宇陀水分神社を自称する三社 ~宇陀水分神社中社(国宝の本殿を持つ)、当社、そして惣社水分神社~ のなかで、芳野川の最も下流に位置する神社です。古市場の宇陀水分神社中社の社記によると、当社は「田山の下の宮」とか「下の水分宮」とも称されていたようです。宇陀水分三社の中では、最も境内のスケールが大きく、高木がそびえる参道を歩くととても神々しい気持ちになりました。また、なかなかしっかりした紙質のリーフレットが置かれていたのも印象的です。
・参道前の二の鳥居と社叢。社殿がまだ遠いです
【ご祭神・ご由緒】
上宮とは微妙に異なり、天之水分神、国之水分神、天児屋根命、品陀和気命の四柱です。「水分由来集」では、水分の神が和州高水分山(高見山)より芳野中山(惣社水分神社)を経て西殿の上宮(中社)にとどまり、次いでこの地に来られた時、一夜のうちに田が隆起して岡となったので、田山と改めた、と当社の御由緒が語られます。(この解釈については、古市場の宇陀水分神社上宮の方の記事で記載しました)
【神階・幣帛等】
「新抄格勅符抄」に平城天皇の806年に神封一戸が奉られ、「続日本後記」では840年に従五位下、「三代実録」では859年に正五位下と神階が進められたことが記録されています。延喜の制では葛城、都祁、吉野の水分社と共に大社となり、祈雨神祭八十五座に加えられました。
・境内と拝殿
【歴史、比定】
式内宇太水分神社については、「大和志」では゛下井足村に在り、近隣十ケ村と相共に祭祀に預かる゛と書かれ、「大和名所図会」「神祇志料」「神社覈録」なども当社を式内社としています。本居宣長が「古事記伝」で当社を崇神紀の墨坂神との考えを述べていますが、現在は誤認だとされています。「宇陀郡史料」によると、明治9年に旧堺県令から式内宇太水分神社の確定書を与えられましたが、明治37年に内務省の調査によって古市場の水分社と共に式内社に確定されて、この昇格した年代が入口の石標に彫り込まれています。両社が現在もこの名を名乗るのは、この為でしょう。
現在は古市場の中社が中心で式内社とするのに穏当とされますが、その根拠や宇陀水分三社の経緯の一説は、古市場の宇陀水分神社上宮の記事で記載した通りです。なお、当社の掲示説明では、応保年間(1160年)頃より芳野川にそって三所三社(当社、古市場社、芳野社)に祀られている、と説明されています。
・神明造の本殿
【鎮座地、発掘遺跡】
芳野川が宇陀川と合流する地点の丘陵端上に、宇陀川を背に南面します。当社の東南の榛生松陽高校周辺の丘陵から上井足にかけては、約100基の円墳があり、特に高校周辺の約50基が丹切古墳群と呼ばれています。南西の芳野川西岸の丘陵にも約10基の円墳が確認されています。
・稲荷神社
【社殿、境内】
神社の掲示説明によると、明治時代の初め頃までは本殿を始め付属の建物は全て古い形式(春日造)でしたが、明治11年の神社形式令により県社の指定を受け、現在の神明造りになったようです。宇陀水分三社でそれぞれ本殿形式が異なるのが興味深いです。
・金比羅大権現
【神事】
当社のリーフレットには、神事や「お渡り式」の様子の写真が掲載されていて、現在も地域の人たちによって盛大にお祭りが行われている事が知れます。社殿前には立派な参集殿もあり、地域信仰の強さを感じました。
・本殿
(参考文献:宇陀水分神社下社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)