[ きびつじんじゃ ]
今回は畿内から出て、遠方の大神社です。古代にはヤマト王権と拮抗した勢力を持ったことを偲ばせる大前方後円墳も存在するかつての吉備国こと岡山県を訪れ、全国的にも有名な「吉備の中山」西の山裾にある当社に参拝しました。当社自身は「三備一宮」を称していますが、本来は備中一宮であり、東の裾にある備前一宮の吉備津彦神社と併せて二つの一宮があるということで、地域では大変重要な地です。「桃太郎」に通じるとされる地域の神話に関わる旧跡が周囲に散在していて、公の掲示物を拝見しても地域独自の古代史観が語られていて興味深かったです。
入口鳥居
【ご祭神・ご由緒】
大吉備津彦命が主神で、その異母弟である若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命等の一族の神々が祀られています。特に兄弟である二柱については、「古事記」「日本書紀」に概ね同様の出自が語られる有名な方々ですが、「日本の神々 山陽」で藤井駿氏は、この二書では多少違っているとポイントを書かれています。
入口鳥居前の矢置石
「日本書紀」によれば、孝霊天皇とその妃の倭国香媛の皇子として彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命)が生れ、そして別の妃絚某弟が稚武彦命(若日子建吉備津日子命)を生み、後の崇神天皇の御代に四道将軍の一人として当社ご祭神の大吉備津彦命が「西道(のちの山陽道)」に派遣されたとされます。一方の「古事記」は、孝霊天皇の記述のところで、大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命が、播磨国の氷河に張り出した丘の崎に、祭事の甕を据えて神を祀って、播磨を吉備国の入口とし、吉備国を平定したと書きますが、四道将軍の話ではこの吉備津兄弟の事は出てきません。
直ぐに登りになります
さらに「日本書紀」では、崇神紀六十年に出雲の神宝を出雲臣の先祖飯入根が天皇に奉る記事がありますが、そのあと飯入根を責めて殺した兄の出雲振根を今度は大吉備津彦命が誅するくだりが続き、ここから藤井氏は吉備津彦兄弟の勢力が一部は出雲までのびていたと考えられています。
北随神門
しかし、神社としての創建がいつ、だれによって行われたかについては、よくわからないようです。近世になって出来た神社の社伝は、仁徳天皇の時代に、吉備津彦命から五代の孫の加夜臣奈留美命が、吉備津彦命の御殿だった茅葺宮の後に社殿を建てて、初めて祖神を祀ったのが起源と語りますが、藤井氏は確実な史料の裏付けはないとしています。
さらに登ります。見えるのは授与所で、拝殿に隣接
【国宝の拝殿と本殿】
当社を有名にしている理由の一つに、「比翼入母屋造」とも「吉備津造」とも呼ばれる壮大な本殿があります。現在のものは室町時代初期に建築されたものですが、藤井氏はそれ以前の社殿の話から始められます。
平安時代の社殿の実態についてはまったくわからないようですが、現在の社殿の前、鎌倉時代の1200年前後に造営された社殿については記録が残っています。当時、東大寺再建の事業を進めていた東大寺勧進の俊乗房重源という人がいましたが、朝廷は造営料国として備前国を与えていました。重源は備前にいくつかの荘園を開発し、当社にも梵鐘を奉納して境内の神宮寺堂に結縁の寄進もしていました。また重源は、そのころ当社の神主職だった賀陽一族の出身で宋に渡って臨済禅を日本に伝えた栄西と親交があり、共に宋に渡った際、天竺様という新しい建築様式を持ち帰り、鎌倉期の東大寺伽藍再建の再興責任者として活躍した人でもあるのです。
拝殿内
藤井氏はこの天竺様が鎌倉初期に造営された当社社殿に採用されたと想像できると云います。その姿は、二条の局という女性が書いた「とはずがたり」という文章に記述されていて、一般にみられる神社のたたずまいでなく、几帳などが見えて、さながら都によくある宮さまの寝殿造の御殿のようだったと書かれています。また、この時に当時神社では珍しかった入母屋造の屋根を早くに採用したのは、先例の八坂神社や北野天満宮のように、当社が霊廟的性格(゛一品聖霊吉備津宮゛)があったためだと、「神社の本殿」で三浦正幸氏が述べられています。
