鹿島神宮を参拝したらやはり香取神宮を参拝しないと、片参りみたくなってしまうとの思いで、参拝させていただきました。鹿島神宮の時と同じく、東京駅八重洲南口からの関鉄の高速バスで門前まで直行で快適でしたが、その帰りの1本ある便は少し時間が空きすぎるので、帰りは門前の商店街入口からタクシー(呼び出し電話番号も掲示されたタクシー乗り場があります)に乗り、JR佐原駅(伊能忠敬が住んでいた地)まで行って、千葉交通の高速バスで東京駅まで戻りました。祝日の土曜日で、駐車場待ちの車の列も出来ており、参拝者は多かったです。さすがに鹿島神宮と共に現在の天皇勅祭社16社にも含まれる有名神社で、少し離れた場所にある奥宮や゛香取版゛要石などスポットも多く、参道や境内では良い空気を味わえました。
なつかしい感じの門前の商店街
【ご祭神・ご由緒】
当社は今もご祭神を、経津主大神(フツヌシノオオカミ)、又の御名伊波比主命(イワヒヌシノミコト)と説明されます。言わずと知れた、「日本書紀」の天孫降臨の条で、鹿島神宮のご祭神・武甕槌命と共に、出雲の国譲りを成就させた建国の神様です。この香取の神は、「続日本紀」「文徳実録」「延喜式」では伊波比主命と書かれますが、「古語拾遺」は経津主神だと書くので、前記の通り二つのお名前が併記されるようです。
大きな灯篭がならぶ表参道
「日本の神々 関東」で大和岩雄氏は、なぜこのように二つの名前が書かれるのかに注目し、特に「古語拾遺」が「フツヌシ」だと書くのは、本来の祭祀氏族が物部系だったからだろうと考えられます。つまり、藤原氏の息のかかった「続日本紀」「文徳実録」「延喜式」などの正史や、春日祭祝詞で「イワヒヌシ」とするのは、そもそも物部氏の氏の神「フツヌシ」が大和の石上神宮の祭神なのだから、同一国内の春日大社で藤原(中臣)氏がまつる氏の神を同じにしたくなかったからだと、大和氏は考えられます。このために、藤原・中臣氏への弾劾の書である「古語拾遺」が「フツヌシ」と書き、物部氏の家記「先代旧事本紀」も゛経津主神、今下総国香取に坐す大神、是也゛と書くのです。
二の鳥居
【鎮座地から見た祭祀氏族】
「続日本後紀」の835年に、゛下総国の人、陸奥鎮守将軍外従五位下勲六等物部匝瑳連熊猪、連を改めて宿禰を賜う。昔、物部小事連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。この功勲に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を立て、よりて以て氏となすことを得しむ゛とあります。匝瑳郡は香取郡の東南に隣接していました。
「旧事本紀」の天孫本紀に、宇摩志麻遅命の十二世の孫の物部木蓮子(キタミ)連の弟、物部小事連について、゛志陀連、柴垣連、田井連らの祖゛とあり、そのうちの゛志陀連゛を大和氏は「信太連」とみます。香取郡の西北にはかつて常陸国信太郡があり、「常陸国風土記」によれば、653年に物部河内と物部会津が請願して、筑波国造と茨城国造の土地を割いて建てたものです。
総門
以上のように、物部小事を祖とする物部匝瑳連の匝瑳郡と、物部信太連の信太郡にはさまれて香取郡があることから、香取神宮が物部氏に関わる事は否定できないと、大和氏は断定されています。当社の摂社に匝瑳神社が有りますが、鎌倉時代の書などによると、この造り替えは匝瑳郡の役だったと伝えられ、やはり香取と物部小事の関係を証するものと見られます。
香取連は大禰宜を世襲する氏族で、大宮司の大中臣氏と婚姻関係を持ったため、物部氏と一線を画して始祖を饒速日命ではなく経津主神としています。しかし、香取連五十島が匝瑳郡に居住したことなどを見ると、香取連は物部小事を祖とする物部匝瑳、物部信太連と同様に、物部香取連といってよいという事です。
重要文化財の楼門
この日は楼門の外まで参拝者の列が並びました
【タカミカヅチとフツヌシ】
