民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「日日是好日」 まえがき その4 森下 典子 

2016年05月11日 00時03分50秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 まえがき その4

 もちろん、お茶を習っていなくたって、私たちは、段階的に目覚めを経験していく。たとえば、父親になった男性が、
「おやじが昔、お前にもいつかわかる、と言ってたけど、自分が子どもを持ってみて、あぁ、こういうことだったのかとわかりました」
 などと口にする。
「病気をきっかけに、身のまわりの何でもないありふれたことが、ものすごく愛おしく感じられるようになった」
 という人もいる。
 人は時間の流れの中で目を開き、自分の成長を折々に発見していくのだ。
 だけど、余分なものを削ぎ落とし、「自分では見えない自分の成長」を実感させてくれるのが「お茶」だ。最初は自分が何をしているのかさっぱりわけがわからない。ある日を境に突然、視野が広がるところが、人生と重なるのだ。
 すぐにはわからない代わりに、小さなコップ、大きなコップ、特大のコップの水があふれ、世界が広がる瞬間の醍醐味を、何度も何度も味あわせてくれる。

 40歳を少し過ぎ、お茶を始めて20年以上たったころから、私は友達に「お茶」のことをしゃべるようになった。すると友達は、
「えっ! お茶って、そういうものなの? 」
と、ものすごく意外な顔をした。その反応に、私の方が驚いた。多くの人は、お茶というのは、お金のかかる風流人の遊びらしい」と想像するだけで、それをするとどんなことを感じるものなのか、ということなど全く知らされていない。私自身、少し前までそうだったのに、そのことをすっかり忘れていた。
 その時から、いつか「お茶」のことを書いてみたいを思うようになった。この25年の間に、先生の家の稽古場で感じた、たくさんの季節のこと、コップの水が、あふれる瞬間のこと。
 子どものころにはわからなかったフェリーニ監督の『道』に、今の私はとめどもなく涙を流す。理解しようと努力などしなくとも、胸えぐられる。人には、どんなにわかろうとあがいたところで、その時がくるまで、わからないものがあるのだ。しかし、わかってしまえば、それを覆い隠すことなどできない。
 お茶を習い始めた時、どんなに頑張っても、自分が何をやっているのか何一つ見当もつかなかった。けれど、25年の間に段階的に見えてきて、今はなぜ、そうするのかがおぼろげにわかる。
 生きにくい時代を生きる時、真っ暗闇の中で自信を失った時、お茶は教えてくれる。
「長い目で、今を生きろ」と。

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

「日日是好日」 まえがき その3 森下 典子 

2016年05月09日 00時02分13秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 まえがき その3

 毎年、4月の上旬にはちゃんと桜が満開になり、6月半ばごろから約束どおり雨が降り出す。そんな当たり前のことに、30歳近くなって気づき愕然とした。
 前は、季節には「暑い季節」と「寒い季節」の二種類しかなかった。それがどんどん細かくなっていった。春は、最初にぼけが咲き、梅、桃、それから桜が咲いた。葉桜になったころ、藤の房が香り、満開のつつじが終わると、空気がむっとし始め、梅雨のはしりの雨が降る。梅の実がふくらんで、水辺で菖蒲が咲き、紫陽花が咲いて、くりなしが甘く匂う。紫陽花が終わると、梅雨も上がって、「さくらんぼ」や「桃の実」が出回る。季節は折り重なるようにやってきて、空白というものがなかった。
「春夏秋冬」の四季は、古い暦では、24に分かれている。けれど、私にとってみれば実際は、お茶に通う毎週毎回がちがう季節だった。
 どしゃぶりの日だった。雨の音にひたすら聴き入っていると、突然、部屋が消えたような気がした。私はどしゃぶりの中にいた。雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、先生の家の庭木に降っていた。
(「生きてる」って、こういうことだったのか! )
 ザワザワと鳥肌が立った。

 お茶を続けているうち、そんな瞬間が、定期預金の満期のように時々やってきた。何か特別なことをしたわけではない。どこにでもある20代の人生を生き、平凡に30代を生き、40代を暮らしてきた。
 その間に、自分でも気づかないうにち、一滴一滴、コップに水がたまっていたのだ。コップがいっぱいになるまでは、なんの変化も起こらない。やがていっぱいになって、表面張力で盛り上がった水面に、ある日ある時、均衡をやぶる一滴が落ちる。そのとたん、一気に水がコップの縁を流れ落ちたのだ。

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

「日日是好日」 まえがき その2 森下 典子 

2016年05月07日 00時35分35秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 まえがき その2

