Akatsuki庵

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田中一村展

2021年02月20日 08時37分30秒 | 茶道具以外の展覧会

『田中一村展 ―千葉市美術館収蔵全作品』 サイト ※2月28日(日)まで

千葉県には2017年の春以来、ずっと足を踏み入れていなかった。直近はこちら

神戸の友人が「田中一村展に行きたいけど、コロナだから行けない」と何度も嘆いていた。

誰?それ?
私は移動自粛も気にせず、関西と往復してるけどね~。
千葉かぁ。遠いしなぁ。

と、最初は聞き流していたのだけど、先週ふと新聞のテレビ欄を眺めていて見つけちゃった。
BSテレ東の「ぶらぶら美術館」で田中一村展が紹介されることを。→こちら

すぐ友人にSNSで報せた。(ちょうど帰り道で「視る!」と返信)
私自身は番組開始には間に合わなかったけど、途中から半分ほど視た。

で、「へぇ~。こんな画家さんがいたんだぁ」と興味を持って、
調べたら、サントリー美術館のメンバーズカードで割引が効くとか(←そもそも高くないし)
入館予約が不要とか、ハードルが下がったので思い切って行ってきた。

都心を散歩がてら2キロほど歩いたら、片道550円。往復で1,100円だったしねぇ。

千葉市美術館。2度目かと思っていたら、3度目だったワ。
(初めて行った時はblog読んで思い出したけど、どうやって行ったかは覚えていない~)

開館20分前に到着。
既に数人いたので、なんとなく列を作って待った。
私が並び始めた頃から人がパラパラと増え始めた。

展示室は7階でエレベーターに乗るまでが制限かかったけど、
後は余裕。
開館時点の待ち行列も大した人数ではなかったようで、会場が混雑~ということはなかった。

テレビで見たのは、戦後になって院展に出品したけど落選で~というあたりから。
(審査員が同級生だった東山魁夷ですし~とか、五郎さんのコメントに時代がわかった、というか)

なんせ、番組の前半部分は視ていないので、そこは解説文を読んで理解。

10代の頃の骨太な日本画。なぜか、柴田是真のタッチと似ていると思った。
作品こそ展示されていなかったけど、イタリアでその頃の作品が見つかったそうな。
(ローマ東京間の長距離飛行に成功したイタリア人飛行士に贈られた書画集に貼られていたとのこと)
そういうエピソードが面白いナと思った。

東山魁夷との関係は展覧会のパネルには書かれていなかったけど、
帰宅後に一村の年譜と東山魁夷の年譜を見比べてビックリ。
同じ明治41年(1908年)7月生まれ、同じ年に東京美術学校に入学した同期だったのだ。

田中一村は経済的な事情で学費が払えなくなって、入学して間なしに退学。
(学校の指導方針と合わなかったということもあるらしい)

以後、独自路線を歩むことになる。

椿図屏風。
左半分は何もなく、右側にバッと斑入りの椿が描かれていて、すごい大胆な構図だなぁ。

お父さんが彫刻家だったということもあり、絵の手ほどきを受けたのはもちろんのこと、
彫刻もできた。
木魚とか根付、お盆とかも展示されていて、これも興味深かった。

住まいも親戚を頼って千葉に移住。(現在の千葉市内、この美術館から比較的近い場所とのこと)
十六羅漢図はよかった。
写真撮影も始めたようで、これはたぶん後年の作品に生かされたと思う。

そして、戦後。
若冲みたいに、でも若冲のとは違う軍鶏図の数々。妙にリアル。
作風にも自信が出てきたような。
40歳を過ぎて院展に応募するも落選。

その後、旅に出て、それから奄美大島に移住。
大島紬の染色工をしてお金を稼いでは絵を描く暮らし。

その中で画風がさらに発展して、その集大成が「アダンの海」。

 これはすごかった。本当に集大成!って感じ。

書簡も展示されていて、晩年の「本日、(工場を)退職して参りました。もう働くことはありません」
この一文が妙に印象に残ったわ~

だけど、昭和52年(1977年)、古希間近の69歳で急死。(突然死? 孤独死?)

生前はほとんど無名のままで終わったしまったのだけど。

最後のコーナーには没後に開催された展覧会のポスターが壁一面に貼られていて、これが圧巻だった。
ただ、ほとんどの会場が百貨店の催事場(なぜか高島屋多し)と奄美大島なんだけど。

奄美大島には記念美術館もある。
そういえば、この展覧会に行きたいと言った友人は一昨年に奄美大島へ旅行していたっけ。
だからかぁ。。。と、ナットク。

友人へのプレゼントで図録と「アダンの島」のクリアファイルを購入して帰って来た。

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