[ こうらじんじゃ / うちあげじんじゃ ]
打上団地のコインパーキングに車を停めて、団地の敷地の間の小路を上に上に昇っていくと、見晴らしの良い打上展望台と当社の鳥居前にたどり着きます。少し迷いましたが、途中にある高良神社の表示の方向に少し歩いてすぐの、上り階段を登って行けば良いです。明治時代の初めに正式名称が打上神社になっていますが、昭和15年の石標には高良神社の名が刻まれて、地元の方々の強い信仰を感じます。
建立年は、皇紀2600年だとされた昭和15年。
【ご祭神・ご由緒】
「日本の神々 河内」で河尻正氏は、ご祭神を武内宿禰と書かれていますが、そのご祭神にまつわる由緒などは書かれていません。以下に記載した当地に関わるとされる氏族を見ても、あまり武内宿禰と関わりそうな感じがしません。という事で気になるので、当社と同名で重要な神社である、九州の高良大社について見てみました。
背の低い二の鳥居
【高良大社の高良玉垂命とその創祇】
福岡県久留米市にある高良大社は九州屈指の名社で、宇佐神宮、石清水八幡宮では別格の取り扱いを受けている、と「日本の神々 九州」に山中耕作氏が書かれています。以下、山中氏のご説明を元に、久留米市の高良大社のご祭神・高良玉垂命とその信仰の変遷をまとめます。
多分に漏れず創祀には不明な点が多いですが、高良山には三カ所の霊地があります。一つは水分神社で、別所の清水とも呼ばれ、奥宮とされます。二つ目は神籠石(馬蹄石)で、山腹の古代山城の列石内にあります。三つ目が味水御井神社で、朝妻の泉と呼ばれ、池中に神体石があるそうです。これらはおそらく磐座で、本来の神格は、水分の神だったか、と山中氏は思案されます。
拝殿
続く手がかりは、「肥前風土記」の記載にあります。ここには、景行天皇の九州遠征にまつわる伝説が幾つかあり、その一つに、筑後国御井郡高羅行宮で国見をした記事があります。この「高羅」は高良山のことです。国見をする神・天皇は国見の物語を伝承する村人達のためには祖神であるといわれます。高良山周辺で先祖を皇族と結びつけ、景行天皇の子孫だと称していたのが、弥生時代から強力な勢力を奮ったとみられる水沼君でした。かれらは高良山に景行天皇を祀っていたと思われ、景行天皇と高良玉垂命とは、一つの神格の神と考えることが出来るようです。水沼君は五世紀中葉には県主となり大和王権に服属していたと、川路氏は書いています。
本殿。というか覆屋でしょうか?
【平安から中世の高良大社】
高良大社ご祭神の初見は平安初期で、795年に高良神に従五位下を授かる記録があります。そして、9世紀中葉には急速に神階が昇り、「筑後国神名帳」によれば、897年に正一位の極位を叙せられました。その理由としては、高良大社が景行天皇の由緒地であったこと、筑後の鎮守神であったことに加え、特異な仏教神と信じられていたためです。
そんな筑後鎮護の仏教神だった高良玉垂命ですが、9,10世紀になると九州の山間仏教や海神信仰が、次々と八幡信仰に変容していく流れにさらされます。さらに11世紀ごろには筑後に宇佐神宮領が進出し増加していく動きもありました。加えて、元々高良山周辺が朝鮮関係氏族が多い状況もあった事などから、ついに11世紀中葉に、八幡神の随伸のなかに組み入れられていったようです。
摂末社である護国社(左)と稲荷社
この当時に地元の高良山でまとめられた縁起「高良大菩薩御託宣文・高降寺縁起」には、誉田天皇(応神天皇)の時代に「健将」として北や東で活躍したというご祭神の言葉が記され、まぎれもなく八幡神に仕えた三韓服属の武神だと、山中氏は述べられます。さらに14世紀前半に成立したとされる、高良大社の根本縁起「高良玉垂宮縁起」になると、本社ご祭神が神功皇后の三韓親征に従軍する様が表現され、より具体的な内容の縁起となっており、高良大社のご祭神は八幡神輔弼(ほひつ)の神としての姿がより明確になったのです。
この当時は蒙古襲来のあとで、石清水八幡宮を中心に八幡信仰が熱狂的な高まりを見せた時だった事も影響したようです。この縁起は、「八幡愚童訓」とともに八幡信仰唱導の基本テキストとなって、高良大社のご祭神が八幡神輔弼の神として全国に神威を輝かすことになる、と山中氏はまとめられていました。ただ不思議に感じたのが、以上の経緯の中で、引用された縁起の内容や山中氏の説明に、「記紀」からの一般的な理解では当然と思われる「武内宿禰」の名前が出てこないことが気になりました。
神社境内
【鎮座地氏族】
「日本書紀」欽明天皇二十三年秋に、当地河内国更荒郡(サララノコオリ)に関わる記述があります。つまり、新羅は使いを遣わして調をたてまつりましたが、新羅が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いた事を恥じ、帰国を望まず、ついにとどまって帰りませんでした。日本人同様に遇され、これが河内国更荒郡鸕鷀野邑(ウノノサト)の新羅人の先祖である、というものです。
宇努(ウヌ)氏には、首姓、造姓、連姓がいて、新羅系とされるのが、宇野連です。「新撰姓氏録」では未定雑姓、河内国に、゛宇奴連新羅皇子金庭興之後也゛とあり、上記の「日本書紀」との関係が注目されると、佐伯有清氏編「日本古代氏族事典」に書かれています。一方、宇奴首、宇奴造は百済系の子孫です。「石清水文書」や「政事要略」には、720年の備前守宇奴首男人が将軍として宇佐大神を奉請して隼人の征討を行なったことが書かれています。
