民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「日日是好日」 習うより、慣れろ 森下 典子 

2016年05月21日 00時32分27秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 第二章 <頭で考えようとしないこと> 「習うより、慣れろ」 P-52

 ひたすらお点前を繰り返す稽古が始まった。
「一礼しますよ。・・・一呼吸して。まず、『こぼし』を膝のあたりまで進めなさい」
「『こぼし』・・・? 」
 思わず視線が泳ぐ。道具と名前がなかなか一致しないのだ。
「あなたの左にあるでしょ」
「こぼし」とは、すすぎ水を捨てるボウルである。
「お茶碗を自分の前に置いて。・・・棗(なつめ)を、お膝とお茶碗の間に置きますよ」
 私は棗をスッと、真横からつかんだ。
「あ、そうじゃないの。棗は、こうやって持つの」
 先生は、棗の肩にななめ上からふわりと柔らかく手をかけ、
「これを『半月をかける』といいますよ」
 と、言った。
「・・・はい、そしたら袱紗(ふくさ)さばきね」
 言われるまま、袱紗をさばいて「パン! 」と「ちり打ち」し、小さくたたむ。
「それで棗の上を『こ』の字に拭きますよ」
 私はただただ先生の指図に従って、道具を右から左へ動かしたり、拭いたり、蓋を開けたり閉めたりした。言われたとおり動いているだけで、自分が何をやっているのか全くわからなかった。
 三回やっても、五回やっても、十回やっても、同じだった。
 毎回、同じセリフを聞きながら、道具を右から左へ動かしたり、拭いたり、蓋を開けたり閉めたりした。
「あ、棗の持ち方がちがう。半月かけて」
「そこは右手で持って、左手に持ち替えるんでしょ」
 毎回、何十ヵ所も注意された。
「何やってうのか、全然わからないよ! 」
「私も、ずっと一回目と同じみたいな気がする。手順が覚えられないの」
「そうなの。何回やっても、最初と同じ状態」
 稽古が終わると、帰り道、ミチコ(一緒に習いはじめたいとこ)と喫茶店でぼやきあった。武田先生は、
「稽古は、回数なのよ。一回でも多く数を重ねることよ。『習うより、慣れろ』ってよく言うでしょ」
 と、毎週、同じ言葉を繰り返した。
「はい、そこで一礼。一呼吸して。そしたら、『こぼし』を進めますよ。それからお茶碗ね。次は、棗・・・。はい。そしたら袱紗さばきね」
 十五回繰り返し、二十回繰り返した。「こぼし」「茶筅(ちゃせん)」「茶杓(ちゃしゃく)」という名前に視線がウロウロすることはなくなったが、やっぱり何をやっているのかわからなかった。
 袱紗をさばいて、固まる。
(・・・? )
「棗を拭くのよ」
「柄杓を持って、また固まる。
「あら、その柄杓を持ってどうするつもり? 」
「お茶の蓋をあけなきゃ、お湯はくめないんじゃない? 」
 いちいち先生が指図してくれなければ、動けない。
 このままではいつまでたっても最初と同じままだ。なんとか点前を覚えようと、「えー、こぼし→茶碗→棗、それから、えーと、袱紗・・・」
 「あっ、ダメ、覚えちゃ! 」
 先生に、ぴしゃりと止められた。
「そうやって、頭で覚えちゃダメなの。稽古は、一回でも多くすることなの。そのうち、手が勝手に動くようになるから」
 先生はいったい何を言っているのだろう。こんなにいっぱい注意をしておいて、「覚えるな」なんて、理不尽だ。これほどまで複雑で細かな動きの手順を、覚えようともしないで覚えられるわけなどないではないか。

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

「日日是好日」 ものを習うということ 森下 典子 

2016年05月19日 00時15分57秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 第一章 <「自分は何も知らない」ということを知る> 「ものを習うということ」 P-46

