摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

竈山神社(和歌山市和田)~伝承が語る彦五瀬命と名草戸畔、そして明神大社の静火神社~

2021年01月30日 | 和歌山・紀伊

今城塚古代歴史館の今年の春季特別展「継体大王と紀氏」に触発されて、"紀伊国"和歌山の神社にお参りしてきました。まずは、特に皇室ゆかりの竈山神社です。

 

【ご由緒、ご祭神】

いわゆる神武東征における孔舎衙坂での長髄彦との戦いで、神武帝の兄、彦五瀬命が流れ矢に当たって負傷し、南方に進路を変更した後、雄水門で崩御、この竈山に葬られたという記紀神話が広く知られています。その陵墓の傍らに鎮座する神社です。一方、地域の伝承によると、彦五瀬は竈山の南西にある吉原まで来て亡くなったとも言われてるそうです。


・和歌山電鉄、竈山駅から歩くと、まず竈山墓が先に有ります。当日は橋にも入れませんでした。


・竈山墓の前、神社の東側の小川。

 

延喜式、式内小社で旧官幣大社。祭神はその彦五瀬命です。神社の東側を流れる小川は「血流し川」と呼ばれ、彦五瀬命が傷を洗った所と伝えられています。竈山の陵墓は宮内庁で管理されています。天正13年、1585年に豊臣秀吉によって神領を没収され衰退しますが、紀州藩初代藩主徳川頼宣により現在地に復興されました。


・竈山墓のすぐ先の入口から入ると、門の前に出ます


・拝殿

 

【名神大社 静火神社】

竈山の東の薬師山に、式内名神大社の静火神社があります。天正の兵乱までは竈山神社からこの地まで神輿の渡御をしていました。渡御が途絶えて以降、神幸所に静火神社が遷されます(以前は、東の田の中にあり、その旧跡(今は道路脇)には立派な碑が有ります)が、永仁年間以前に廃絶。時を経て、1724年に復興しますが、その後竈山神社境内に移されます。現在の社は再び村人の手で祀られたもので、竈山社の摂社になっています。竈山・静火神社のある地 は、かつては日前・国懸神宮の神領でした。「国造家旧記」によりますと、日前・国懸神宮の境内には、かつては国造家先祖の天道根命を祀る草宮があり、毎年9月15日に静火神を神幸させ静火祭を行っていました。つまり静火神社は国造家と関係し、その祖先が建てた事を示しているようです。

 

【竈山神社の旧鎮座地】

谷川健一編「日本の神々 紀伊」で丸山顕徳氏が、今の薬師山こそ竈山神社の旧地で、本来の竈山の神は静火の神だったのでは、と推定されています。そして、律令時代の陵墓治定にともない竈山の神として彦五瀬命が祀られ、一方、静火神社は本来の竈山の神の性格と、本来の祭祀者である紀伊国造家との関係を継承したのではないか、という事です。でないと、皇軍を率いた彦五瀬命を祀る竈山の神が式内小社で、他方が明神大社である理由がうまく説明できない、と書かれていました。


・拝殿背後の本殿、奥行き方向の2段構えに見えます


 

【出雲伝承での彦五瀬命】

残念ながら既に絶版となっている、大元出版の「出雲と大和のあけ ぼの」には、筆者が竈山神社を訪れ、元社家だったという氏子さんへインタビューした時の会話が載っています。この方は、この地に残った、彦五瀬命の直系の子孫だと自称されています。

五瀬命の東征は3世紀の東征とは別の乱で、2世紀の出来事と云います。つまり、九州からの東征は2回有ったという事らしく、記紀ではそれが饒速日命と神武帝の関係に整理し直されたように見えます。

最初の東征では、淡路島の南から紀ノ川に入り、名草山に向かいましたが、そこの名草村の戸畔トベ(女村長)率いる軍勢から射られた毒矢が、五瀬命の肘と脛に当たり、それによりそこで亡くなったと、この本では述べられています。そして、近くの、この竈山に葬られたと云う事です。なお、紀伊の名草姫は、大和の登美氏に嫁入りされ、"八咫烏"をもうけた(か、姫のひ孫にあたる)と取れる家系図が上記の本に記載されています。また、名草戸畔の方は尾張氏に輿入れした話が「出雲王国と大和政権」にあるのが興味深いです。

 

・静火神社へはこんな急な坂道を少し登ります


・静火神社。(この神社の御朱印は竈山神社で頂けます。もちろん、お納めも1社分必要です)

 

【名草伝承での彦五瀬命】

なかひらまい氏「名草戸畔-古代紀國の女王伝説」でも、この地域の古社の神職家出身であり、終戦30年後までルバング島で潜伏されてたあの小野田さんによる地域伝承として、五瀬命は名草の地まで来て亡くなった話が紹介されていました。なかひら氏はその本で大元出版の東出雲王国伝承にも触れていて、同様な話が離れた地域で伝承されていた事に驚かれていました。

小野田氏の話を元にしたなかひら氏の説明では、名草軍はこの地の戦いで九州東征軍を撃退しており、その後の大和政権に対しても、紀国の人達は負けてないのだから、と簡単に服従しなかったようだとされています。その微妙な力関係が、静火神社が明神大社に、そして陵墓の控える竈山神社を小社にするという気づかいに現れたと考えられています。そもそも゛竈山゛は「南海道紀伊国神名帳」では、地祇三十坐に含まれる竈山神という地主神の名前なのです。

静火神社をあくまで単独で祀ろうとされてきた事も、この紀国の人達の思いの現れなのでしょうか。

 

・静火神社旧跡地。左に見えるのが現鎮座地の薬師山

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 紀伊」、宇佐公「古伝が語る古代史」、なかひらまい「名草戸畔-古代紀國の女王伝説」斎木雲州「出雲と蘇我王国」、勝友彦「親魏倭王の都」その他大元出版書籍

 

・初回投稿:2019-5-11


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