「日本書紀」では、神武天皇即位前紀で、武甕雷神が韴霊(フツノミタマ)を高倉下に渡す話があり、タケミカヅチとフツノミタマの伝承となっていますが、大和氏によれば、本来はフツヌシとフツノミタマの伝承だったとみられます。「日本書紀」の本文では、高皇産霊神が葦原中国に遣わす神を選んだ時、選ばれたのは経津主神でしたが、武甕雷神が自身を売り込んできたので、゛経津主神に配えて゛派遣したと書かれています。高天原の司令神については、「古事記」「日本書紀」本文、各一書は、A:高皇産霊尊、B:高皇産霊尊と天照大神、C:天照大神、の三つのタイプに分かれ、A→B→Cの順序で改作されたと見るのが定説(「日本の神々」執筆当時)のようですが、この事は経津主神と武甕雷神にもいえると、大和氏は考えられます。一書の一の天照大神が登場する場合は武甕雷神が先にかかれるので、これが最も新しく、本文の書き方が最も古いとみられます。最初の形は、多分経津主神一神だったと思われ、「古事記」の経津主神が欠落した話はさらに新しそう、ということです。
境内
つまり、フツヌシからタケミカヅチに変えたのは、この神話を物部氏ではなく藤原(中臣)氏のものにする為であり、具体的には石上神宮ではなく、鹿島・香取両神宮の伝承にしたかったと見られます。この正史の調整に対する実際の適用上に起こった抵抗が、上記した「古語拾遺」の記述だったのです。さらに、「旧事本紀」の陰陽本紀にいたっては、゛武甕槌之男神亦の名建布都神。亦の名豊布都神。今常陸国の鹿島に坐す大神。即ち石上布都大神、是也゛と、正史と違う事を堂々と主張している事もその流れだと捉えられます。これらは、他氏の氏神を自家のものとするために春日へ移した藤原・中臣氏のやり方への、強烈な批判が込められていたとみるべきで、香取の神は主に物部氏が祀っていた神であることは、物部小事を祖とする香取連が大禰宜を務めた事からも証されるということです。大和氏は明記はされていませんが、以上論考をみると゛出雲の国譲り゛を実際に達成したのは経津主大神だとする伝承が、記紀の制作時点に存在し認識していた、ということになります(梅原猛氏も「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」で、この説の可能性に触れられていたことを、伊和神社の記事で触れました)。
拝殿
庇や長押の装飾が細かく鮮やかでした
【斎主(イワイヌシ)としての香取神】
「日本書紀」の神武天皇即位前紀に、天香山の土で「厳瓮(イツヘ)」をつくって丹生の川上で祭祀を行う話がありますが、その時道臣に、゛今、高皇産霊尊を以て、朕親ら顕斎を作さむ。汝を以て斎主(イワヒヌシ)として、授るに厳媛(イツヒメ)の号をもってせむ゛と勅します。「斎主」に「厳媛」の名を与えるのは、「斎主」とは本来はヒメだったからだと、大和氏は考えます。さらに、「厳瓮」とは「斎瓮」のことであり、「甕(ミカ)」なのであり、鹿島の神がそもそも「甕神」の性格を持つとします(これについては鹿島神宮の記事で触れました)。つまり鹿島の「甕神」と、それを祀る香取の「斎主(イワヒヌシ)」の関係は、上記の神武天皇譚の厳瓮と斎主の関係と重なるというのです。
本殿。重要文化財です
鹿島神宮は、香取神宮の丑寅の方位に、丁度45度の正確な関係で位置しますが、これは偶然の一致ではなく、意図的だと推測されます。この両神社の位置設定からみて、鹿島神宮と香取神宮は、祀られる神と祀る斎主との関係だと見ることができます。大和氏はここからさらに論を進められて、天皇家の伊勢神宮の内宮・外宮の関係のように、鹿島神宮と香取神宮をそれぞれ内宮と外宮というペアととらえ、鹿島の神をまつる斎主を神にして藤原(中臣)氏の氏神にしたと考えられます。つまり、わが国の神祇政策を掌握した中臣氏はそのシンボルとして、皇室の氏神伊勢内宮・外宮と、それに対応するものとして藤原・中臣氏の氏神鹿島・香取を、神祇政策に合わせて整備していったということです。
【「香取」の意味と海夫】
