[ たてつきいせき ]
こちら吉備・岡山に訪れる大きな動機となった重要遺跡です。古墳時代の前方後円墳や埴輪のルーツを語る時、必ずここ楯築遺跡とこの地域の特殊器台が取り上げられるような著名な地なので、訪問した時も複数の方々が入れ代わり立ち代わりで訪れて来られてました。この一帯は他に、王墓山古墳の地区や日畑赤井廃寺のある日畑赤井堂地区を含めた王墓の丘史跡公園として整備されていて、数十基の古墳が残されています。墳頂から吉備の中山が望めるくらい眺望もよく、周囲から目立つ場所だったろうと思われます。
墳丘への入口門
【楯築神社とご神体の「旋帯文石」】
今は「楯築遺跡」が正式名で、遺構としては「楯築墳丘墓」とも呼ばれ、古墳時代につながる弥生時代の墳丘墓として語られる遺跡ですが、「日本の神々 山陽」では、「楯築神社」として取り上げられています。ここには、いつの頃からか「西山宮」と呼ばれる神社があり、それがいつの間にか廃祇されてましたが、天和年間(1681~84年)に復興され、その時に「楯築神社」あるいは「楯築明神」と呼ばれるようになったようです。ただ、大正6年には鯉喰神社に合祀されて、「日本の神々」執筆時点でも正式には楯築神社は存在していませんでした。合祀の際に社殿は取り払われたようですが、有名な立石群の中に小さな祠が建てられています。そして、この中に御神体である「亀石」つまり「旋帯文石」が収められていました。
現在「亀石」は、コンクリート製の収蔵庫に収められています
「旋帯文石」は、正面と思われる部分に目、鼻、口らしい浅い線彫りが認められます。あたかも体全体を帯状の紐でしばったような形で、其の文様は弥生時代後期に見られる特殊器台とよばれる土器のものと極似していると見られます。現在は祠から専用の保管庫に移されて、一応狭い窓から拝見出来るようになっています。
旋帯文石。肉眼では暗いです
【ご祭神・ご由緒】
神社ですから、もちろんご祭神もおられたと想定されます。「都窪郡誌」(大正2年)は、吉備津彦命に従った片岡多計留命と記載されます。しかし、江戸時代の楯築神社の縁起「楯築山縁起」には、ご神体を゛白頂馬龍神石゛と記すもののご祭神の記載はなく、また江戸時代末期の地誌「備中誌」では吉備津彦命が温羅と戦った時にこの地の石を楯にした由緒を書くものの、こちらもご祭神は明記されていません。「都窪郡誌」でも、或いは本社はもと吉備津彦命の御楯となった山上の石を祭るとして、吉備津神社の五社七十二宇の中に「楯築神社 祭神山之石霊 式外之神社」とある事を載せていて、「日本の神々 山陽」で竹林栄一氏は、これらを考えあわせるとご祭神は明確でなく、石霊を祭神としていたと考えるのが妥当と考えておられました。
墳頂。石の祠はまだあります
ご由緒については、吉備津神社の記事でも記載しました、「吉備津彦命の鬼退治神話」で語られるものです。つまり、命が新山に籠った鬼神と戦うために、吉備中山(吉備津神社)に陣を置き、さらにここ片岡山に石楯を築いて戦いに備えたという旧跡に祀られたのが楯築神社です。
楯築神社跡地の石碑
【鎮座地、発掘成果】
墳丘としては、円丘部とその両側に長方形の突出部をもつ特異な形(双方中円墳)をしていましたが、昭和40年代の開発で突出部の大部分が破壊されていました。岡山大学考古学教室を中心に発掘調査が行われ、弥生時代後期、古墳時代前夜の墳丘墓である事が明らかにされたのは、昭和51年から同54年にかけてのことでした。
祠の裏