本殿と拝殿。右側から登ってきて参拝した形です
その社殿は、南北朝の内乱の最中の1351年に焼失してしまいます。それで、北朝の後光厳天皇の意をうけた室町幕府三代将軍足利義満の命により再興の工事が始められました。工事開始の柱立の規式初めが1390年に行われ、1401年には本殿が完成。その後、檜皮葺にする改装が行われ、ご神体を遷す正遷宮の神事が行われたのは1425年の事でした。正遷宮は国をあげての大祭となり、社家のみならず備中の守護や守護代、国中からの武士や庶民も参列し、境内では芸能や興行が連日行われたようです。ここには、吉備氏の血縁的な守護神から、吉備地方の住民をすべて氏子とする総鎮守へと変わった姿がありました。
挿肘木
以上のように、当社社殿は室町幕府の権勢をかけて造られたもので、その技術は日本の建築技術の粋を傾けて出来上がった高度で新鮮にして華麗なものだと、藤井氏は説かれます。本殿は正面七間、側面八間。内部は内々陣の四周に幅一間の中陣と外陣をめぐらし、さらに中陣と外陣の間の正面に「朱の間」という礼拝空間を持つ大建築です。内々陣が狭義の本殿の役割を担う形です。大きな屋根は入母屋造を二つ前後に連結した形で、「比翼入母屋造」と呼ばれます。本殿前に妻入の拝殿が接続している事も特徴です。藤井氏はさらに注目すべきは、天竺様の特色である挿肘木の組物で本殿の軒を支えるなど、社殿のいたるところに重源が取り入れた天竺様の豪壮な手法が見られることであり、これらは鎌倉期本殿の天竺様の名残かもしれないと考えておられました。
どこから見ても綺麗です
【祭祀氏族、神階・幣帛等】
「吉備津宮略書記」によれば、古代から応永(1394-1428年)頃までにつねに三百家に及ぶ神官が当社に奉仕していました。そのうち、神主、大禰宜、祝師などの重職は賀陽氏が担いました。当社の神官として最も早く記録に現れ、「扶桑略記」896年の条に備中賀夜郡葦守郷(足守郷)に備前少目賀陽依藤などが見えます。足守郷は応神紀の゛葉田の葦守゛の故地です。平安時代末には吉備津宮付近に移住したと推定され、賀陽氏宗家の居所と推定される「伝賀陽氏館跡」が史跡として残ります。宗家は16世紀に絶家となり、一族も衰微しましたが、祝師など四家が江戸時代まで続きました。
文献で当社の名がはじめて見えるのは、平安時代の847年。従四位下という神階が初めて授けられた時です。その後神階は急速に登り、「延喜式」では名神大社に列せられます。平将門、藤原純友によるそれぞれの承平/天慶の乱では、乱の鎮静に神威があったとして、最高の神階である一品に進められたほどです。
本殿前
後白河法皇が平安時代末に流行した歌謡を集めた「梁塵秘抄」に、゛一品聖霊吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人、艮 みさきは恐ろしや゛という今様のうたが載っています。このように、平安末期の吉備津神社には本殿のほかに幾つかの摂社が有りましたが、その霊験は都の庶民のはやり歌に歌われるほどだったという事です。
廻廊
【吉備津彦命の鬼退治神話と桃太郎】
当社ご祭神の大吉備津彦命が、昔話の「桃太郎」のモデルだという話はよくテレビなどで取り上げられますが、そもそもその昔話とは別に、吉備地方で生まれた「吉備津彦命の鬼退治」という神話が存在し、遅くとも室町時代からこの地方の人々にとってなじみ深い神話だったことが確認できる、と先の藤井氏は上記の書に書かれています。
岩山宮鳥居と階段
垂仁天皇の御代、もと百済の王子だった一人の鬼神が吉備国に飛来し居城を備中の新山(総社市黒尾)にかまえました。鬼の名は「温羅(ウラ)」で、また「吉備冠者」とも呼ばれました。その鬼は暴虐のかぎりをつくすので、人々は朝廷に訴えますが、朝廷からの武将は敗戦を重ねます。そして切り札として、大吉備津彦命が派遣されるのです。