香取は、「檝取」とも書かれるように、船の「揖取(かじとり)」の事です。「万葉集」の歌でも香取のかかる枕詞に「大船の」が付けられています(゛大船の香取の海にいかり下ろし、いかなる人か物思はざらむ゛)。香取神宮は中世、常陸・下総両国の浦々の海夫から「海夫注文」と称して供祭料を徴収していたそうです。これは地頭が徴収し、しかも大宮司の大中臣氏に納めるのではなく、香取連系の大禰宜家に納められているので、古くからの習慣であったとみられます。このように香取神宮は、内海沿岸の海人(揖取)たちが祀っていた神社だったのです。
御神木
「カシマ」は港であり、同じ海でも外界へ出て蝦夷地へむかう船の航海の安全と武運の長久とを祈る神であるのに対し、その鹿島神宮周辺の海人たちを支配していたのが香取神宮の役割でした。だから、内海の住民達(カジトリたち)の神は、内海の人々が太平洋に船出する時には、外海に霊威を持つ神に祈る事になるのです。それが香取と鹿島の関係だというのが大和氏のお考えでした。
匝瑳神社
かつて宮井義雄氏が、「海夫はおそらく上代の海部だろう」と考えておられ、大和氏も基本的に賛成されますが、一方、その宮井氏による海部が物部氏と結びつかないとして香取神宮と物部氏の関係を否定する説には、上記の論考のとおり賛成されません。さらに、「旧事本紀」の天孫本紀にある゛天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 亦名天火明命゛の表現から、物部氏の始祖饒速日命は尾張連の始祖である天火明命であり、尾張系に凡海連、大海部直、海部直、但馬海直など「海」を名乗る氏族が多い事も考え合わせると、海部(尾張連)は物部氏と関係があり、両者は組んで東国へ進出したと考えられていました。
鹿島新宮
【社殿、境内】
当社の本殿は、鹿島神宮の本殿と同様に、かつては20年毎に造替されていました。現在の本殿、楼門、神楽殿は1700年に徳川綱吉によって造営されたもので、本殿は国の重要文化財となっています。檜皮葺、黒漆塗で、その為に極彩色の長押が鮮やかでした。
奥宮の入口。境内から出て、旧参道を歩いてすぐです
【祭祀・神事】
十二年に一度行われる神幸祭が有名です。このお祭りでは、神輿が船に乗せられ、津宮の鳥居河岸から利根川をさかのぼり、佐原の町に上陸し、御旅所に一泊して、翌日、陸路で神宮に戻ります。利根川を第一摂社のある側高神社へは向かわず、大戸神社のある方向に向かう事に、大和岩雄氏は、鹿島・香取神宮との位置関係や多氏との関係を推測の上、もともと香取神宮がその大戸神社の地にあったからではないかと考えられていました。つまり、大戸神社の地から夏至の日の出方向に鹿島神宮があったのが、その大戸神社の真東で鹿島神宮が丑寅の方向になる地に香取神宮が移ったのであり、それは中臣氏による陰陽五行説の方位観にもとづいたのではないかということが考えられるようです。
神々しい奥宮の参道
伊勢神宮の古材による神明造の社殿。ご祭神は経津主大神の荒魂
【伝承】
かねてから春日大社のご祭神に、なぜ石上神宮の経津主神が祀られてるのかしら、と何となく思っていました。春日神宮の武甕槌命は鹿に乗って来られた話は常にされて有名なのに、経津主神の事が語られる事はありません。古代史の事を知るようになると、「フツ」とくれば「フツノミタマ」を祀る石上神宮や物部氏との関係が一般的にも想起されますし、東出雲王国伝承を前提とすれば「フツ」の語源も含めて明確に物部氏です。大和氏の論考は(持論もあるでしょうが)、鹿島神宮も含めた藤原・中臣氏による神祇体系の変更の経緯を整理されていて、実に勉強になりました。また、「古語拾遺」についてはよく知られていますが、「旧事本紀」についても平安時代に現れたのが同様な理由によるだろう事に合点がいきました。出雲伝承が主張していた藤原・中臣氏による国譲りの成果の横取り説は、大和氏が上記の通り根拠をたてて主張されたように、相当以前から存在していたということです。
香取神宮の要石
(参考文献:香取神宮公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 関東」、三浦正幸「神社の本殿」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)