摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

纏向(まきむく)遺跡と纏向古墳群 2(ホケノ山古墳) - 纏向を巡る年代論争と、九州東征勢力との関係 -

2019年09月07日 | 奈良・大和


山の辺の道シリーズはこれで最後です。という事で、少し長くなりました。タイトル写真は、箸墓とホケノ山古墳(というより國津神社の森)の遠景です。先の”纏向遺跡と纏向古墳群1”の記事では、巻向駅近辺にある各古墳の調査経緯をまとめました。

 

【纏向遺跡の桃の種】

2018年の、纏向遺跡で出土した桃の種の炭素14年代測定結果の発表に対しては、さっそく安本美典氏がツッコミを入れられています。ターゲットは、纏向学研究センターの寺沢薫氏です。

  1. 纏向の桃の種が庄内3式で135~230年と云うが、寺沢氏は 続く布留0式の箸墓古墳を270年以降としており、40年の空白が開く

  2. 寺沢氏が同じく庄内3式とするホケノ山古墳出土の2点の小枝資料は、橿原考古学研究所の炭素14年代測定法では約70%以上の確率で4世紀のモノとの結果が出ている。とにかく、全体的に説明の整合が取れていない。

  3. 炭素14年代測定法は、分析結果に対して較正という補正をする必要がある。日本産樹木の較正曲線も有るが、纏向の結果は国際較正曲線を用いている。後者の方が年代が古くでる。この事は、毎日新聞でも指摘されている。

  4. 弥生時代の高床式の大型建物は、神奈川県の森戸原や大阪府の池上曽根など、多数発掘されている。また桃の種も岡山県で22遺跡から13000個が出土。纏向遺跡が特別な存在ではない。

  5. 「魏志倭人伝」で記載され、そして時期も合う遺物の出土状況を見ると、圧倒的に福岡県が種類、数量とも多く、奈良県で優位なのは”朱”くらいである。

 

・纏向遺跡。こんな柱が並んでいます


 

弥生時代の日本には多数のクニがあり、纏向だけが特別ではないのは確かなのだと思います。ただ、たとえココが"狭義"のヤマタイ国でなくとも、最終的に大和が古代日本の中心になっていくのだし、大和の弥生時代の重要度は変わらないはずです。だた一方で、関西系の考古学の発表について、インパクトの強い(古い)結果の場合にだけマスコミを使って発表して、世論を掴んでしまおうとする傾向があるらしく、慎重に見ておいた方が良い気はします。邪馬台国九州説の人たちが目くじら立てるのはこのアタリの事のようです。

 

【纏向の大型建物の柱】

安本氏は上記の論考の中で、纏向の大型建物の柱穴と、出雲大社”金輪の造営図”との共通性に触れ、下記のような考えを述べられているのが注目されます。

”大国主の神は、統治権を皇孫に譲るまでは、かなり広い地域の天皇的存在だったのではないか。(中略)国譲りをするまで、出雲地方から大和の国にいたる広い地域(銅鐸の分布地域に重なるとみられる)の、支配的、主権的な存在であったことがうかがえる”

安本氏は、3世紀後半に邪馬台国が九州から大和に東征して以降は、おおむね記紀の通りに展開していくと考えておられます。

 

・丁度南方向には箸墓が有ります

 

【伝承の語る纏向遺跡】

東出雲伝承では、この纏向太田の地は、東出雲王家の分家、登美氏の支配地であり、モモソ姫が祭祀を行った宮殿としています。1回目の九州からの東征軍侵入の後に、一時平和が戻った時代の施設だと云います。或いはその祭祀イベントで、東征軍の争乱で大和を追われた、東国の関係豪族を迎えるの為の宿泊施設だった、との話もあります。実質的に支配したのが、登美氏の分家で、地名の由来となった大田氏、大田田根子だと、「出雲王国とヤマト政権」は云っています。上記の纏向遺跡や古墳群の考古学的成果にも触れながら2世紀末~3世紀始めの頃と想定しているようです。つまり、魏と交渉したヤマタイ国ではない、という事です。

 

【穴師兵主神社と他田坐天照御魂神社】

纏向遺跡の建物群の向きについて、元同志社大学教授の辰巳和弘氏は、東に直線を伸ばすと巻向山の主峰、斎槻岳に行きつき、反対側には最古の纏向石塚古墳が有る事に注目され、三者は一体のものだと考えられています。現地でもそれが確認できました。斎槻岳というと穴師坐兵主神社の旧鎮座地と現鎮座地、そして箸墓の後円部が一直線で並ぶという話も在りましたね。東出雲伝承では、この穴師兵主神社はアマ氏(海部氏、尾張氏の元)の天村雲命が建てたとしています。


・建物の並ぶおよそ東の方向に斎槻岳があります

 

この纏向遺跡からJRまほろば線の踏切を渡ってすぐに、この穴師坐兵主神社の参道入り口と思しき鳥居があります。この道をまっすぐ行けば神社への道につながります。


・穴師大明神の石碑もあります

 

一方、纏向遺跡から線路の反対、西側に他田坐天照御魂神社という小さな神社がひっそりと佇んでいます。天照御魂神社は、大和では有名な鏡作坐天照御魂神社が有りますし、わが摂津三島の茨木市に新屋坐天照御魂神社が3社あります。この天照御魂とは、アマ氏の始祖、天火明の事というのが有力のようです。各天照御魂社の神職の祖がほとんど天火明の子孫だというのがその理由の一つです。

 

・他田坐天照御魂神社

 

そして、先代旧事本記では、天火明は饒速日命と同じ人だとして、一般にも理解されています。さらに、九州から2回の東征を仕掛けて来た勢力の祖は、その饒速日命とされます。以上の情報を眺めていると、在来の登美氏、大田氏やアマ氏が、東征軍とアマ氏の始祖の共通性を元に協調・妥協を図り、三輪山でなく斎槻岳を遥拝する祭祀を形にしていった事が、個人的に感じられました。なお、伝承では元々の銅鐸信仰に対して、東征勢力の鏡信仰を祭祀に取り入れる事で妥協した、と説明されています。ただ、そうなると、箸墓と斎槻岳の関係はどうなのだろう?、となってきますね。。。

 

【ホケノ山古墳】

ホケノ山古墳は、形が纏向型前方後円墳なので、箸墓より古いと思われるのが定説なようです。それでも、やはり上記の小枝の分析結果が有ったり、小型丸底土器、ノカツギ(付ける竹棒にかぶせる部分)付の銅鏃や画文帯神獣鏡などの出土物の編年から、この古墳が邪馬台国の時代より新しい可能性を指摘する考古学者がおられる事も確かです。

(以上、伝承以外の参考文献:矢澤高太郎氏「天皇陵の謎」、谷川健一編「日本の神々 大和」、雑誌「邪馬台国」134.135,136号)


・ホケノ山古墳。後円部側から

 

【伝承の語るホケノ山古墳】

東出雲伝承では、一貫してこの古墳を、東征勢力に同行した姫巫女の墓だと主張しています。その御方は椿岸神社で亡くなり、この地に遷され埋葬されたらしいです。出土した木簡の炭素14年代測定法の結果をもとに245年の造成との調査結果が付記され、鏃や鏡は九州からの東征で持ってきたものだと説明しています。ただ築造年については、その姫巫女は大和から丹後、そして伊勢湾地域へと渡り歩いてお亡くなりになったとの説明なので、邪馬台国の時代より後で良いように個人的には感じました。


・ホケノ山古墳を側面から。左側が前方部

 


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