[ さくらいじんじゃ ]
堺市の泉北ニュータウンから少し外れた、昔ながらの風景の残る地域に鎮座しています。実家から車で山中の道を行けば結構近くなのですが、そんな場所に国宝になっている拝殿を持つ神社があると知り、帰ったタイミングでさっそく参拝しました。駐車場は50台分あるとの事でしたが、大きな駐車場は通常時は入れないようになっているようで、鳥居背後にある数台程度停めれるスペースを使う事になります。
【ご祭神・ご由緒】
現在のご祭神は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后が祀られますた、これは推古天皇5年(597年)に八幡宮を合祀した為と思われ、創建時期としては不明ながら、この地域に居住していた桜井朝臣がその先祖である武内宿禰を祀ったのが起源だと、一般には説明されるようです。
しかし、「日本の神々 和泉」で林利喜雄氏は、この辺り一帯の山々には日本最古で最大規模とされる古代須恵器窯跡~陶邑窯跡群~があり、当社はその技術を大陸から移入した百済系氏族桜井氏の祖神を祀ったものとみてよいであろう、とみられています。「延喜式」神名帳に載る式内社です。
国宝の拝殿
【国宝の拝殿】
鎌倉時代初期の建立とされる国宝の拝殿について、桁行五間、梁間三間の長方形で、一直線に伸びた棟瓦を始めすっきりした直線的な各部の仕上がりが、重厚で剛健な気風を表していると、林氏は表現されています。大きな形態上の特徴は、五間の間口の中央一間を馬道(土間のこと)として通り抜けにする割拝殿の形式を持っていることです。他にこの形式の古い建築で有名なのが石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿くらいで、起源は判然としないのですが、朝鮮家屋との類似性を指摘する声もあります。
二重虹梁蟇股式
側面の妻側の形式も特徴があり、柱上に梁間一杯の大虹梁を渡し、その上に背の低い蟇股を二つ置き、さらにその上に虹梁をかけてもう一つ背の高い蟇股を置くという、二重虹梁蟇股式の架構を施しています。奈良時代以来の古い形式であり、内部も化粧板を張らず屋根裏の構造が見えるようになっているようです。正面には板戸が取り付けられていますが、林氏はおそらく蔀戸(しとみど)がはめられていたと考えておられました。
馬道
【祭祀氏族】
桜井氏というと、蘇我稲目大臣の後裔氏族にもその名があり、どうも一般の祭神説はこちらに依ってるように見えますが、その本貫の地は富田林市の桜井です。しかし林氏によると当社の地の桜井氏はそれとは別で、「新撰姓氏録」右京諸蕃に゛桜井宿禰。坂上大宿禰と同祖。都賀直(阿知使主の子)四世の孫東人直の後なり゛とのる桜井氏であり、東漢(ヤマトノアヤ)氏の一族とされます。
東漢氏は、応神朝に渡来したと伝わる阿知使主、都加使主を祖とする渡来系氏族であり、大きくは漢(アヤ)氏ですが、東漢氏と西漢(カワチノアヤ)氏に分かれ、「坂上系図」には゛漢高祖皇帝゛の曾孫で゛阿智王゛、或いは゛霊帝゛の曾孫で始祖について゛阿智使主゛と記されます。渡来系の技術者と漢部を統括し、本拠地の大和国高市郡檜前を中心に隆盛しましたが、6世紀以降には書(文)、坂上、民などの多くの枝氏に分かれました。「東漢」などの氏名はこれらを合わせた総称ということのようです。
拝所と本殿
後漢の霊帝の曾孫とされる件については、「漢」の氏名にもとづき出自を二次的に中国王室に改変したものにすぎず、本来は朝鮮系渡来人とみられると、「古代日本氏族事典」には書かれています。出身地については、百済という説、加羅諸国中の安羅とする説がありますが、後者が有力なようです。東漢氏としては、秦氏と共に6世紀以降の大和政権による屯倉設置などにも重要な役割を果たしました。さらに7世紀には蘇我氏に接近していて、乙巳の変の際には蘇我蝦夷の身辺を警護したりしています。このあたりが、この地の桜井氏が東漢氏系なのか蘇我氏系なのかややこしくなっている所以なのでしょうか。
入母屋造のついた本殿
【陶邑窯跡群と須恵器】
陶邑窯跡群は日本列島における最古の須恵器用窯跡の一つで、堺市南部の和泉、大阪狭山市、岸和田市にまたがる列島最大の規模を持ちます。須恵器の焼成技術は5世紀に朝鮮半島南部から伝わったもので、それまでの野焼きだった土器に対して窯を使ってより高温で焼成することで、硬質で保水性に優れた焼き物が作られるようになりました。
須恵器の形式は全国的に斉一化がみられ、その生産においてヤマト王権が主導的役割をはたしていたと考えられます。この特徴により、陶邑の窯跡出土の須恵器を基準にした呼び方で、日本全国の須恵器の形式分類が行われ編年(時期による形態の変化の分類分け)表が作られています。例えば最初期の古段階は陶邑の「栂232号窯」を標識遺跡として、「TG232」のように略記された表記が考古学の文章では使われます。そのほか、高蔵寺なら「TK」、光明池なら「KM」です。
「日本書紀」には新羅王子天日矛がその従者として須恵器の工人を連れて来たと記されますが、その記述と関係すると思われる滋賀県竜王町や但馬地方には初期の須恵器は確認されていません。ということで、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられています。こうした須恵器のルーツから見ても、この地に居たのは東漢氏系の桜井氏だと思いたくなります。
戎社
【所蔵神宝】
「中村結鎮御頭次第」という古文書が残ります。これは、正平六年(1351年)から明治5年に至るまでの520年ものの間に年々書き継がれてきた宮座記録です。南北朝時代の公武勢力の荒廃と、神社を中心とした社会秩序を知ることが出来る類をみない貴重な史料であると、林氏はいいます。あと、応永十九年(1412年)の銘文がある石燈籠が有名で、大阪府の指定文化財となっています。
絵馬殿
【祭祀・神事】
毎年の10月5日に近い日曜日の当社秋祭で演じられる「上神谷のこおどり(鼓踊り)」は、国の無形民俗文化財に指定されています。鐘と太鼓の囃で踊る古典的な神事舞踊で、音頭取りの歌に合わせて、「ひめこ」(数十本の紙花)を背負った赤黒の鬼神二名と、三尺棒を持った赤黒の天狗二名を中心に、一文字笠紋付に締め太鼓を持った外踊十一名(太鼓打八名、鐘打一名、扇振一名、新発知一名)が踊ります。踊りがすむと参拝人が鬼神の背負う「ひめこ」を奪い合い、家の門にさして魔除けにするのが習わしになっています。
昔は鉢ヶ峯山法道寺の氏子が、当社同様に式内社であった国神社に奉納してきたこの踊りの起源は明らかでないようですが、鎌倉踊り、具足踊りなどが含まれているところから、かなり古い時代から伝わって来たと考えられると、林氏は書かれています。明治43年に国神社が合祀されて以降は当社で行われてきました。
(参考文献:境内掲示板HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)