この10月6日から始まった、今城塚古代歴史館と、しろあと歴史館の合同特別展、「藤原鎌足と阿武山古墳」展。今城塚では、鎌足の活躍した宮都を中心とした遺跡の出土品を展示、一方のしろあと館では、摂津三島の社寺に伝来した鎌足の肖像画や木像の資料から鎌足にまつわる信仰や伝承を紹介する、という分担になっています。
今回は今城塚歴史博物館の方のロビーに展示された、阿武山古墳の発掘・調査状況写真の事を取り上げます。10月6日に学芸員さんによる説明会もあったらしいです。
昭和9年(1934年)に、阿武山中腹にある京都大学地震観測所(上の写真)で、機器設置の為に掘削をしていて偶然見つかりました。当時から多量の金糸や玉の枕が確認され、「貴人の墓」と注目されたものの、観測所と管轄するはずの大阪府で相当モメたらしく、皇室とつながる人物であるとの配慮もあり、十分な調査ができる状況になくなり、残念ながら一切が埋め戻されました。
およそ半世紀後の昭和57年になって、突如その観測所内から、行方知れず(いい加減!?)だったX線写真やガラス乾板など当時の写真類が見つかりました。この写真の調査によって、現在この墓が、多武峰の談山神社に改葬されたとの伝えもあった藤原鎌足の墓として有力視されることになります。発掘時は十分な調査が出来なかったとはいえ、遺体の詳細はX線写真を撮影していたとは、先見の明がありましたね。
今回、高槻市政75年を迎えるにあたり、京都大学を始めとする関係機関と協議を重ねられ、写真展という形で公開されたそうです。
展示は既に終了しています。京大の研究資源アーカイブのページで公開されていますので、リンクをしておきます。また、今城塚古代歴史館より、この時の写真集が刊行されています。郵送もしてくれるようです。
今城塚古代歴史館資料集2 『阿武山古墳調査写真集 -昭和9年の記憶-』
京都大学地震観測所より大阪市内を望む
大元出版の東出雲王国伝承のよると、この藤原鎌足は"出雲系"の家系の人と説明しています。元の姓は中臣。普通ならナカオミです。こだわってナカトミと自称したと推測されます。東出雲王家の富氏(別名向氏)への意識が有ったらしいです。更に前の姓は、卜部です。出雲から大和に移住した、富氏の分家の登美氏(この子孫が鴨氏、三輪氏)には、確かに武瓮槌(タケミカヅチ)という名の人がいます。登美氏の血筋は大和で大王となってるので、敬意を感じていたようです。それは、富氏の”国譲り後”の宮殿であった熊野大社の本殿と、鹿島神宮の本殿が同じ形である事にも表れている、と云います(「事代主の伊豆建国」)。
丁度この8月に、この京大地震観測所で小学生向けのペットボトル地震計の制作イベントがあり、子供と訪れていました。本当に山の頂上近くまで車で登りましたね。現在は、昔の地震観測設備が展示してあるだけで、ボランティアの方々が定期的に説明会などを開催されてるようです。