(続く2の後編で、弥生時代に画期があったという、この神社の本来の信仰のことに思いをめぐらせてみました)
天照大神高座神社の南、直線距離にして700m程しか離れていない位置で、こちらも山の中腹の絶景を望める地に鎮座する神社です。南北朝の初期に、楠木正成に従ったこの地の恩智左近が城を造ったとき、城から神社を見下ろしたのでは神のご加護が得られないとして、今のお旅所「天王の森」にあったのを、現在地に遷座しました。見事な長い石段も、元々はその時造られたよう。現在のものは新たに修築されたものですが、見上げても見下ろしても圧巻の光景で一見の価値ありです。
・旧鎮座地の「天王の森」
【発掘遺跡と恩智神社】
神社は、創建は雄略年間であり河内の国の御守護の為にお祀りされたと説明しますが、当社旧社地の「天王の森」を中心とした南北1.2km、東西1.0kmの範囲が、大阪府で最も早くから知られた、出土遺跡も多い弥生遺跡であるという発掘成果との関連性は留意すべきでしょう。その内、南北20m、東西50mの範囲は大阪府指定史跡になっています。大正6年の刳舟発見に始まり、昭和49年には縄文時代の遺物も発見されました。
・今は牛頭天王社が鎮座します
弥生土器は前期新段階から後期までありますが、最も多いのは中期のものです。この時期の遺物には、紀伊山地を原産地とする緑色片岩製の石包丁や、淀川水系粘板岩の石材破片、器体の外面にハケ目のめだつ大和や摂津的な畿内第二様式の甕、摂津の土器の胎土や施文の類似する壺もあり、他地域から搬入された事を示しているそうです。この遺跡は、さらに集落遺跡として古墳時代まで続きます。(なお、遺物の表現は「日本の神々-河内」によります)
・神社石段の入口
恩智神社と天照大神高座神社の中間の傾斜地から、大正10年と昭和24年に銅鐸が出土しています。二つの銅鐸の間は40mくらいしか離れておらず、谷川健一編「日本の神々 河内」で大和岩雄氏が、堀田啓一氏の゛これら二個の銅鐸は同一集団の所有になるものと考えられ、銅鐸を埋納したのは恩智弥生遺跡の中期ごろに生活していた人々との関係が深いだろう゛とのコメントを紹介されています。つまり、この神社は、弥生時代中期に最も盛大であった恩智遺跡の住民達の聖地であり祭祀場だったと、大和氏は断定されるのです。
・昭和の時代に石段を修築した記念の石碑があります
・途中まではこんもりしています
【神階・幣帛等】
「延喜式」神名帳では河内国高安郡の名神大社。「令義解」の神祀令相嘗祭条に、幣帛にあずかった神社として゛大倭、住吉、大神、穴師、恩智、意富(多)、葛木鴨、紀伊国日前神゛と、そうそうたる神社と共に名を連ねていました。神階は859年に従二位になっています。「新撰姓氏録」河内国神別に゛恩智神主。高御命の児。伊久魂命の後なり゛とあり、「令義解」でもこの恩智神主が恩智神社の神主である事が証せられるようです。
・ようやく拝殿前に辿り着きました。その他の奇麗で堂々たる社殿群の写真は次回に載せます
【ご祭神と゛元春日゛伝承】
ご祭神は、大御食津彦神・大御食津姫神。神社はそれぞれ天児屋根命の五世の孫と伊勢神宮外宮の豊受大神だとカッコ付で説明しています。元春日と称し、天児屋根命が春日大社へ移ったのでこの二神を祀ったとする伝承があるそうですが、棚橋利光氏の説のように、奈良春日社の大東家が恩智社家になったための伝承で、中世以降の当社の衰微をこうした伝承で挽回しようとしたもののようです。春日大社や枚岡神社などと結びつけて天児屋根命を祀るのは、藤原・中臣勢力にあやかるための後世の知恵であり、注目すべきは天照大神高座神社や住吉大社との関係だと、大和氏は断言されます。
・駐車場前に境内の配置図があります
今回はここまでといたしまして、続編で、弥生時代に画期があったという、この神社の本来の信仰のことに思いをめぐらせてみたいと思います。
(参考文献:恩智神社ご由緒、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和/河内」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」宇佐公康「古伝が語る古代史」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、谷日佐彦「事代主の伊豆建国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その他大元出版書籍)