岩山宮
大吉備津彦命は当社のある吉備中山に本陣を置き、また西の片岡山に石楯(楯築墳丘墓とされる)を築いて温羅との戦いにのぞみます。最初は命の矢と温羅の矢が空中で衝突し、いずれも海に落ちます。これが岡山市高塚の「矢喰宮」の地です。それで命は二本の矢をつがえて同時に放ち、そのうちの1本が温羅の左目に命中。温羅の目からは多くの血が流れ、それが「血吸川」になったとされます。温羅は逃げるために雉(きじ)になり、さらに鯉となって血吸川に逃げますが、鵜になった命に遂につかまります。これが「鯉喰神社」の地です。命は温羅の首をはね、家来の犬飼武に命じて犬に食わせましたが、ドクロになっても温羅の首は吠え続けたといいます。
御竈殿は途中で曲った先
大吉備津彦命は吠え続けるドクロを吉備津宮のカマドの地下八尺に埋めましたが、それでも13年間止みませんでした。ある夜、命の夢に温羅が現れ、゛我が妻の阿曾郷の阿曾媛に命の釜殿の神饌を炊がしめよ。幸あれば豊かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴るだろう゛といい、これが当社の御竈殿が温羅の霊を祀る由緒で、有名な阿曽女(アゾメ。巫女さん)による「鳴釜神事」の起こりとなります。
御竈殿
この鬼退治神話は、後の室町時代に「桃太郎」説話が誕生すると、桃太郎の生まれは吉備津であり、桃太郎こそ大吉備津彦命をモデルにしたものという説が生じます。「桃太郎」は早くから全国的に普及し、各地に桃太郎の誕生地だとする地が出てきますが、藤井氏は命の鬼退治は桃太郎のそれにふさわしく、大吉備津彦命の部下に犬養部(その子孫が犬飼氏で犬養毅の家がその宗家とする伝承もあり)がいたこともあり、当社がいち早く桃太郎説話と結びつけられたのは当然であったと述べられています。
御竈殿正面
【阿曾の鋳物師】
鳴釜神事を行う御釜殿の釜の鋳造は、当社から北西八キロの旧賀陽郡阿曾村(総社市西阿曾)に住む金屋(鋳物師)があたっていましたが、これは彼らの奉仕であると同時に名誉ある特権でした。御釜殿と阿曾の鋳物師との間には古くから親密な関係があっただろうと、藤井氏は想像されます。そもそも吉備は古代から砂鉄の産地として名高く、「延喜式」には、山陽道のうち美作と備中は調として鍬と鉄を納めることが規定されていました。
御竈殿への廻廊
阿曾の鋳物師と当社との関係を示す最初のものは当社所蔵の1520年の銘をもつ銅鐘で、「吉備津神社文書」によると、1525年に阿曾の鋳物師が毎年五升鍋を公事として当社に奉納しています。彼らはその代償として、当社の信仰範囲の吉備国内で、鍋、釜その他の金属器の生産と販売に古くから特権を保障されていたのです。藤井氏は、要するに、新山(阿曾村)の鬼神(温羅)ー阿曾の鋳物師ー阿曾女ー吉備津宮の釜殿の釜は一本の線上にあり、互いに因果関係に結ばれている事は確かである、とまとめられていました。
境内端の本宮社
【境内】
- 廻廊・・・本殿から続く長い廻廊は、長さ二百余間とされます。備中の有力な武士たちが戦国末期から近世のはじめごろ建立寄進し、継ぎ足していったものです。長さと美しさの点で当社を全国的に有名にしていると藤井氏は書かれます。この廻廊の途中に「御釜殿」があります。
- 矢置石・・・神社の正面の石段下にあります。大吉備津彦命と温羅の戦いの時に、命が矢を置いたとの事。正月三日に「矢立の神事」が行われます。旧記によれば、願主は桜羽矢または白羽の矢を献じ神官がその矢をこの岩に立てて祈祷する神事でした。いつしか中絶していたものを、昭和35年に岡山県弓道連盟の奉仕で復活して今に至るとの事。
- 本宮社・・・廻廊の南端にあり、当社創建の場所とされます。ご祭神は、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)、百田弓矢姫命、吉備武彦命、犬養健命、留タマ臣命、楽々森彦命のほか六神を配祇。
