的な人はそうかも知れませんが、少なくとも私は違った。
  仕事で忙しい時・それが出張などで物理的に不可能な場合はともかく、忙しい時ほど碁を打ちたいと言う欲求が強かったと思います。
 「忙しい時ほど」と言うのはだいぶ誇張ですが、仕事と関係なく碁を打っていたはずです。
 「酒は別腸」と言うか「ケーキは別腹」というか、仕事の忙しさとか疲れとかは関係なく、仕事帰りに碁会所によって碁を打って、閉店後は徹夜マージャン、翌朝はそのまま出勤。
 
 そういう無茶が祟って今そのツケを払っているのかも知れませんが、ともあれ「疲れているので観戦」気分に変わってしまいました。
  気持ちのエネルギー、気力のスタミナ不足と言うか、老化現象が本格化してくるのかも・・・そうなると敵は対局相手だけでなく、最大の敵は自分の中にあるのかも・・・。
 そう言えば、最近読書の量も減ってきている。
  本来なら読書は量より質が肝心なんでしょうが、私の場合は質の低さを量で補うみたいなところがあるし、斜め読みで大意をつかめれば良いと言う読み方もします。
 「トリビア」的な知識も好きだし、その意味で質はともあれ量が大事ですから、読書量の低下は致命的?。
 という事で碁も読書も量でこなすタイプ・・・これでは、量で質をカバーできるのには限度がある。

鹿を追う猟師

2009-02-02 17:37:40 | Weblog
 久し振りに対局しました。
 これが12日振りですから約2週間のブランク。
 マア、震えはしなかったものの、実戦から離れていた弊害?は歴然です。
 まず視野が狭くなっているのです。
  紛争地域に気持ちが集中してしまうと他が目に入らなくなる。
 局面の結果にこだわって、全体の流れが見えなくなる。
  そして、実戦なら当たり前のアタリとか、数手先の出来事を見落とす。
 全く情けない限りです
  一局目は中盤で私が優勢だったはず・・・いや盤面の景気が良かったのでそういう風に勘違いしたに違いない。
 相手の弱い石を追って・苛めて優勢だったはずが、これが深追いだったようです。
 両者2隅に地があり辺も大体同じ、真ん中方向で郵政ですから悪いはずがないのですが、「優勢勝ち」よりも「KO勝ち」を狙う悪い癖が出てきます。
  しかも、久しぶりの対局ですから細かなところが見えていないし、全体も見えていない。
 まさに「鹿を追う猟師」ですから相手を追い詰めているつもりで自分から落とし穴に落ちるのです。
 自分で掘った穴に落ちる「穴二つ」状態です

 二局目は、打つ前に「ゆっくり。ゆっくり」をお題目のように唱えて対戦
 今度は取りに行くと言う展開にはなりませんでした。
 むしろ、相手の方の方が、私の石をギリギリに追い詰めてあわよくば取ってしまうと言う姿勢です・・・もちろんそれは間違ってはいないでしょう。
 ともあれ10目半残りました。
  現実には大差のうちに入ると思うのですが、久しぶりなので、終盤何度も数えました。
 優勢だと思うのですが「数えたら結果が逆と言うのはないだろうな?」などと疑心暗鬼。
 
 ともかく1敗1勝
 これからは、結果にあまり拘らずに「面白いから打つ」で行こうと思いました

高段者って

2009-02-01 16:03:46 | Weblog
 例によって土曜日には図書館に行きまして、囲碁関係の本棚の前では相変わらず少々失望感を味わいました。
 要するに置いてある本が少ない。
  囲碁ファンが数百万いるとか居ないとか言っていますが、少ない。
 いろんな本が出版され、囲碁関係だって切り口を変えたり、国際的な視点での本など出ているはずなんですが・・・
 これは図書館を運営する側から見れば予算が少ないから手が回らないということなんでしょうか。
 出版と言う行為は経済活動ですから、それなりの利益を見込んでいるはずだと思うのですが、そうだとすればそこそこの数の本が世の中に送り出されたはずですね。
 そういう本の中には、図書館に寄贈されたり、古本屋さんに回ったりする本もあるのですが、どうも他の種類の本に比べると少ないような気がします。
 囲碁ファンの特徴として、一旦手に入れた本は手放さないということでしょうか
  いえ、当然各個人の自由です。
 図書館の本棚の前で、勝手に文句を言っているだけです。

 今日借りたのは
「日本棋道協会の有段者特訓塾① 最強の高段位到達法」大竹秀雄 平成10年
  この本は、タイトルとしては”ありそう”なタイトルですから、何だか読んだことがありそうな気もするのですが、まだ読んだことが無いような気もしました。
 まあ、何度読んでも良いのですからこだわらないようにしましたが。
  ところでタイトルにある「高段位」とは具体的にはどういう段位を指しているのでしょうか?
 普通に考えれば級から段になって、初段・二段は低段、三、四段が中段?とすると五段以上が高段と言うことになりそう。
 一応それは良いとして、例えば日本棋院の段位がインフレ気味なのはどうしたら良いのでしょうか。
 昔は、よく年配の人から「昔の初段は強かった」などと聞かされたものですが、その反対に「○○の五段はたいしたことはない」になりそう。
 今はアマでも七段とか八段とかを認めているようですが、確かにそういう方々は強いに違いない。
 ですから、高段=強い人とするならば、高段者=七段以上となるのでしょうか、
 すると五,六段は中途半端で、七,八は超高段ですか。

 まあ、書かれていることに不満があるわけではありません。
  要するに基本的な事柄の中で、比較的高い理解力が必要なことを身につけて、高段者にふさわしい力をつけなさいということでしょう。
 それは高段手前の人は当然必要だし、現在高段と言われている人でも常に基本を見直すことも大事でしょう。
 本の途中にあるコラムはタイトル「上達法」で、上達法1では
 感性を磨く
 精神面
 打ち碁を並べる
上達法2では
 一、石は強い方から動かないで、弱い方から動く
 一、碁は相手の弱いところを攻めるか、自分の弱いところを守るのが良い
   終盤
   ヨセ
   コウ
   詰め碁  となっています。
 確かにこういうことが出来ない、あるいは理解度が低ければ高段には達しないだろうとは思えます。
 しかし、現在高段者と言われる人が、それを出来ているかと言うと・・・
  理解が0とか100%とか言う事ではなくて、実戦で忘れるとか、道から外れる度合いなんでしょうね。
  だから常に基本を見直さなければいけない・・・
 それと冗談みたいですが、理解度80%以上が高段者とすると、現状は50%から80%でも高段者と扱いの時代かも知れません。
 50から80が高段者、80から100が超高段者と言う事で、、、。