佐良々(サララ)氏は百済系渡来氏族です。「新撰姓氏録」の河内国諸蕃に゛佐良々連 出自百済国人久米都彦也゛とあるようです。天武天皇の683年に連姓を賜った十四氏の中に娑羅羅馬飼造がいますが、「日本霊異記」にみえる更荒郡馬甘里を本拠として馬飼部の伴造氏族と考えられていて、「日本古代氏族事典」では佐良々連氏の同族でなないか、とされています。
境内前からの石宝殿への道
九州の水沼君についても触れておきます。福岡県三潴郡三潴町あたり本拠とした地方豪族で、水間とも書きます。「先代旧事本紀」天孫本紀では、饒速日命十四世孫の物部阿遅古連公の後裔とされます。「日本書紀」に水間君が雄略天皇に養鳥人を献上した所伝が有り、三潴郡に鳥養郷があることから、水沼氏は鳥養部を貢進する豪族と考えられます。そして、物部氏が鳥養部や鳥取部を管掌する地位にあったので、物部氏の同族とされたとする説があります。「日本書紀」に見える水沼県主・水沼別との関係は不詳ですが、水沼君が大和王権に対する従属性が強い氏族と推測されるので、水沼君と水沼県主とは同一の氏であると考える事もできると、「日本古代氏族事典」で述べられています。6世紀初めまでに御塚古墳、権現塚古墳を営むほどに繁栄しましたが、その後は筑紫君に替わられていきました。
以上を見た限りでは、いずれの宇努(宇奴)氏もこの地域に関連したとすれば、やはり宇奴首男人の隼人征討が宇佐八幡とこの地域をつなぐ接点のように見えて、それで後に高良大社の゛八幡神輔弼の神゛の信仰が伝わり、より分かりやすく「武内宿禰」を当社のご祭神としたのか、との想像になります。つまり、古代から武内宿禰が祀られたという事はなさそうです。
歩くと直ぐに石宝殿古墳に着きます
【石宝殿古墳】
当社社域の雑木林の中に、横口式石槨がむき出しになった特異な外観で知られる石宝殿(いしのほうでん)古墳があります。7世紀中頃に築かれたとされる古墳で、横口式石槨の形式は南河内一帯では多く見られるものの、この北河内では唯一だと、久世仁人氏が「古市古墳群をあるく」の中で述べられています。そして、同じ形式の石槨は、奈良県明日香村にある有名な鬼の俎・鬼の雪隠や、斑鳩町の竜田御坊山3号墳しかないようです。江戸時代の「河内名所図会」でも触れられていて、古墳の傍らから白骨の入った金銅製の壺が掘り出されたと記されているそうです。
約2メートルの大石二個で羨道を形成し、玄室は入口巾55センチ、高さ75センチ程度の寸法です。その入口には扉を設けたと思われる精巧な加工跡があります。かつてこの主体部をとりまく石組みがあったことも分かっています。河尻氏は、「太秦」や「秦」などの地名が今も残るなど渡来系氏族の濃密なこの地域に、何の伝承も伴わずにこのような古墳が存在する事は、深い意味をもつように思われる、と「日本の神々」で述べられていました。また、「河内志」には、旧打上村に唐塚・呉塚なる古墳を含む「八十塚」という古墳群が存在していたと記されていたようです。
【伝承】
久留米の高良大社がご祭神を特定の人物神として語らないのは、東出雲王国伝承の説明と根が一致しているのかしら、と感じてしまいます。斎木雲州氏は、息長帯姫と共に新羅へ遠征したのは、実在した武内宿禰の子孫にあたる人物だと主張しています。その御方は元々九州の日向で生まれ育ち、その九州の地で息長帯姫と出会い、先祖の地・紀伊国や丹波の海部水軍から軍船を集めるなど協力したと説明しています(「出雲と蘇我王朝」)。しかし、その御方は「記紀」には登場するものの、古墳時代に子孫の氏族が滅亡したためか、あまり目立たないエピソードしか載っていないようです。もしかして、八幡神輔弼神の由緒が生成した当時は、出雲伝承のような話が九州では記憶されていて、それを当時中央政府と関係の深い宇佐神宮が地元の伝承との間のバランスを取らせて、ご祭神像を曖昧にして作り上げた由緒だったのかしら、などと想像しています。
正面から見て右側からの全体像。玄室は一つの岩です
その宇佐神宮の神職家の子孫、宇佐公康氏は「古伝が語る古代史」で、゛宇佐家の伝承によると、物部氏の原住地は筑紫平野で、高良神社(久留米の高良大社のこと)がその氏神であり、神武東遷以前にニギハヤヒノミコトは、その部族をひきいて大和へ移った゛と書かれています。さらに、移った時期は中期縄文時代だとしていて、出雲伝承に馴染んだ身にはどう捉えればよいのか難しいところです。高良大社が物部氏の氏神だというのは、もしかして水沼氏よりも物部氏が優越した立場だった事による説明の仕方では、とも想像されます。あるいは、そもそも水沼氏が弥生時代の(出雲伝承の云う)九州の物部王国系氏族の一つだったとすれば、景行天皇の子孫だと主張した事も含めて、なんとなく出雲伝承を合ってくるのでしょうか。上手く整理出来ませんが、今となっては寝屋川市にひっそりと鎮座する高良神社からいろんな話が繋がって来て、歴史ロマンに浸ることができました。
神社前から大阪平野を望む。左の方が大阪市内
(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)