消滅した突出部を含む全長は約72mと推定され,同時期の墳丘墓では全国でも最大級の大きさを誇ると倉敷市は説明しています。埋葬施設は2基確認され、その内の主体となる方は長さ9メートルという巨大な墓壙を伴っていました。その内部は木槨を築いてそのなかに木棺が納められるという形態で、木槨の規模は長さ3.5メートル、幅1.5メートル。木棺は長さ2メートル。木棺内部からは、翡翠の勾玉1、碧玉の管玉27、メノウ製管玉1からなる首飾りと、鉄剣1のほか、数百の碧玉製管玉とガラスの小玉がまとめて置かれた状態で出土しました。また棺の底には朱が敷きつめられ、その量は32キロを越えました。その他、槨の上には部厚く円礫が積まれ、この堆積のなかから埋葬祭祀に使われたと思われる土製の人形、勾玉、管玉が壊された状態で発見され、殊にご神体と同じ文様を有する石が砕かれて出土した事が注目されたようです。また、墳頂における五個の巨大な立石が有名な光景ですが、「日本の神々」での写真を見ると相当に傾いている石もあり、近年の整備で戻されたと思われます。築造は2世紀末頃。
祠の真裏から
【特殊器台】
考古学、墳墓遺跡として見ると、やはり楯築墳丘墓は特殊器台や特殊壺と呼ばれる土器が出土している事で常に取り上げられます。このような資料はこの吉備地方からしか出土しない特別なもので、この後に古墳時代の到来を示す円筒埴輪或いは朝顔型埴輪のルーツとするのが今や定説となっています。特殊器台は筒形でアルファベットの大文字の「I」のように上端と下端が外側に広がるのが円筒埴輪と異なります。筒部にはタガ状の突帯がいくつかめぐり、その間には、上記「旋帯文石」とよく似た、弧帯文様や綾杉文、鋸歯文などが描かれ、三角形、巴形、長方形などの透かし孔があけられます。
こちらは西江遺跡の弧帯文付き特殊器台。古代吉備文化財センターの展示
続く時代となる古墳時代黎明期の箸墓古墳や西殿塚古墳などからは、この吉備地方と同じ様式の特殊壺や特殊器台が出土していて、吉備地方と大和がなんらかの繋がりがあったとする見方が今は有力です。ただ、箸墓古墳の円筒埴輪にはまだ弧帯文が残るものの、築造年代が下がるメスリ山古墳のものは弧帯文がなくなったり、透かし孔も画一的になるなど、変化・簡略化されていったとされています。こういった形式化や墳丘の規模・形式の階層化がされるようになった時期以降を古墳時代と呼んでいるのが現状です。それでもなかなか古墳時代への移行時期の定義は難しいそうですが・・・
給水塔から収蔵庫横まで方突部の一つがありました
【伝承】
考古学者でも前方後円墳の形状を壺に求める方がおられたようですが、東出雲王国伝承でもこの考えが説明されます。富士林雅樹氏は「出雲王国とヤマト王権」で、具体的に山東省の「沂南武氏墓」に描かれた3つの口を持つ壺を挙げ、そこに描かれた西王母と東王父の道教の思想が影響したと主張します。ずばり、3つの口を2つにしたのが楯築墳丘墓だというのです。実にシンプルですね。
反対側の方突部のあった側。さらにその先が住宅街にするため削られたよう
弥生時代後期の墳丘墓について、最近の考古学では近年に至るまでの発掘成果の積み重ねから、方丘墳(四角形墳墓)や円丘墳それぞれにおいて、だんだんと各方向への突部が大きくなっていく変遷が整理して捉えられるようになってるみたいで、いきなり壺形を元にしたとは考えられてないようです。同時代の形態の地域分布については、四隅突出型墳丘墓は日本海地域、前方後円型墳丘墓が瀬戸内海周囲の九州から近畿地域(双方中円墳はここに入る)、そして前方後方型墳丘墓が東海から関東と分布も明確にされてきています。出雲伝承の墳丘墓、古墳に関する説明は、なかなか今の考古学の考え方とは相容れない印象です。
右手の山が吉備の中山
(参考文献:倉敷市公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 山陽」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)