国道166号線から県道31号線に入り、左右を山に挟まれた芳野川沿いを車で進むと、少しずつ人里離れた感が増していきましたが、10分も経たずに鳥居が見えて到着。中央車線はないものの道幅はあるので、快適に走る事が出来ます。宇陀水分三社の中では、雰囲気的に一番スピリチュアルで密やかな雰囲気が有り、小規模ではありますがさすがに著名神社だと思いました。
・紅葉の時期で奇麗でした。登る先が見えなくて神秘的です
【ご祭神・ご由緒】
天水分神、国水分神、天児屋根命、速秋津比古命、誉田別命をお祀りします。
社名の「惣社」は、文政十二年(1829年)に卜部家から与えられた宗源宣旨(中世末から近世にわたり京都吉田家(卜部家)から各神社に位階神号、神職に免許状を授与するときの辞令)に「惣社水分大明神」とあることによります。それ以前は、「中山水分神社」「中山神社」と呼ばれていました。また、当社所蔵の神宝である御供酒瓶子の貞和二年(1346年)銘から、更に以前は「芳野本水分宮」と呼ばれていたことがわかります。(古市場の宇陀水分神社上宮の記事でも関連する内容を記載しています)
【神階・幣帛等】
「新抄格勅符抄」に平城天皇の806年に神封一戸が奉られ、「続日本後記」では840年に従五位下、「三代実録」では859年に正五位下と神階が進められたことが記録されています。延喜の制では葛城、都祁、吉野の水分社と共に大社となり、祈雨神祭八十五座に加えられました。
・石段の途中には御神水が頂ける場所も
【歴史、比定】
「宇陀郡史料」所収の「水分社記」には、゛古市場古屋の内膳とに談じ、干時享徳元年(1452年)初て水分宮神祭遵行し神輿の渡御を始む゛とあるようですが、「日本の神々 大和」で小田基彦氏は、この年、古市場の宇陀水分神社との本末関係から、特殊な神幸式をはじめて行ったということではないか、と考えておられました。
当社を式内宇陀水分神社に比定させるべき、いろいろな方策がとられた形跡があると、小田氏は言われます。神宝の獅子頭と猿田彦の面に天平あるいは貞観の銘がありますが、ともに近世初期の制作としか考えられず、造営棟札にも天平八年(736年)と記したものが有ったようですが、これも信用されていません。
・二の鳥居
当社の社記には、以下の記載があるそうです。醍醐天皇の898年に当社より初めて古市場及び下井足に渡御があり、900年に当社のお旅所に小祠が建てられて当社の幸霊の神霊奉還鎮座式というものが行われ、さらに1169年、古市場、下井足にも当社の分霊を鎮座しました。その後、渡御神事は中絶、のちに古市場まで渡御が再興されたものの、これもやがて中絶。しかし1453年に再び古市場への渡御が復活し、今に至る、と言う内容です。小田氏はそのまま信用できなく参考だ、と添えておられます。(古市場の宇陀水分神社上宮の記事で、宇陀水分三社の関係の実際について記載しました)
・拝殿
【所蔵神宝】
一の鳥居が入ったらすぐに目に飛び込むのが、鳳凰を頂く南北朝時代の木造金銅装漆塗方輿(鳳輦みこし)の説明板です。国の重要文化財になっています。保存が良く建造当初の姿がよく残っていて、鳳凰も当初のもので全国でも類をみないものと説明されています。古市場の宇陀水分神社中社の秋祭りでは、この神輿を中心に時代行列を整え、当社から古市場まで渡御します。
・本殿。三間社流造。築造時期わかりませんが、明治以降でしょうか
また、境内の宇陀市教育委員会による説明板で紹介されるのが、黒漆瓶子(御供酒瓶子)一対です。神饌具として神前に供えられた酒器で、上記した貞和二年という北朝の年号が記されていて、数少ない中世漆器のなかで、南北朝時代の年号がある漆器の一つです。そして、胴部に「芳野本水分宮」とあり、由緒確かな現存最古の紀年銘瓶子だといえるようです。
・小さい境内ですが、とても良い雰囲気です
(参考文献:惣社水分神社境内掲示説明、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)