延喜式神名帳の紀伊国の筆頭に、「国前神社」「国懸神社」と2社として記載され、天岩戸伝説にも名が出てくる由緒ある神社です。今は同一境内に社殿が並び建っていて、実際には常に1社のように並称され、「ニチゼン神宮」とか、場所から「名草宮」などと呼ばれています。
・一の鳥居
この神社に関する最古の記録としては、「日本書紀」天武天皇朱鳥元年、686年に、国懸神に奉幣したと有ります。さらに持統6年、692年にも、持統帝が藤原京遷都のお伺いの為、伊勢、大倭、住吉と並んでこの紀伊大神(日前と思われる)に奉幣が行われたと有ります。他の3社がそうそうたる顔ぶれですので、国前・国懸神社がいかに重要な神社だったかが分かります。
・2つの社の行先表示も有ります
それでも、谷川健一編「日本の神々」で松前健氏は、わからない事が多いとして論考されています。まず、両宮の祭神は、天照大神とされてるだけで、区別がはっきりしていません。近世の「紀伊国名所図会」に、日前神社は御鏡、国懸神社は日矛を御正体とし、天照大神の前魂を祀るとしています。
・日前神宮
この祭神は「日本書紀」の神話に登場し、天照大神が天岩屋にこもった時、天照をかたどったものを造って神を招こうと、石凝姥が天香具山の金で日矛を造り、フイゴを使って日前の神を造ったと書かれています。ただ、後者が何か不明で、「古語拾遺」は、出来栄えの良い鏡が伊勢大神になり、悪い鏡が日前の神となった、と日矛がどこかに消えてしまってます。それに対して「先代旧事本紀」の方は、日矛は出来栄えの良くなかった鏡の事だ、などとしている有様で、やはりまだ曖昧です。
ただ、平安初期の宮中の内侍所に、天の御位の印として3枚の神鏡があり、その内の2枚が伊勢及びこの紀伊の大神の御霊代とみなされていた事が複数の記録に残されていて、日前・国懸の神を伊勢の神と同体視していた事は確認されます。その伊勢の天照大神と紀伊大神がいつ結びついたのかは、はっきりしません。
・国懸神宮
神社の鎮座については記紀に記載はなく、日前神社の記録によります。つまり、神武東征の際に、そこから分かれた紀伊国造の祖、天道根命が琴浦の海中の岩上に日前・国懸の神として二つの神宝を奉祭。次に、あの豊鋤入姫が名草浜宮に遷幸したときに、日前・国懸の両大神もそこに遷り、その後現在地に遷ったとされています。
松前健氏は、伊勢神宮と同様、元々はローカルな太陽神、アマテル、アマテルミタマであって、その後造られた伝承話を取り除くと、その太陽神を、天道根命が琴浦の海上の岩に祀ったという事が原形として残ると考えられています。その松前氏でも、日前と国懸に分かれている理由が分からなく、伊勢神宮とは祭祀の様式がまったく異なる事も気にされていました。
・天道根神社(日前神宮横)。初代国造天道根命がご祭神。
東出雲伝承を語る「出雲と大和のあけぼの」で斎木雲州氏が竈山神社の元社家の氏子さんにインタビューしたやり取りが載せられています。この方は、彦五瀬命直系の子孫だと言われます。それによると、五瀬命の敵は、アマ氏(尾張氏、海部氏の元)の子孫である高倉下のさらに子孫、珍彦(ウズヒコ)だったと述べています。高倉下は丹波から葛城に移り、さらに紀伊に移っていたのです。
「高倉下の子孫は、紀伊国造となりました。そして、日前神社を建てました。その紀伊家とうちの五瀬家は、近くに住んでいて豪族として婚姻関係が密になりました。五瀬家は日前神社の横に国懸神社を建て五瀬命をまつりました。ここの御霊代は、物部氏の象徴、日矛鏡です …」と氏子さんは語り続けたと記載されていました。
・中言神社(国懸神宮側)。名草姫命、名草彦命がご祭神。
なかひらまい氏「名草戸畔-古代紀國の女王伝説」では、この近隣となる名草地域の古社の神職家出身であり、終戦30年後までルバング島で潜伏されてたあの小野田寛郎さんによる地域伝承を元に、興味深い説明がされています。名草戸畔率いる名草勢力は九州東征勢力を追っ払ったのであり、だから皇軍は熊野に進路変更せざるを得なかったと云うのです。ここは、なかひら氏も書かれるように、出雲伝承と共通する説明です。
その後、大和王権が名草地域を支配しようとして建てられたのが日前神宮・國懸神宮なのです。しかし、負けてないのだから地域の人は従いません。それで、中央集権化の総督だった國懸は引き上げてしまいましたが、副総督の日前が調停・合意をしたそう。日前宮が紀氏だと小野田氏も述べられていたようです。そうなると、國懸が五瀬命を祀る九州東征勢力側だという出雲伝承の話とは、齟齬はなさそうです。
なかひら氏は上記の本で、今城塚歴史博物館の特別展「継体大王と紀氏」でもお話を聴講させていただけた、栄原永遠男氏の説を引用されます。つまり、6世紀前半から紀氏の勢力削減を狙って紀ノ川付近に屯倉を設置したり直属の部民゛海部゛を編成し、紀氏勢力の内部対立が起こった結果、大和王権側の紀伊国造とそうでない紀朝臣に分かれていったと考えられます。なかひら氏は日前神宮・國懸神宮の創建を、これらの動きのあった600~700年頃と考えられ、天武天皇の国懸神への奉幣は、中央の圧力が紀国に強く及んだ事の表れとされています。
・和歌山電鉄、タマ電車。(他に、おもちゃ電車にも乗りました)
御朱印は、お参り前に社務所に預けてお願いするのが良いです。まずお参りしてから、が基本なのですがが、ここは一時預かって書いてくれるシステムにしているようです。時間の節約にもなりますよ。
(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 紀伊」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、なかひらまい「名草戸畔-古代紀國の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、勝友彦「親魏倭王の都」その他大元出版書籍)
・初回投稿:2019-5-18