- 岩山社・・・かつて生石大明神ともいわれ巨石をご神体とします。建日方別命を祀りますが、藤井氏は、吉備の国魂神であろうか、と書かれます。
- 御陵・・・背後の山上に中山茶臼山古墳という巨大な前方後円墳があります。明治7年には宮内省の所管となって「大吉備津彦墓」との名が付きました。四国まで望める程の絶景だそうです。
廻廊の角
【伝承】
東出雲王国伝承では、キビツ兄弟と父フトニ王の吉備侵攻はハイライトの一つとも言える場面で、記紀や、さらに「播磨国風土記」の記載の元になったとされる話として語られます。「古事記」の簡潔な記載がそれをほのめかしていたのでしょうか。つまり、そもそも吉備や隣の播磨は、出雲王国の領地だったのが、「播磨国風土記」に書かれた伊和大神と客神(もともと但馬にいたヒボコ命の子孫勢力)との争いでヒボコ勢力に播磨を奪われます。それに対して、フトニ王とキビツ彦兄弟がヤマトから侵攻してきてヒボコ勢力を追い払いますが、その後あろうことか、吉備、さらに出雲まで攻めて来たとする話です。時期は2世紀の、丁度「倭国大乱」と言われた時期のこととの主張です。
ということは、そのうちの吉備での戦いが「吉備津彦の鬼退治神話」として語られてきて、その後の出雲への侵攻が伯耆の日野川水系に分布する「楽々福(ササフク)鬼退治信仰」(フトニ王の鬼退治)として、それぞれ別個に伝承されてきたという事になるのでしょうか。「日本の神々 山陰」で坂田友宏氏は、ササフク信仰は製鉄神信仰であり、弥生時代中期から交流のあった吉備津系信仰が伝わったとされていましたが、鬼はタタラ師だとして具体的な敵対の構図は説明されません。一方で、観光パンフレット「吉備路周遊マップ」には、鯉喰神社のご祭神の一柱が吉備津彦の臣下「楽々森(ササモリ)彦命」で、この神が鯉になって温羅を捕まえたという伝説が載っており興味深いです。
えびす宮
温羅の実体についての出雲伝承の見解は、温羅とはヒボコ(の子孫)勢力と、出雲王国をまとめて日本のウラ側と喩えた(富士林雅樹氏)もので、大和勢力からすると共に敵だったのでまとめて鬼にされたという説明です。鳴釜神事の釜戸神は元々出雲の信仰だったと書かれますが、阿曾の鋳物師の関係については特に記載がありません。なお、出雲伝承でのヒボコは、新羅でなくその前の辰韓の王子だったという事ですが、それがなぜ百済になったかというと、壬申の乱の後に新山(総社市黒尾)に造られた鬼ノ城が百済からの亡命者たちに築かれた事が後に混同されたという、これは一般にも語られる説明をしています。
駐車場の犬養毅像
キビツ兄弟の出雲侵攻は王国に相当に打撃を与えたらしく、それが「古事記」で大国主命が八十神に痛めつけられた話に変えられたと伝承は云います。そして東西の二国体制だった出雲王国は和睦する事を決め、青銅の一部をインゴットにしてキビツ軍に差し出し、大切にしていた358本の銅剣や多くの銅鐸などを荒神谷と加茂岩倉に埋めて隠したらしいです。一方で、丁度この時期に、九州東征勢力が熊野から大和に入っていたため、フトニ王は大和に戻ることができずに伯耆で亡くなり、だから大山の西北側に孝霊山があるということです。
なお、岡山県の上記パンフレットなどでは、温羅は3~4世紀に渡来した朝鮮半島の技術者集団の長だったと考えられており、近畿のヤマト朝廷にとっては脅威だったに違いない、とかなり断定的に説明されていました。また某史跡では、「日本書紀」での都怒我阿羅斯等になぞらえるガイドさんの説明も小耳に挟みました。地元ではこのような出雲伝承とは異なる説明をしているという事で、結構、地域独自の主張をされている事に興味をもちました。
吉備の中山
(参考文献:吉備津神社公式HP、観光パンフレット「吉備路周遊マップ」、各史跡掲示説明、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 山陽」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)