 「武田のおばさん」が15分ほどでやったお点前に、私は1時間以上もかかった。もっとも、自分ではその倍に感じたほどだった。
 水屋の床に、足を投げ出し、しびれきった指を折り曲げて、じんじん来るむず痒さにのたうっていると、
「これも慣れなのよ。いまに何時間でも平気で正座できるようになるわよ」
 何時間もなんて、とても信じられなかった。
 そのとき「武田のおばさん」が言った。
「典子ちゃん、どう? 今やったこと、どのくらい覚えているか、お点前もういっぺん通してやってごらんなさいな」
「・・・」
 足はまだじんじんしているけれど、「どのくらい覚えてるか」と言われると、対抗心がムクムク頭をもたげた。学校の成績は、まあまあだった。記憶力は悪くないつもりだ。運動神経は鈍いけど、代わりに手先は器用だとよく言われた。
(「お茶」なんて、たかが、カビくさい稽古事でしょ。そんなのチョロいわよ。結構デキるところを見せて、『武田のおばさん』から『あら、あなた、結構スジがいいじゃない』って、一目置かれよう)
 そんな欲もちょっとあった。
「はい、もう一回、やってみます」
 ところが・・・。
 歩けない。どこに坐ればいいのかわからない。どっちの手を出せばいいのかわからない。何を持つのか、どう持つのか・・・。手も足も出ないのだ。
 できることなど、一つもなかった。ついさっきやったばかりのことなのに、何一つ残っていなかった。
(ほら、できないでしょ? これもできないでしょ? )
 一つ一つ、念を押されているみたいだった。一から十まで指示されて、操り人形のように動くしかなかった。
「カビくさい稽古事」と、高をくくっていたくせに・・・。なにが「スジがいい」た・・・。
「チョロい」はずのものに、まるで歯がたたなかった。学校の成績も、今までの知識も常識も、ここでは一切通用しなかった。
「そんなにすぐに覚えられたら大変よ」
 慰めるような口調で微笑んだ「武田のおばさん」の、キリッとした着物姿が、なんだか手の届かない遠くに見えた。
(いつかこの人のように、流れるようなお点前ができる日が、来るのだろうか? )
 その時から、「武田のおばさん」は、「武田先生」になった。
 そして、私の目からウロコが一枚、ポロリと落ちた。
(高をくくってはいけない。ゼロになって、習わなければ・・・)
 ものを習うということは、相手の前に、何も知らない「ゼロ」の自分を開くことなのだ。それなのに、私はなんて邪魔なものを持ってここにいるのだろう。心のどこかで、「こんなこと簡単よ」「私はデキるわ」と斜に構えていた。私はなんて慢心していたんだろう。
 つまらないプライドなど、邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ、何も入ってこない。
(気持ちを入れかえて出直さなくてはいけない)
 心から思った。
「私は、何も知らないのだ・・・」

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

「日日是好日」 「形」と「心」 森下 典子 

2016年05月17日 00時22分32秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 第一章 <「自分は何も知らない」ということを知る> 「形」と「心」 P-43

 お茶には、うるさい作法があると噂には聞いてはいた。しかし、その細かさは想像を絶していた。
 たとえば、釜から柄杓で湯を一杓くみ上げて、茶碗に注ぐという、たったそれだけのことにも、たくさんの注意があった。
「あっ、あなた、今、お湯の表面をすくったでしょ。お湯は、お釜の下の方からくみなさい。お茶ではね、『中水、底湯』と言って、水は真ん中、お湯は底の方からくむのよ」
(同じ釜からくむんだから、上だって、底だった、同じお湯じゃないの)
 と思いながらも、言われた通り、柄杓をドブンと釜の底深く沈めた。すると、
「ドブンと、音をさせないように」
「はい」
 くみ上げた湯を、茶碗に注ごうとすると、
「あー、お茶碗の『横』からじゃなく『前』から注ぎなさい」 
 言われるままに、茶碗の「前」からお湯を注ぐ。空になった柄杓から雫がポタッ、ポタッと落ちる。その雫を早く切ろうと、柄杓をちょんちょんと振った。
「あっ、それをしちゃだめ。雫が落ちるのをじっと待つの」
 やることなすこと、いちいち細かく注意され、イライラしてくる。どこもかしこも、がんじがらめ。自由に振る舞える場面など一つもない。
(「武田のおばさん」て、意地悪! )
 私は、四方八方から剣が刺さってくる小さな箱の中で、小さく縮こまっている手品師の助手になったような心境だった。
「おちゃはね、まず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、その入れ物に、後から『心』が入るものなの」
(でも、『心』の入ってないカラッポの『形』を作るなんて、ただの形式主義だわ。それって、人間を鋳型にはめることでしょ? それに、意味もわからないことを、一から十までなぞるだけなんて、創造性のカケラもないじゃないの)
 私は日本の「悪しき伝統」の鋳型にはめられる気がして、反発で爆発しそうだった。

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

「日日是好日」 なぜでもいいから 森下 典子 

2016年05月15日 00時53分21秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 第一章 <「自分は何も知らない」ということを知る> 「なぜでもいいから」 P-38