 世の中には、「すぐわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の2種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものはフェリーニの『道』のように、何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。
「お茶」って、そういうものなのだ。
 20歳のとき、私は「お茶」をただの行儀作法としか思っていなかった。鋳型にはめられるようで、いい気持ちがしなかった。それに、やってもやっても、何をしているのかわからない。一つひとつのことがなかなか覚えられないのに、その日その時の気候や天気に合わせて、道具の組み合わせや手順が変化する。季節が変われば、部屋全体の大胆な模様替えが起こる。そういう茶室のサイクルを、何年も何年も、モヤモヤしながら体で繰り返した。
 すると、ある日突然、雨が生ぬるく匂い始めた。「あ、夕立が来る」と、思った。
 庭木を叩く雨粒が、今までとはちがう音に聞こえた。その直後、あたりにムウッと土の匂いがたちこめた。
 それまでは、雨は「空から落ちてくる水」でしかなく、匂いなどなかった。土の匂いもしなかった。私は、ガラス瓶の中から外を眺めているようなものだった。そのガラスの覆いが取れて、季節が「匂い」や「音」という五感にうったえ始めた。自分は、生まれた水辺の匂いを嗅ぎ分ける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

「日日是好日」 まえがき その1 森下 典子 

2016年05月05日 00時16分39秒 | 雑学知識
 「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)

 まえがき その1

 毎週土曜日の午後、私は歩いて10分ほどのところにある一軒の家に向かう。その家は古くて、入り口には大きなヤツデの鉢植えが置いてある。カラカラと戸を開けると、玄関のたたきには水が打ってあって、スーッと炭の匂いがする。庭の方からは、チョロチョロとかすかに水音が聞こえる。
 私は、庭に面した静かな部屋に入り、畳に坐って、お湯をわかし、お茶を点(た)て、それを飲む。ただそれだけを繰り返す。
 そんな週一回のお茶の稽古を、大学生のころから25年間続けてきた。
 今でもしょっちゅう手順を間違える。「なぜこんなことをするんだろう」と、わけのわからないことがいっぱいある。足がしびれる。作法はややこしい。いつまでやれば、すべてがすっきりわかるようになるのか、見当もつかない。
「ねえ、お茶って、何がおもしろいの? なんでそんなに長く続けているの? 」
 こう、友達から聞かれることがある。

 小学校5年生の時、親に連れられて、フェリーニ監督の『道』という映画を見た。貧しい旅芸人の話で、とにかく暗い。私はさっぱり意味がわからず、
「こんな映画のどこが名作なんだろう。ディズニーの方がよかったのに」
 と、思った。ところが、10年後、大学生になって、再び映画を見て衝撃を受けた。
「ジェルソミーナのテーマ」には聞き覚えがあった、内容は初めて見たも同然だった。
「 『道』って、こういう映画だったのか! 」
 胸をかきむしられて、映画館の暗闇で、ボロボロ泣いた。
 それから、私も恋をし、失恋の痛手を負った。仕事探しにつまづきながら、自分の居場所をさがし続けた。平凡ながらも10数年が過ぎた。30代半ばになって、また『道』を見た。
「あれ? こんなシーン、あったっけ? 」
 随所に、見えていなかったシーンや、聞こえていなかったセリフがいっぱいあった。無邪気なヒロイン、ジェルソミーナを演じるジュリエッタ・マシーナの迫真の演技に胸が張り裂けそうになった。自分が捨てた女の死を知って、夜の浜辺で身を震わせ慟哭する老いたザンパノは、もはやただの残酷な男ではなかった。「人間て悲しい」と思った。ダラダラと涙が止まらなかった。
 フェリーニの『道』は、見るたびに「別もの」になった。見るたびに深くなっていった。

 森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。

『五つ木の子守歌』 樽谷 浩子(主婦)

2016年05月03日 00時16分38秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 『五つ木の子守歌』 樽谷 浩子(主婦) P-12 

 若いころ、小学校で音楽を教えていたことがある。
 まだ専科教員の珍しかった昭和三十年代で、一くらす五十七、八名、一学年が六クラスという学年もある時代だった。力道山のプロレス中継に街頭テレビの前は人だかりがしていて、何軒かに一軒しかテレビはなかった。
 子どもたちにとって学校だけが情報源であり、まだ魅力のある場所でもあったらしい。
 そのため、音楽の時間になると、元気のいい足音がドタドタと木造の講堂の二階にある音楽室へ上がってきて、私の未熟な話に瞳を輝かせてくれた。ピアノに合わせて声も張りあげた。教科書だけでは足りなくて、ガリ刷りのプリントでも歌った。レコード大賞曲の『いつでも夢を』や『寒い朝』を、子どもたちは喜んだ。かっこよくスキーで滑るさまを想像しながら『白銀は招くよ』を歌った。カタカナ英語の『きよしこの夜』にも人気があった。
 そのころの歌の中に『五つ木の子守歌』があった。