 二回目のお稽古で初めて、例の「シャカシャカ」かきまわす泡立て器に触った。
「これは『茶筅(ちゃせん)』というのよ」
 細く分かれた竹の穂先が、内巻きにカールしている。
 おばさんは、お湯を少しだけ入れた茶碗の中で、茶筅で弧を描くと、手首をくるりと返して、茶碗のふちにコトリと置いたり、ゆっくりと茶筅をまわしながら、鼻先まで持ち上げたり、奇妙な動作を三度繰り返した。
「はい、やってごらんなさい」
 私たちも、茶筅で弧を描いて手首をくるりと返したり、茶筅を鼻先に持ち上げたりした。なんだか「お焼香」しているみたいな妙な気分だった。
「・・・これ、なんですか? 」
「ん? 穂先が折れてないか、確かめてるの」
「でも、なぜ手首をくるりとやるんですか? 」
「なぜでも、いいの。とにかくこうするの」
「・・・? 」
 おばさんは、白い麻布を持ってきた。
「これは『茶巾(ちゃきん)』よ。見てて」
 そう言うと、小さくたたんだ茶巾を、茶碗の縁にかけて指ではさみ、三度回しながら拭いた。一周全部拭き終えると、茶巾を茶碗の真ん中に置いてごちょごちょ動かした。
「最後に、お茶碗の底に、ひらがなの『ゆ』の字を書くのよ」
「なんで? 」
「なんででもいいの。いちいち『なぜ? 』って聞かれると、私も困るのよね。とにかく、意味なんかわからなくてもいいから、そうするの」
 妙な気がした。学校の先生たちは、
「今のは、いい質問だ。わからないことを鵜呑みにしてはいけない。わからなかったら、その都度、理解できるまで何度も聞きなさい」
 と、言ったものだった。だから私は、「なぜ? 」と疑問を持つのは、いいことなのだとずっと思っていた。
 ところが、なんだかここでは勝手がちがった。
「わけなんか、どうでもいいから、とにかくこうするの。あなたたちは反発を感じるかもしれないけど、お茶って、そういうものなの」
 あの「武田のおばさん」の口から、こんな言葉を聞くなんて、意外だった。
 けれども、そういう時、「武田のおばさん」は、なぜかとても懐かしいものでも眺めるようなまなざしをする。
「それがお茶なの。理由なんていいのよ、今は」

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

「日日是好日」 武田のおばさん 森下 典子 

2016年05月13日 00時38分15秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 序章 <茶人という生きもの> 「武田のおばさん」 P-18

 前略

 武田さんは母の友達となり、私は「武田のおばさん」と呼ぶようになった。
「武田のおばさん」は、生まれも育ちも横浜の下町という、はえぬきのハマっ子である。昭和7年生まれ。この世代の女性としては珍しいキャリアウーマンで、30過ぎまでお勤めをしていたけれど、結婚、出産を機に家庭に入り、専業主婦になっていた。「武田のおばさん」は何となく、身ぎれいな雰囲気を持っていた。すごい美人というわけでもないし、アクセサリー一つ付けたところを見たこともないが、何となくきれいだった。
「武田のおばさん」は、中年女性が集団になった時に発するキンキンした甲高い声で話すことがなかったし、おばさん特有の何かを押し隠したような曖昧な微笑をうかべることもなかった。ふんわりとした優しそうな雰囲気に不似合いなパキパキしたハマっ子言葉を話す。
 まわりとのお付き合いはちゃんとするけれど、ベタベタ連なって行動するのは嫌いらしく、用事がすむと、「それでは、お先に失礼します」と、一人でさっさと群れから離れる人だった。男でも女でも、権力や力を前にすると態度や声色が変わる大人はいっぱいいるが、「武田のおばさん」は誰の前でも変わらなかった。

 私が第一志望の大学を落ちて「浪人しようか」と迷っている時、親やまわりの大人が、
「女なんだから、なにも浪人までしなくたっていいじゃないか。いずれ結婚するんだし」と、判で押したように同じことを言う中で、たった一人「武田のおばさん」だけは、
「典子ちゃん、一番入りたいところへ入りなさい。私は、女だって仕事を持って、思い切り生きるべきだと思うわ」
 と異なる意見を持っていた。「私は○○だと思うわ」と、自分の考えをはっきりしゃべる中年のおばさんは、初めてだった。そして、私が「浪人しない」と決めると、「そう。あなたが自分で決心したなら、それでいいのよ。自分の出した結論に従って、それでよかったと思えるように生きていきなさいね」
 と言った。
「武田のおばさん」には、いつも、ゆとりとか豊かさが感じられた。だけど、それはいわゆる「お金持ちの奥さん」とは、ちょっとちがう雰囲気だった。まだ主婦の大半が、夫の出世と子供の受験だけを見つめて生きていたあの時代に、もっと広いおとなの世界を知っているような感じがした。

「あの人『茶人』だからね」
 あるとき母が言った。
「『茶人』って、なに? 」
「茶道をやってる人のことよ。武田さん、若いときから、ずっとお茶習っていたんだって。先生の看板を持ってるらしいよ。やっぱり、どこかちがうもの。私は一目見て、この人はタダモノじゃないとピンと来た」
「ふぅーん・・・」
 茶道なんて、よその世界のことだった。「シャカシャカ」と泡を立て、なぜかお茶碗を回してから飲むらしい。
「武田のおばさん」の何とも言えない身ぎれいさや、ものに動じない人柄が、「茶道」とどう関係あるのかはわからなかった。でもその時、初めて耳にした「茶人」という言葉の凛とした響きが耳の底に残った。

 後略

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。