 おどま盆ぎり盆ぎり 盆からさかやおらんど
 盆がはよ来りゃ はよもどる

 おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆(しゅ)
 よか衆 よか帯 よか着物(きもん)

 むかし、貧しい女の子が子守りをしながら歌っていた民謡らしいよと私が話すのを、子どもたちは神妙にきき入ってくれた。遊ぶこともままならず子守りをしなければならない同年配者へ対する、純粋な優しさだった。
 自分たちの貧しさに比べ、あの人たちは恵まれているんでいい帯しめていい着物を着てる、羨ましいなという気持ちを秘めてけなげに歌っているんだねと、子どもたちはよくわかっていた。

 おどんが打死(うっち)んだちゅうて 誰(だい)が泣いてくりょか
 裏の松山 蝉が泣く

 蝉じゃござせん 妹でござる
 妹泣くなよ 気にかかる

 おどんが打死んだば 道ばたいけろ
 通る人ごち 花あぎょう

 花はなんの花 つんつん椿
 水は天から もらい水

 歌は悲しさせつなさが感じられたようで、涙ぐむ女の子もあった。「ヤッホー」と雪山を滑る歌声とはちがって、どの子もしんみりと情感をこめた。民謡の心を汲み取ることのできる感性に、私も胸を熱くした。
 『ソーラン節』も『金比羅ふねふね』も『お江戸日本橋』も小学生の教科書にあったが、『五つ木の子守歌』はそれらと全く別の味わいを持っていた。
 だがそのとき、この歌が日本民謡には珍らしい三拍子であることを話したかどうか、その記憶はない。なぜこの曲だけ三拍子なのかのわけはわからないまま歳月は流れ、いつとはなしに忘れてしまっていた。

 長らく続けている地元の読書会で、先ごろ『龍秘御天歌』という本を読んだ。福岡県在住の作家、村田喜代子さんの小説だが、この本で思いがけないできごとを知り、記憶の底に沈んでいたいくつかの点が線ではっきりつながって、突然よみがえってきたのである。
 『龍秘御天歌』は、秀吉のころ慶長の役で日本に連行されてきた朝鮮の陶工たちの物語であった。
 九州のある山里に住みついた彼らは窯を開いて陶芸を生業にしていたが、その集落の長が亡くなったとき、葬儀を日本式で行うか朝鮮の風習を通すかでもめる。故人の老妻はどうしても朝鮮式でやりたいと言ってゆずらない。クニも名前も捨てさられ異国に住まわねばならなかったのだから、せめて葬儀だけはクニのしきたりで・・・老婆は奮闘する。
 その心情に圧倒され惹きこまれ私は一気に読み終えたが、その中には朝鮮の民謡がたくさん挿入されていた。メロディはわからないまま何度か声を出して読んでいると、ふしぎにそれらが『トラジ』のようになり『アリラン』風になっていったのである。
 その曲は、まぎれもない三拍子の曲なのであった。
 あっ・・・と思って、本棚を探した。
 もしかして・・・の思いがあったのだ。
 そして、その、もしかして・・・は、やはりそうだった・・・。
 中学生用の歌集『うたのいずみ』によると、「『五つ木の子守歌』は熊本県の奥深い五つ木の里で、慶長の役により捕らわれてきた人々が故国朝鮮をしのんで歌われてきたもの」の明記されていたのである。
 そうだったのか、そのせいで三拍子だったのか・・・。
 それで、もの悲しさが他の民謡にはない深さだったのか・・・。
 ハッとして「かんじん」という言葉を辞書で見ると、「勧進」などの他に「韓人・朝鮮人のこと」と出ていたのである。それなら、なおいっそう、この歌の心もわかってくる。
 若かったころ、私は、貧しい女の子が幸せな人を羨んで歌ったものと単純に思いこんでいて、細かく調べてみようとはしなかった。この歌がどんな生活や歴史的な背景の中から生まれてきたかが、まるでわかっていなかったのである。
 私たち世代は「秀吉の朝鮮征伐」と教えられただけで、そのかげにどんなことがあっていたかは、全く知らされずにいた。勝者の側だけの記述しか知る場がなかったのだろうが、昨今、ようやく歴史の隠されていた部分が少しずつ明るみに出て私たちの目に入るようになってきた。それがきっかけで、それまで点でしかなかったものが線ではっきりつながるのを知ったとき、心のうちはまことに複雑きわまりなくなるのである。
 あれから四十年近くたったが、私は、情感をこめて歌っていた当時の教え子たちに、自分の不勉強をあやまりたいと、心底、思っている。
                                  (「ふくやま文学」第十一号)